第七話 『偶然』
早朝。
僕は新居の小さなデスクの上にノートとペン、そして時計を用意した。今日から一週間かけて、彼女の生活のすべてを完璧に把握する。壁の向こうは、彼女の部屋である『202号室』。壁にぴったりと耳を押し当て、僕は静かに息を殺した。
朝、七時。
壁越しに、微かにスマートフォンのアラーム音が聞こえた。続いて、小さな足音が聞こえてくる。
……起きた!おはよう、うたたん♡
ノートに『7:00 起床』と丁寧に書き込む。僕の顔は、どうしようもないほどにやけきっていた。
しばらくして、パタパタとスリッパで歩く可愛らしい足音が聞こえ、水の流れる音がした。顔を洗っているのか、それとも歯を磨いているのだろうか。水を通した配管の僅かな振動すらも愛おしくてたまらない。
やがて、ガチャリと玄関のドアが開く音が響いた。
僕は急いで自室のドアスコープから外を覗き込む。カバンを肩にかけ、足早に廊下を歩いていく彼女の姿が見えた。
ここで「いってらっしゃい」と見送るだけで我慢できるはずがない。彼女が角を曲がった瞬間、僕は手早く帽子とマスクとサングラスの変装を済ませ、音を立てずに自室を飛び出した。絶対に神聖な影を踏まないよう、一定の距離を保ちながら彼女の背中を追う。同じ電車に乗り込み、彼女が降りたのは都心のオフィス街だった。人混みに紛れながら尾行を続けると、彼女は中規模だが清潔感のあるオフィスビルへと吸い込まれていった。エントランスの案内板と、彼女が入っていくフロアを確認し、僕は手元のノートに素早く『勤務先』を書き込む。
僕はそのビルのすぐ向かいにある、ガラス張りの喫茶店に入った。窓際の席を陣取り、ブラックコーヒーを頼む。ここからなら、あのビルのエントランスがよく見えるし、彼女が出てくるのを確実に見届けられる。
あのビルのどこかで懸命に働いている彼女の気配を、一番近くで見守ることができる喜びに、僕は口元を緩ませる。
頑張ってね、うたたん。僕がここでずっと見守ってるからね♡
冷めていくコーヒーには目もくれず、僕はただひたすらに、至福の溜息をつきながらビルを見つめ続けた。
時刻は九時を回ったところ。
うたたんがビルに入ってから、まだ一時間も経っていない。ノートを開き、『8:30 出社』と記した文字を指で愛おしそうになぞる。このビルの中で、彼女はどんな顔をして仕事をしているのだろうか。真剣な眼差しでパソコンの画面を見つめているのだろうか。それとも、上司に何か指摘されて、少し困ったように眉を下げているのだろうか。ああ、どちらにしても、きっとたまらなく可愛いんだろうな。想像するだけで胸が苦しくなる。今すぐあのビルに乗り込んで、彼女を抱きしめたくてたまらない。でも、そんなことをしたら彼女に嫌われてしまう。だから今は、ここで我慢しなければ。
十時。
道行くサラリーマンやOLたちが忙しそうに通り過ぎていく。彼らの誰一人として、僕がここで、世界で一番尊い存在を見守っていることに気付いていない。僕と彼女だけの、秘密のつながり。そう思うと、優越感でいっぱいになる。ノートの新しいページに、彼女の今日の服装を描き留める。淡い水色のブラウスに、グレーのタイトスカート。足元は歩きやすそうな黒のパンプス。きっちりと編み込まれた三つ編みが、彼女の真面目で清楚な雰囲気を引き立てていた。そのすべてが、完璧だった。
十二時。
お昼休みだ。エントランスから次々と人が出てくる。僕は喫茶店を出た。目を皿のようにして、その中から彼女の姿を探した。
……いた!
同期らしき女性二人と一緒に、楽しそうに笑いながら歩いてくる。その笑顔があまりにも眩しくて、僕は思わず目を細めた。彼女たちが近くのコンビニに入っていくのを見届け、僕はノートに『12:05 昼休憩(同僚と)』と書き込む。何を買うんだろう。お弁当?それともパン?彼女が食べるものなら、なんだって美味しく感じるはずだ。十分後、彼女たちはビルに戻っていった。たった十分間。その短い時間だけでも彼女の姿を見られたことに、僕は深く感謝した。
午後十四時。
コーヒーはすっかり冷めきり、氷も溶けて薄い泥水のようになっていたが、そんなことはどうでもよかった。僕の意識は、常にあのビルのエントランスに集中している。時折、ノートに彼女への想いを書き連ねる。
『うたたん、今日も可愛いね』
『うたたんの笑顔が見たいな』
『うたたん、愛してる』
誰にも見せることのない、僕だけの祈り。文字にするたびに、彼女への想いが深まっていくのを感じる。
午後十六時。
日が傾き始め、ビルの窓ガラスが夕陽を反射してオレンジ色に染まる。彼女のいるフロアも、きっと美しい光に包まれているのだろう。
「もう少しだよ、うたたん」
僕は誰にも聞こえない声で呟いた。もうすぐ、彼女がこのビルから出てくる。また、彼女の後ろ姿を見つめながら、同じ空気を吸うことができる。その瞬間を待ちわびるあまり、心臓の鼓動が早くなっていくのがわかった。
午後十八時。
定時は過ぎたはずだが、彼女はまだ出てこない。残業だろうか。彼女の細い肩に、重い責任がのしかかっているのかと思うと、いたたまれなくなる。僕が代わってあげられたらいいのに。彼女を苦しめるすべてのものを、僕が排除してあげたい。
ノートの隅に、彼女の似顔絵を描き始める。彼女の美しい輪郭を、愛らしい目元を、少し開いた口唇を、そして毛先まできれいに編まれた三つ編みを。何度も何度も修正を加えながら、再現していく。紙の上に現れた彼女は、静かに僕を見つめ返しているように見えた。
……夜、十九時。
とうとう、エントランスに彼女の姿が現れた。少し疲れたような表情を浮かべている。
「お疲れ様、うたたん」
僕は急いでノートを閉じ、荷物をまとめた。冷めきったコーヒーを一気に飲み干し、喫茶店を飛び出す。エントランスから出てきた彼女を再び尾行し、同じ電車に乗る。彼女がマンションのエレベーターに乗り込むのを見届けてから、僕は急いで階段を駆け上がり、先回りして自室へと滑り込んだ。
壁に耳を当てて待つこと数十秒。隣の部屋の鍵が開く音がした。
「……ふぅ、疲れたあ」
昨日と同じ、小さく漏れた彼女の生声。
おかえりなさい、うたたん♡
僕は壁に頬をすり寄せながら、今日一番の幸せを噛み締めていた。
この日から一週間、僕は祭壇作りの時間と睡眠時間以外、ほとんどを『壁に張り付くこと』と『喫茶店からの見守り』に費やした。
起床時間、出勤時間、通勤経路、帰宅時間。さらには休日の外出時間や、よく行くスーパーまで。
一週間後、僕のノートは彼女の完璧な『生活リズム表』へと姿を変えていた。
これで、いつでも『偶然』を装って一緒に家を出ることも、『偶然』同じタイミングで帰ってくることも、自由自在に演出できる。
「明日から、どんな風に声をかけようかな。突然の運命的な再会に、きっと驚いてくれるよね……♡」
祭壇の真ん中で、壁越しに聞こえるドライヤーの音を極上のBGMにしながら。僕は緻密に埋め尽くされたノートのページを愛おしそうに撫で、甘く濁った笑みを浮かべていた。
一週間の『生活リズム調査』を終え、いよいよ今日から実践だ。
朝七時四十四分。僕は自室の玄関に立ち、ドアノブに手をかけたまま息を殺していた。
壁の向こうの気配に全神経を集中させる。パタパタという足音が玄関に近づき、カバンを持ち上げる衣擦れの音がした。そして、ガチャリと鍵が開く。
今だ。
僕は彼女がドアノブを回した音を聞いた瞬間、すかさず自身のドアを押し開けた。
「……あ」
ドアを開けてすぐ、ばったりと鉢合わせた形になり、うたたんは目を丸くして驚きの声を漏らした。
生うたたんが、数十センチの距離にいる。その破壊力に、心臓が肋骨を突き破って飛び出そうになった。
抱きしめたい。触れたい。匂いを嗅ぎたい。
頭をよぎる危険な衝動を必死に抑え込み、僕はごくりと熱い喉を鳴らした。そして、表面上はあくまで冷静な『隣人』として、マスク越しでも伝わるように目を細め、完璧な笑顔を作ってみせた。
「……おはようございます」
「お、おはようございます」
「これから出勤ですか?」
「は、はい」
「朝から大変ですね。行ってらっしゃい」
にこやかに、かつ爽やかに送り出す。ここで引き留めすぎては不審がられるから、これくらいがあっさりしていて丁度いいはずだ。
僕の淀みない声に気圧されたのか、彼女は「あ……は、はい……」と困惑したように会釈をして、足早に廊下を歩いていった。
彼女の後ろ姿を見送る僕の顔は、抑えきれない歓喜でだらしなく崩れていた。
朝の出勤時、ドアを開けると同時に隣の部屋の人が出てきて、ばったりと鉢合わせてしまった。
先日、ドアノブに引越しの挨拶の菓子折りをかけておいてくれた人だ。挨拶を交わし、にこやかに見送られた私は、足早に駅へと向かいながら首を傾げた。
それにしても、不思議な雰囲気の人だったな……。
黒いパーカーのフードを目深に被り、大きなマスクで顔の半分以上を覆っていた。いくら朝とはいえ、マンションの廊下でそこまで顔を隠している姿には少し違和感を覚える。
ただ、フードとマスクの隙間から覗く目元だけでも、ハッとするほど顔の造りが整っているのがわかった。深く被ったパーカーの奥に見えた、サラリとした水色の髪。そして、ふわりと細められたプラチナブルーの綺麗な瞳。
目元だけでも分かるくらいの超イケメンだった……。水色の髪なんて珍しいし、アパレル関係とか、美容師さんとか、そういうお仕事の人なのかな。
一瞬、どこかで見たことがあるような気もしたが、気のせいだろう。世の中には色々な仕事があるし、色々な人がいるのだ。
駅に着き、いつものように満員電車に滑り込む。カバンからイヤホンを取り出して耳に装着し、お気に入りのプレイリストを再生した。流れてきたのは、もちろん私の生きる糧である『桃色チーカーズ』の元気なナンバーだ。可愛らしい歌声が鼓膜を揺らすと、私の脳内は一瞬にして推しのことでいっぱいになった。
はぁ〜、今日も推しの声が可愛い!よし、推しのために今日も一日しっかり稼ぐぞ!
音楽のリズムに身を委ね、スマートフォンの画面で女性アイドルの情報を追っているうちに、ハッとするほど綺麗な目をした隣人のことなど、私の頭からはすっかり綺麗に消え去っていた。
彼女の後ろ姿が完全に見えなくなってから、僕は手ぶらのまま部屋に戻るのも不自然だと思い、玄関に用意しておいたダミーのゴミ袋を持ってゴミ捨て場へと向かった。ゴミ出しなんて、彼女と鉢合わせるためのただの口実に過ぎない。無事にミッションを終え、自室である203号室に戻った僕は、そのままベッドに深く身体を沈めた。
「……あーあ。仕事、行きたくないなあ」
ぽつりと、本音が天井に向かってこぼれ落ちる。一週間の夢のような休暇は終わり、今日からまたアイドルの仕事が再開する。
本当はずっとここにいたい。壁の向こうに残る彼女の気配を、一秒でも長く感じていたい。
人気アイドルとして多忙な日々を送ってきたおかげで、僕の収入は一般の比ではないくらいに稼いでいる。しかも、僕のすべてを捧げて貢ぐ先だった『うたたん』が引退してからはお金の使い道が極端に減り、銀行口座には一生遊んで暮らせるほどの貯金が膨れ上がっていた。
正直なところ、僕が労働をする理由などもはやどこにもないのだ。
けれど……。
「どうしたら、うたたんと距離が縮まるかなあ」
ベッドの上でゴロゴロと寝返りを打ちながら、僕は思考を巡らせる。もちろん、ただの『隣人』として挨拶を重ね、時間をかけてゆっくりと近づいていくのが一番確実で安全な手だろう。しかし、僕がこのままアイドルを続けるとなれば、当然のことながら生活リズムは一般のOLである彼女とズレていく。夜遅くの帰宅や、早朝のロケだって増えるだろう。
そんなのは嫌だ。僕はこれから先も、できれば毎日、たくさんの『生うたたん』をこの目に焼き付けたいのだ。どうにかして、もっと強固な接点を作らなければ。
「……そうだ!」
僕の脳内に稲妻のようなひらめきが走った。ガバッと勢いよく上体を起こす。
そうだ。僕がアイドルであることを、最大限に利用すればいいんだ。僕がアイドルになったことを喜んで、ライブにまで足を運んでくれた優しい『先輩アイドル』としての彼女に、仕事の相談に乗ってもらえばいい!
急に距離を縮めたら困惑されて嫌われてしまうかもしれない。そんなことは絶対にあってはならない。何度か隣人として顔を合わせ、世間話ができるくらいに警戒心を解いてもらう。そして、ある程度打ち解けた絶好のタイミングで、思い切って切り出すんだ。『……もしかして、小林詩羽さんですか?』って。
うたたん、どんな顔をしてくれるかな。絶対に驚いて目を丸くするはずだ。身バレしたと思って、あわあわと慌てるかもしれない。その驚いた顔も、困って赤くなった頬も、絶対に可愛いに決まっている。
『僕のライブに貴女が来てくれて、本当に嬉しかったんです。でも今、アイドルとして壁にぶつかっていて……先輩として、相談に乗ってもらえませんか?』
そう真剣に訴えかければ、誰よりも優しくてファン想いな彼女が、僕を無下に見捨てるはずがない。
「ふふっ……あははっ!完璧だ。僕ってば天才かもしれない」
妄想がとめどなく溢れ出し、抑えきれない笑い声が部屋に響く。そのためには、僕自身が『現役のアイドル』であるという肩書きが必要不可欠だ。
「よし。……まだ僕は、アイドルを続けなくちゃいけないな」
ベッドから飛び起きると、先ほどまでの憂鬱な気分は嘘のように晴れ渡っていた。僕はクローゼットを開け、鼻歌交じりに、今日から再開する仕事へ向かうための準備を始めた。
つづく




