第六話 隣人
翌日。僕はマネージャーに無理を言って半日のオフをもぎ取ると、すぐさま引っ越し業者を手配し、自宅のタワーマンションで荷造りを始めていた。超人気アイドルとしての地位や、セキュリティ万全のこの高級マンションに未練など微塵もない。僕の帰るべき場所は、彼女の隣の『203号室』だ。入居審査は今日の昼にはあっさりと通り、明後日には鍵を受け取れることになっている。段ボールを組み立てながら、僕はふと手を止め、部屋の奥にある『特別な扉』を開けた。
そこは、僕以外の誰も絶対に入れない、僕だけの聖域。
壁の一面を隙間なく埋め尽くすのは、水色の衣装を着た彼女の同じブロマイド。ベッドの上には、彼女の顔がプリントされた何百個という缶バッジが、寸分の狂いもなく整然と敷き詰められている。棚にはアクリルスタンドやぬいぐるみが、まるで神像のように恭しく飾られていた。世間のオタクたちが『祭壇』と呼ぶ、推しへの愛と感謝を表現するための神聖な空間。
十年間、僕が彼女へ捧げ続けてきた愛の結晶であり、僕の人生そのものだった。
「うたたん……♡」
僕は壁に飾られた無数の彼女と目を合わせ、ふにゃりとだらしない笑みを浮かべた。
彼女がデビューした十五歳の頃から、出たグッズは保存用、観賞用を含めてすべて限界まで買い占めた。少しでも彼女の売り上げに貢献したかったし、彼女の笑顔の理由になりたかったから。
――『あ、また来てくれたんですね!ありがとう!』
握手会での、彼女の弾むような声と、両手で包み込んでくれたあの温かい感触が蘇る。
うたたんはいつも、ファン一人一人に真摯に向き合ってくれる、本当に優しいアイドルだった。適当に流すようなことは絶対にせず、まっすぐ目を見て会話を交わしてくれた。だからこそ、顔を覚えてもらえたファンもたくさんいたし、僕もその中の一人だったと自負している。
引退直前には、僕が名乗る前に「いつもありがとう!」とあのえくぼを浮かべて笑ってくれたのだ。あの時の歓喜たるや、思い出すだけで今でも泣きそうになる。
……そこで、僕の思考は急激に一つの仮説へと結びついた。
ちょっと待てよ……?
女性アイドルしか好きじゃないはずの彼女が、なぜ男性アイドルである僕のライブに来たのか。昨日からずっと不思議に思っていたけれど、一つの明確な答えがそこにはあるじゃないか。
もしかして……うたたん、僕のこと、あの時のファンだって気付いてくれたんじゃ……?
ドクンッ、と心臓が大きく跳ねる。僕は彼女の視界に入るために、泥水すするような努力をしてアイドルになった。歌もダンスも死に物狂いで練習し、垢抜けなかった容姿も徹底的に磨き上げた。でも、根本的な顔の造りは変わっていない。もし、テレビや街頭ビジョンで僕の顔を見た彼女が、「あ、この子、あの時の熱心なファンだ」と気付いてくれたとしたら?
「だから、僕の成長を見届けるために、昨日のライブに……っ!」
声が上擦った。顔に一気に熱が集まるのが分かる。
間違いない。そうに決まっている。女性アイドルしか愛せない彼女が、わざわざ僕のライブのチケットを取り、あの場に足を運んでくれた理由。それは『ただのアイドル・辰巳慧』を見に来たのではなく、『自分のファンだった男の子』に会いに来てくれたんだ。
僕の想いは、とっくに彼女に届いていたんだ……!
「あはっ……ふふっ、あははははっ!」
誰もいない聖域で、僕は一人、歓喜の声を上げて笑った。彼女は僕に気付いている。僕に興味を持ってくれている。僕の十年の愛は、決して一方通行なんかじゃなかった。
なら、隣に引っ越した僕に気付いた時、彼女はどれほど喜んでくれるだろう。運命だと、そう思ってくれるに違いない。
「待っててね、うたたん。すぐに君のそばに行くからね♡」
幸せな妄想の海に溺れながら、僕は祭壇のグッズたちにそっと手を伸ばした。彼女の分身とも言える大切なグッズたちを、一つ一つ、赤子を抱くように優しく緩衝材で包み込んでいく。傷一つつけないよう、息を詰めて、慎重に、丁寧に。
新しい部屋――彼女のすぐ隣の部屋で、また一からこの祭壇を組み上げるのが、今から楽しみで仕方なかった。
「……というわけなので、僕、アイドル辞めます。今までお世話になりました」
引っ越しを終えた直後の朝。電話口で僕があっさりとそう告げると、マネージャーは絶叫にも似た悲鳴を上げた。
『はぁ!?ちょっと待って辰巳くん、冗談だよね!?今、君がどれだけの仕事を抱えてると思ってるの!?』
「冗談じゃありません。僕がアイドルになった目的はすでに達成されたので、これ以上続ける意味がないんです」
僕がアイドルになったのは、すべては彼女――うたたんに認知され、近づくためだ。その彼女をすでに見つけ出し、隣の部屋に住み、さらには彼女の方から僕の存在に気付いてライブにまで会いに来てくれた。僕の目的は、百パーセント以上の形で完遂されたのだ。これ以上、見ず知らずのファンたちに向けて笑顔を振りまき、無駄な時間を過ごす義理はない。
『目的って……いや、待って!頼むから思い留まってくれ!事務所の稼ぎ頭に今抜けられたら、本当に会社が傾くんだよ!』
マネージャーの必死の懇願は、小一時間にも及んだ。あまりにもマネージャーがしつこく引き下がらないため、これ以上揉めて彼女との時間を削られるのも癪だと思い、僕は一つの妥協案を提示した。
「……わかりました。辞めるのは保留にします。その代わり、今日から一週間、完全な有給休暇をください。その間は一切連絡もしてこないでください」
『い、一週間!?……わ、わかった。なんとか調整する。だから絶対に辞めるなんて言わないでくれよ!』
渋い顔をしたマネージャーから、一週間の完全オフを勝ち取る。これは天からの贈り物だ。僕は早速、この貴重な『休暇』の初日を最大限に活用することにした。
引っ越し作業が一段落した夜。僕は用意していた高級な焼き菓子の菓子折りを手に取り、意を決して隣の『202号室』へと向かった。
黒いパーカーのフードを深く被り、顔には大きめのマスク。不審者そのものの格好だが、今の僕が彼女と対面すれば、その熱を孕んだ瞳だけで僕の正体が――いや、僕のどろどろとした執着がバレてしまうかもしれない。
震える指で、インターホンを押す。ピンポーン、という音が静かな廊下に響き渡り、僕の心臓はドラムのように激しく鳴り響いた。
『……どちら様ですか?』
スピーカー越しに届いた、あの愛してやまない鈴を転がすような声。僕は息が止まりそうになるのを必死に堪え、できるだけ『感じの良い隣人』を装って口を開いた。
「こんばんは。隣の203号室に今日引っ越してきた者です。引っ越しのご挨拶に伺いました」
『あ、わざわざありがとうございます。今開けますね』
彼女がドアを開けようとする。その気配を感じた瞬間、僕の足はガクガクと震え出した。
駄目だ。今、彼女を直視したら、きっとその場に崩れ落ちてしまう。あるいは、抑えきれない衝動で彼女を抱きしめてしまうかもしれない。
「いえ!夜分にご迷惑だと思いますので、お菓子はドアノブにかけておきますね。……失礼します!」
返事も待たずに、僕は逃げるように自分の部屋へと滑り込んだ。背中をドアに預け、ずるずるとその場に座り込む。
うたたんと……会話できた……っ♡
心臓が痛いほど脈打っている。ただの一言二言、インターホン越しに言葉を交わしただけ。それだけで、頭の芯が痺れるほどの多幸感が全身を駆け巡った。
本当は今すぐあのドアを開けて、彼女の姿を目に焼き付けたい。けれど、焦ってはいけない。いくら彼女が僕に気付いているとしても、急に距離を詰めてきたら戸惑う筈だ。まずは『怪しくない隣人』として少しずつ存在を馴染ませ、彼女の日常に溶け込んでいくんだ。
「……ふふ、あははっ」
僕は暗い玄関で、一人膝を抱えて歓喜の余韻に身を委ねた。
つづく




