第九話 隣人の正体
週末。
田中さんが「行ってみたい居酒屋があるんです」と予約してくれていたのは、駅前の喧騒から少し離れた場所にある、落ち着いた雰囲気の店だった。案内されたのは、周囲の視線が完全に遮断された、防音扉のついた完全個室。
「あの、田中さん……隣人同士のちょっとした飲み会なのに、こんな立派な個室でよかったんですか?」
私は戸惑いながら尋ねた。完全個室なんて、よほど込み入った話をするか、カップルのお忍びデートくらいでしか使わないような空間だ。
すると田中さんは、大きなマスク越しでもわかるほど困ったように眉を下げた。
「すみません、気を遣わせちゃいましたか?実は僕、人混みや騒がしい場所が少し苦手で……。それに、せっかく小林さんとゆっくりお話しできる機会なので、静かなところがいいなと思って」
「あ、いえ……そういうことなら、全然大丈夫です」
実家から出たばかりで一人暮らしに慣れておらず、さらに人混みも苦手。そんな彼が頑張ってお店を探してくれたのだと思うと、これ以上何か言うのは野暮な気がしてしまった。
「ありがとうございます。よかった」
ホッとしたように笑う彼に促され、私たちは向かい合わせに席についた。
しばらくして、注文したお酒と数品の料理が運ばれてきた。店員が「ごゆっくりどうぞ」と言い残して部屋を出て、重厚な扉がカチリと閉まる。
二人きりになった室内で、田中さんはようやく小さく息を吐いた。
「……ふう。やっと取れる」
彼はいつものように目深に被っていたパーカーのフードをゆっくりと下ろし、顔の半分を覆っていた大きなマスクを外した。
「えっ……?!」
現れたその素顔を見て、私の思考は一瞬で白濁した。
サラリとした、見覚えのあるペールブルーの髪。宝石のように透き通ったプラチナブルーの瞳。テレビや街頭ビジョンで毎日のように見かける、そして先日、ライブ会場で遠くに眺めていた、あの完璧に整った顔立ち。
「……え?たつみ、けい……?」
信じられないものを見るような目で呟いた私に向かって、彼はふわりと、あの柔和で甘い笑顔を向けた。そして、自身の薄い唇にスッと人差し指を当てる。
「身バレしたくないので、ナイショでお願いします」
悪戯っぽく微笑むその仕草は、まぎれもなく人気アイドル『辰巳 慧』そのものだった。
頭の中がパニックになる。どうして、人気アイドルが私の隣の部屋に住んでいるの?田中さんって偽名だったの?なんで、私と一緒に飲んでるの?
あまりの事態に言葉を失っている私を、彼はプラチナブルーの瞳でじっと、逃げ道を塞ぐように見つめてきた。
「驚かせてしまってすみません。でも、今日こうして小林さんを誘ったのは……ただお酒を飲みたかったからだけじゃないんです」
「え……?」
彼の纏う空気が、ふっと変わった。アイドルのようなキラキラしたものではない。もっと重くて、熱を帯びた、ひどく真剣な眼差し。
「……ずっと、確かめたかったんです」
彼は少しだけ私の方へと身を乗り出した。そして、私の心臓を直接指で突くような、決定的な一言を口にした。
「小林さん……もしかして貴女は、元アイドルの『詩羽』さん……ですよね?」
――ドクンッ。
心臓が、耳元で鳴っているかと思うほどの大きな音を立てて跳ねた。
嘘でしょ。どうして。
今の私は眼鏡をかけて、髪も三つ編みにして、アイドル時代の面影なんて消したつもりだったのに。完全に隠し通せていたと思っていた、私の過去。誰にも知られたくなかった、あの挫折の記憶。
それを、今をときめく人気アイドルに暴かれた。その事実への衝撃と恐怖で、私は全身の血の気が引いていくのを感じながら、ただただ彼を見つめ返すことしかできなかった。私の顔からすっかり血の気が引き、声も出せずに硬直しているその様子を、彼は値踏みするようにじっと見つめていた。恐怖と混乱で震える私をしばらく黙って堪能した後、彼はふっと息を吐き、すっと椅子に深く座り直して少しだけ距離を取った。
「そんなに怖がらないでください。僕のこと、覚えているでしょう?」
ニコニコと、テレビで見るのと同じ、いやそれ以上に甘い笑顔を向けられる。
覚えているか、と聞かれたら、そりゃあ覚えている。つい先日、由紀の付き添いで彼のライブに行き、あの圧倒的なパフォーマンスを目の当たりにしたばかりなのだから。私はフル回転する頭を必死に抑えつけ、引き攣った頬をどうにか動かして言葉を絞り出した。
「え、ええと……こ、この前のライブ、すごく素敵でした」
「わあ!うたたんに褒められるなんて嬉しいなあ♡」
私の言葉を聞いた瞬間、辰巳くんは顔にパッと花を咲かせたように破顔した。さっきまでの『大人しい隣人の田中さん』は完全に消え去り、そこには私を『うたたん』と呼ぶ、無邪気で熱狂的なファン――いや、今や日本中を熱狂させている人気アイドルが座っている。
「うたたんは、ファンの僕が成長しているところを、わざわざ見に来てくれたんですよね?」
「……え?」
予想外の言葉に、私は間の抜けた声を漏らした。
ファンの僕が成長しているところ?それってつまり、彼がまだただの男の子で、私のファンとして現場に通っていた頃の顔を、私が覚えていて……わざわざそれを見届けるためにライブに行ったと、彼はそう言っているのだろうか。
「じゃなきゃ、女性アイドル推しのうたたんが、わざわざ男性アイドルである僕のライブに来るはずがないですもんね」
嬉しそうに目を細める辰巳くんの言葉に、私は冷や汗がどっと噴き出すのを感じた。
「そ、れは……」
違う。全然違う。
私は貴方のことなんて欠片も覚えていなかったし、ライブに行ったのも同僚の由紀に泣きつかれて付き添いで行っただけだ。
でも、あのキラキラしたプラチナブルーの瞳で「自分のために来てくれたんですよね」と純度百パーセントの期待を寄せられている今、そんな残酷な真実を口にできるはずがない。もしここで否定したら、この密室で彼がどんな反応をするのか分からなくて恐ろしかった。
私が言い淀んでいるのを『図星を突かれて照れている』とでも解釈したのか、辰巳くんはふふっと嬉しそうに笑うと、自身のグラスを持ち上げた。
「ふふ、再会を祝って乾杯しましょう。かんぱーい!」
「か、かんぱい……」
カチン、と涼やかな音が個室に響く。彼が頼んでくれた特上のワインだが、極度の緊張と混乱で味覚が完全に麻痺しているのか、今の私には全く味がしなかった。
一方の辰巳くんは、これまで飲んだ酒の中で一番美味しく感じているのか、その整った顔にとろけるような笑みを溢れさせている。ワインを一口含み、グラスをテーブルに置くと、彼は再び少しだけ身を乗り出してきた。
「うたたん。今日は貴女にお願いがあって来たんです」
「お願い……?」
「ええ。僕は世間から見れば人気のアイドルかもしれないですが、自分ではまだまだ未熟だと思っているんです。だから……うたたんに、先輩アイドルとしてアドバイスしてほしくて」
まっすぐな、縋るような瞳で私を見つめてくる。
さっきまでの凄みのある態度はどこへやら、今の彼はまるで、憧れの先輩に教えを乞う純粋な後輩アイドルのようだ。けれど、その底には逃げ場をなくすような重たい執着が渦巻いているのがわかる。
「わ、私は……もう、引退していますから。それに、元々人気もなかったし、人気アイドルの辰巳さんにアドバイスできることなんて、何一つ……」
「そんなことないです!」
「ヒッ……?!」
私が後ずさるように拒絶すると、彼はテーブルの上に置かれた私の手を、両手でギュッと包み込んだ。
「うたたんは、誰よりもファン想いで……誰よりもステージで輝いていた、僕の最高のアイドルなんです! だから……お願いです。他の誰でもない、あなたの言葉じゃないと駄目なんです!」
熱を帯びた彼の手のひらから、逃れられない重力が伝わってくる。
引退して、ただの平穏なOLになったはずだったのに。私は一体どうして、こんな密室で人気アイドルに手を握られ、懇願されているのだろう。
頭の奥がクラクラと眩暈を起こす中で、私は彼が緻密に張り巡らせた罠の底へと、ゆっくりと引きずり込まれていくのを感じていた。
つづく




