第100話
当主の仕事、松木家関連の厄介事に根詰めていた志貴が、久方ぶりに朗らかな笑みを見せた。楽しそうなご歓談中の志貴を横目に、間下はコーヒーを啜りながら月を見上げた。
事件が解決し、ある程度の引越しの荷造りを終えた夜、いつものように間下は洗面台で歯を磨き、寝床に入ろうとしていた。
あの夜の日々は、たった数日程度の出来事だったが、自宅で一人過ごしているだけで、重たい仕事を片づけた後のような達成感がある。事件は一区切りついたものの、警察では対処しきれない事柄もあると身体に叩き込まれた。子供の頃の夢をがむしゃらに追いかけ、警察組織に身を置いた間下だったが、警察ではカバーしきれない事件が世の中には溢れ返っていると思い知らされた。
そう、今回の事件のように…。
元々、警察を辞めて探偵に転身する腹積もりだった間下は、これも一つの後押しと考え、探偵事務所に近いアパートを住処に選んだ。
今後の進路について、あれこれ考えていると、ふと…視線を感じた。
本能的に鏡を見た時、『ソレ』と目が合う。
「っ!」
志貴が後ろに立っている。
洗面台の鏡には、薄暗い廊下から…俯いた状態で瞳孔だけをこちらに向ける志貴が映っていた。間下はすぐさま振り返ったが、背後には誰も立っていない。
ありえないのだ、もう事件は終わり、志貴は松木忠輔として松木家の自宅にいるのだから。見間違いか…と鏡に向き直ると、間下の背後にまで志貴は移動してきていた。
その目はじっと間下を見ている。
「…」
バク、バクバクバク…という心臓の早鐘をきっかけに、体中が警鐘を鳴らす。自宅という空間で起きた怪奇現象に身体は強張り、鏡にしか映らない志貴によく似た「ナニカ」に間下は思考が停滞する。
仕方のないことだ。異界から帰ってきたというのに、再び理不尽の化身が目の前に現れたのだから。それでも、間下は状況を打開しようと震える体で、鏡越しに相手の出方を伺っていた。
「寂しい…」
耳元で志貴の声が聞こえた。
「遠くに行かないでくれ」
「この地から離れないでくれ」
「一緒に居てくれ」
「寂しい、寂しいんだ…」
「独りにしないでくれ」
慟哭にも似た声と共に、鏡に映る志貴のカタチをしたソレは膝を折って、間下の足元で泣き出した。現実には何も見えず、しがみつかれている感覚もないが、声や鏡に映る姿は間下の心を動揺させた。
「……一蓮托生と言ってくれたじゃないか」
憐憫、次に同情、呆れ…もしかしたら、違う感情もあったかもしれない。
「俺も絆されたものだな」
間下は目の前の存在から目を離さぬようにスマホを取り出し、志貴に電話をかける。一度、二度…数回に渡ってコール音が鳴り、やがて短い電子音がして通話状態に切り替わった。
『…っ、ぅ……ました、どうした』
短くも長い沈黙を挟んで、志貴の掠れた寝惚け声が聞こえてきた。
「寝てたか?」
『寝る寸前だ…深夜、だからな。仕事をしていたわけじゃないぞ。ちゃんと寝ようと思ったんだが、ベッドが広すぎて慣れなくてな…』
「金持ち自慢か」
『ち、違うぞ。…それで、こんな時間にどうした…何かあったのか』
大アリだ。間下の視線の先には、年甲斐もなく泣きじゃくる志貴に似たナニカが居る。
「…まぁな。明日は暇だろ? 引越しの手伝いをしろ」
『え? あぁ、予定はないが…そういうのは業者に頼んだ方がいいんじゃないか…?』
「ほとんどの搬入は終わってる。たった数キロの運転ぐらい付き合え。それとも、偉くなったら運転係は嫌か?」
『そんなこと。…ん? 数キロ?』
「犬鳴市の環橋町に引っ越す予定だからな。今いるアパートから坂の下に移動するようなものだ」
『え…そう、だったのか、ははっ…』
「何、笑ってやがる」
『いや、てっきり、遠くに引っ越すものだと…』
「勝手に勘違いするな。で、手伝えるのか」
『そうだな。手伝うよ』
「…詳しくは明日、電話する」
『分かった。間下も寝るんだぞ、おやすみ』
プッ…ツーツー……
通話が切れると、志貴のカタチをしたナニカは消え去っていった。鏡に映っているのは、冷や汗を掻いて、間抜けなツラをした自分だけだ。
今日のような満月を見るたび、間下はあの日の夜のことを思い出す。あれから志貴にそれとなく探りを入れたが、アレについて何も知らない様子だった。だが、全くの無関係というわけでもないだろう。
「…ふんっ、一蓮托生と言ったのは俺だからな。今さら反故にするほど、薄情じゃないさ」
【完結】第100話まで更新完了!!!!!!!!!!
お疲れ様です。
水城です。
皆さん、めでたく最終回を迎えることができました!
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