第26話
それは、そこに立っていた。
白にも似た銀色の長髪を振り乱し、人形とも人間とも思えぬ歯を剥き出しにした笑顔を晒すのは、金戸夫妻が語ったマリーによく似た怪異だった。いつから、そこに立っていたのか、扉の前に陣取るように佇んでいる。その体はドレスに包まれているが、真っ赤に染まっており、足元から流れ続ける赤い…血が裾のように広がり、シミとなって辺りを侵食していく。
皆が事態を認識するよりも早く、笑顔だった怪異は更にニッコリと笑い、そのトラバサミのような口を大きく開けると襲い掛かってきた。
「ひっ」
間下は固まっていた金戸あやの手を引き、飛び込んできた怪異の魔の手から鼻先スレスレで避けさせる。だが、怪異は怯むことなく、その大きな口を再び開けて追撃してきた。その様子に間下は金戸あやを守るように抱え込んで痛みに備える。その肩口に怪異の牙が突き刺さる寸前のところで、志貴が怪異の足を掴んで引っ張れば、バランスを崩した怪異は前のめりに倒れ込んだ。突然のことに、たじろいでいた金戸建志はパニックに陥りながらも怪異が乗り上げたテーブルごと突き飛ばせば、怪異は跳ねながら床を転がっていく。
その怪異に狙いを定めて間下は銃の引き金に指を伸ばした。怪異が体勢を整えるよりも早く放たれた銃弾は、怪異ではなく…床を傷つける。
撃つ直前で志貴が銃を下げさせたのだ。
「志貴っ! どういう」
「人形じゃない」
志貴の言葉に場の空気が固まる。噛みつこうとしていた怪異でさえ、ピタリと動きを止め、志貴たちをじっと見ていた。
「足が人間だった」
志貴は怪異を掴んだ時の感触を思い返すように左手を握り締める。もっと陶器のような固い衝撃が来ると思っていたが、実際は固いとはいえ明らかに人間の皮膚と肉の感触だったのだ。
「…私はマリー、人形の国のプリンセスドールよ」
「いや、君は人間だ」
戸惑いか、様子見か、戯れか、志貴の言葉に怪異の動きが再び止まる。
「元が人間なら、命を宿した人形の暴走というのは的外れだったわけか」
「かもしれない」
志貴の返事を聞いた間下は銃を一時的に下げると素早く志貴の手を取った。
【あけぬまに はらえはらえや ひとがたを うわべのみをば まこととみるな】
良くも悪くも自分たちを導いてきた芋虫は言葉を口にする。
夜が明けないうちに、人形を祓え、うわべだけが、真と見るな…。今まで以上に抽象的だが、外見に囚われず、本質を見ろということだよな。
「私はマリー、だよ。人形の国のプリンセスドールよ」
「君は人間だ」
言葉も見た目も、あの人形のマリーにそっくりだが、体は人間なのだ。あのベッドに縛り付けられていたマリーとは違う。
「じゃあ、わたしはだれ?」
同じ言葉を繰り返していた怪異が首を傾げたかと思うと、別の言葉を口にした。なら、誰なのか。もし、マリーでないならば、何故この夫妻に固執するのか? 執拗に害を成そうとするのか? 接点も分からなければ、動機も分からない、疑問ばかりが噴出する。
「…他に、怪異に対する心当たりはありませんか」
前方に注意を向けながら志貴は背後に尋ねる。だが、金戸夫妻は二人の後ろで身を縮めて知らないと首を横に振るばかりだった。
「……前に、人が死んでいると通報を受けたことがあるな」
出口を怪異に塞がれ、現状を打破する方法も思い浮かばず、完全に手詰まりだと思っていたのは、志貴だけだった。間下は地を這うような低い声で金戸夫妻に問う。
「答えろ」
「…えぇ。警察が来ましたけれど、それは通報した方が人形のマリーを人だと見間違えただけで」
「俺の私見だが、人形相手に車椅子や部屋を用意しているアンタらが、人形をそのまま床に寝かせるか」
志貴はまさか…と息を呑む、威圧的な質問の先にある間下の考えに辿り着いたからだ。あの通報は桜川さんが倒れている人形を人だと勘違いしたという話だったが、もし勘違いじゃないのならば…。
「この家で本当に人が死んでいたんじゃないか」
「そ、そんなことはありえません!」
聞こえたのは否定の声。だが、夫妻の声音は間下はおろか志貴でさえも見逃せないレベルで動揺していた。
「この怪異についても身に覚えがあるんじゃないか」
「知らないわよ」
泣きそうな金戸あやの言葉に反応したのは怪異だった。まるで、糸で引っ張られたかのように飛んできて、獲物を噛みちぎろうと大口を開けていた。
「ぐっ」
志貴たちには目もくれず、金戸夫妻に向かっていく怪異を間下は跳びついて取り押さえた。少し遅れて志貴も怪異の腕を掴んで地面に押さえつけるが、男二人で押さえつけても怪異は地面を少しづつ這って、ガチガチと歯を打ち鳴らしながら金戸夫妻へとにじり寄っていく。
「私はマリー、人形の国のプリンセスドールよ」
「君は人間だ。人形じゃない」
そう返すたび、怪異は歯を打ち鳴らす笑みを止めて、己を見つめてくる。志貴は何度も同じことを考えた。
…目の前の彼女は誰なのか。
間下が引き出した情報により、一つの突破口は見えている。もし、あの通報が桜川さんの勘違いでないのならば、この家でマリーによく似た子が血を流して倒れていたということになる。そして、この夫妻はそれを承知したうえで、未だに何かを隠している。
間下が怪異を押さえながら金戸夫妻に問いかけ続けているが、知らない、証拠がない、勘違いの否定の言葉を二人は積み上げるばかりだ。
あの日、桜川さんは何を見たのか。
…?
そもそも、何故、この家の周りを歩いていた?
ここは高級住宅街の真ん中だ。どこかに行く近道には適していない。
児童養護施設の先生が何の用で……
『子ども想いの先生に何が…』
『児童養護施設「松の子学園」職員 桜川桃菜』
『桜川桃菜は死ぬ数日前に警察へ通報している。人が死んでるとな』
『少女人形を人間と見間違えた桜川桃菜の勘違い』
『私たちは子宝に恵まれなくてね』
『いくつかの児童養護施設に寄付』
『二か月近くに渡って人形が独りでに動くところを目撃した情報』
『なんでも、ある夫婦が愛娘のように人形を可愛がっていたら、とうとう人形に命が宿って人間になったというものらしい』
『今月に入ってから動く人形の目撃情報がぴたりと止まった』
『一週間前の夜…家の中に化け物が現れて、私たちに襲い掛かってきたんです』
『二か月前からのアルバムがない』
「…金戸さん、松の子学園で養子をとっていませんか」




