第八話 ステップアップ
朝、会社に出勤して自席に着くなり、同僚の由紀が泣きながら抱きついてきた。
「詩ぃーっ!」
「うわっ!びっくりした。……って、泣いてるの?」
「慧くん、ようやく今日から復帰だよー!」
彼女の目からポロポロと溢れているのは、悲しみではなく完全なる喜びの涙だった。
「あ、ああ。そういえば、一週間お休みしてたんだよね。復帰は今日だったんだ」
「そうなの! もうほんっっっとに楽しみで! 今日は生放送のゲストに出るから、絶対に定時で帰るぞー!」
両手でガッツポーズを作り、興奮冷めやらぬ様子で鼻息を荒くする由紀。推しの突然の休養発表からこの一週間、ずっと抜け殻のように元気がなかった彼女がここまで嬉しそうにしている姿を見ると、なんだか私まで嬉しい気持ちになってくる。
よかったね、由紀。推しが元気で活動してくれるのが、ファンにとっては一番だもんね。
私は、まさかその人気アイドルが休養期間中ずっと私の隣の部屋で壁に張り付き、私の生活音をストーキングしていたことなど露知らず、微笑ましく彼女の背中を撫でていた。
一週間の『完全休養』を終え、僕は久々に事務所の楽屋に足を踏み入れた。
「辰巳くーん!よかった、本当によかった!!もう辞めるなんて言わないよね……!?」
顔を見るなり、マネージャーが半泣きで僕の手にすがりついてきた。この一週間、よほど生きた心地がしなかったのだろう。目の下に濃いクマができている。
僕は柔和な笑みを浮かべ、マネージャーの手を優しく握り返した。
「はい。ご心配をおかけして本当にすみませんでした。……もう、辞めるなんて言いませんよ」
今はまだ、彼女に近づくための『アイドル』という肩書きが必要だからね。
心の中の本当の理由など露知らず、マネージャーは「うおおおん!」と歓喜の涙を流して僕を抱きしめた。こうして、僕は再びトップアイドル『辰巳 慧』としての日常に復帰した。
復帰して最初の仕事は、生放送の情報番組へのゲスト出演だった。司会のアナウンサーが、台本通りに僕の休暇について触れてくる。
「辰巳さん、一週間ほどの長めのお休みをとられていたそうですが、リフレッシュできましたか?ファンの皆さんも心配していたようですよ」
「はい、ご心配をおかけしてすみません。ファンの皆さんからの温かいメッセージ、全部読んでいました」
僕はカメラの向こうにいるファン――いや、もしかしたらテレビを見ているかもしれない『彼女』に向けて、極上の笑顔を向ける。
「お休みの間、何をされていたんですか?」
「そうですね……ありきたりな答えになってしまうんですが、自分自身を見つめ直したくて。少し立ち止まって、これからの自分の進むべき道を、静かな場所でゆっくりと考えていました」
それは見事なまでの模範解答だった。司会者も「なるほど、常にトップを走る辰巳さんらしいストイックな休日の使い方ですね」と深く頷き、スタジオからは感嘆の拍手が湧き起こる。
まさか、その『静かな場所』というのが引っ越したばかりの防音性の低いマンションの一室で、『自分を見つめ直していた』のではなく『壁に耳を当てて隣人の生活音を完璧に把握していた』だなんて、誰も想像すらできないだろう。
完璧なアイドルの笑顔で、僕は内心で甘い優越感に浸っていた。
一方で、僕の裏の顔――いや、本来の目的である『ご近所付き合い』も、順調な滑り出しを見せていた。
僕の手元には、彼女の完璧な『生活リズム表』がある。これさえあれば、偶然を装って鉢合わせる機会を作るのは容易いことだった。
「あ、小林さん。おはようございます」
「あ……おはようございます。田中さん」
朝、彼女がドアを開けるタイミングから数秒遅らせて僕もドアを開け、ゴミ袋片手に声をかける。表札を見て名前を知ったという体で彼女を『小林さん』と呼び、僕自身は『田中』と名乗った。辰巳という名字は少し珍しいため、万が一にもアイドルだと特定されないよう、日本で一番ありふれた無難な名字を選んだのだ。もちろん、自室の表札にもダミーで『田中』と掲げてある。
相変わらず目元以外はパーカーとマスクで隠しているため、彼女の中での僕は『ちょっと怪しい格好だけど、挨拶はちゃんとしてくれる礼儀正しい隣人の田中さん』という位置づけに落ち着いているようだった。
「今日もいいお天気ですね。お仕事ですか?」
「はい。田中さんも、これからですか?」
「ええ。僕は少し不規則な仕事なので、今日はたまたま同じ時間になりました」
少しずつ、本当に少しずつだが、警戒心は解けてきている。一緒にエレベーターを待ち、エントランスまで他愛のない世間話をしながら歩く。たったそれだけの短い時間が、僕にとっては麻薬のように甘く、強烈な幸福感をもたらしてくれた。
彼女のシャンプーの匂いが風に乗って香るたびに、頭がクラクラする。
うたたん、今日もすごく可愛い♡ああ、今すぐこの隣人という仮面を脱ぎ捨てて、君の足元に跪きたい……っ♡
「それじゃあ、私はこっちなので。行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい。気をつけて」
エントランスで別れを告げ、駅へと向かう彼女の背中を、僕は愛おしそうに見送った。
ご近所付き合いのフェーズは、着実にステップアップしている。彼女の中で僕が『完全に無害で親しい隣人の田中さん』になるまで、あともう少し。
待っていてね、うたたん。僕が君の『可愛い後輩』になる日は、もうすぐそこだよ。
マスクの下で歪な笑みを深め、僕は迎えのロケバスが待つ大通りへと歩き出した。
その日の夜、仕事から帰宅した私は、ひと息つく間もなくまとめたゴミ袋を手に取って部屋を出た。
マンションのゴミ捨て場に向かうと、ちょうどゴミを捨て終わって戻ろうとしていた隣人の田中さんと鉢合わせた。今日も相変わらず、パーカーのフードを目深に被り、大きなマスクをした完全防備の出で立ちだ。
「あ、こんばんは、小林さん」
「こんばんは、田中さん。お疲れ様です」
すっかり顔なじみになった隣人として挨拶を交わす。そのまま通り過ぎようとした時、彼が少し戸惑ったような声で私を呼び止めた。
「あの、小林さんはお酒とか好きですか?」
「え?ま、まあ人並みには……」
急な質問に目を瞬かせると、彼は少し前のめりになって言葉を続けた。
「あの!もしよければ、一緒に飲みに行きませんか?」
「え……?」
思いがけない誘いに、私は思わず立ち止まる。いくら顔なじみになったとはいえ、隣人同士で急に飲みに行くというのは少しハードルが高い。どう断ろうかと迷っていると、彼はしゅんとしたように少しだけ肩を落とした。
「あ……いきなりすみません。最近実家から出てきたばかりで、家に一人だと落ち着かなくて……。もし良ければ、なんですけど……」
マスク越しでもわかるほど照れくさそうに、そして少し寂しそうに笑う田中さん。
その言葉に、私は思わずくすりと笑ってしまった。なんだ、そういうことか。一人暮らしを始めたばかりの頃の、あの夜の静けさが急に心細くなる感覚。私にも覚えがある。怪しい格好をしているけれど、中身は等身大の普通の青年なんだなと思うと、なんだか放っておけなくなってしまった。
「実家から出てすぐは慣れないですよね。いいですよ、行きましょう」
「本当ですか!?ありがとうございます!」
パッと花が咲いたように声のトーンが明るくなる田中さん。こうして、私たちは週末に飲みに行くことになった。
つづく




