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古株ファンがヤンデレだった件  作者: 柊原 ゆず


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第五話 特定完了♡


 アンコールが終わり、ステージの袖に引っ込んだ瞬間、僕は誰よりも早く駆け出した。

 うたたん……っ、うたたん!

 頭の中は、先ほどアリーナ席で見つけた彼女の姿で完全に埋め尽くされていた。急いで楽屋に飛び込み、汗まみれのきらびやかな衣装を乱暴に脱ぎ捨てる。普段なら衣装スタッフに丁寧に手渡すのに、今日ばかりはそんな余裕は一ミリもなかった。ハンガーから適当に私服を引っ張り出し、急いで袖を通す。


「辰巳くん、今日もお疲れ様! いやあ、最高の盛り上がりで――」


 上機嫌で楽屋に入ってきたマネージャーの労いの言葉を遮り、僕はひったくるようにカバンを手に取った。


「ごめんなさい!急用が出来ました!埋め合わせは後で絶対にしますから!」

「えっ!?ちょ、辰巳くん!?」


 慌てて制止しようとする声を背中で振り切り、僕は楽屋を飛び出した。関係者専用の廊下を走りながら、黒いキャップの上にさらにパーカーのフードを深く被り、サングラスを付け大きめのマスクを着けた。完全に不審者以外の何者でもないが、今はそんなことどうでもよかった。

 来てた……!うたたんが、僕のライブに来てた……!

 心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく鳴っている。歓喜のあまり、全身がブルブルと粟立ったように震えた。

 ステージの上から客席を見渡すのは、ファンサービスであると同時に、僕にとって彼女を探すための『癖』のようなものだった。どうせ今日もいないだろう。そう思いながらも諦めきれずに視線を滑らせていた時。アリーナ席の中央に、信じられないほど愛おしい面影を見つけたのだ。目が合った瞬間に息が止まるかと思った。マイクにノイズを乗せてしまったことすら、どうでもよくなるほどの衝撃だった。

 関係者出口から外へ出ると、そこには家路を急ぐ何万というファンたちの波が広がっていた。


「うたたん……っ!」


 僕は人混みを掻き分けながら、必死に周囲を見回した。ペールブルーのグッズを持った女の子たちの顔を、一人一人舐め回すように確認していく。

 いない。いない。どこにもいない。

 あれだけの人数だ。退場口も複数あるし、すれ違うことすら奇跡に近い。時間が経つにつれ、熱く沸騰していた血がスッと冷え、足元から絶望感が這い上がってくるのを感じた。

 ……やっぱり、幻覚だったのかな。

 あの日、彼女が引退したショックで引きこもっていた時、ネットの海を隅々まで漁って知ったじゃないか。彼女が愛しているのは、清純で可憐な『女性アイドル』だけ。男のアイドルなんて、僕なんて、彼女の視界には最初から欠片も入らない。だからこそ、僕はアイドルになって彼女の好きなものを通じて認知されようと、ここまで必死に這い上がってきたんだ。

 それなのに……彼女が僕のソロライブに来るはずが、ない。きっとそうだ。あまりにも強く想いすぎたせいで、僕の脳が勝手に見せた哀れで都合のいい幻。冷たい鉛を飲み込んだように胸が苦しくなり、僕は諦めて踵を返した。とぼとぼと、楽屋へ戻るために歩き出す。

 その時だった。

 前方からやってくる、駅へと向かう人々の波。その最後尾の辺りから、話し声が聞こえた。


「……あ」


 ライブの余韻に浸り、興奮冷めやらぬ様子で熱弁を振るう女性。その隣で、少し困ったように、けれど優しく微笑みながら話を聞いている黒髪の女性が、僕の目の前を通り過ぎようとしていた。

 見つけた……!

 眼鏡をかけ、落ち着いた印象の服を着て、髪型も三つ編みへと変わっている。あの頃のキラキラしたアイドル衣装でもない。だけど、絶対に間違いない。

 白く細い首筋にある、小さな黒子。ふわりと笑った時にできる、あの可愛らしいえくぼの形。何よりも、大観衆の中で一目見た瞬間に僕の魂が『彼女だ』と確信した、理屈ではない直感。

 他の誰でもない。僕が十年間、ずっとずっと焦がれ続けた『小林 詩羽』その人だ。幻なんかじゃない。彼女は本当に、そこにいた。


「うたたん……!」


 マスクの下で、無意識に彼女の名前を呪文のように呟いていた。彼女たちが通り過ぎるのと同時に、僕は吸い寄せられるように踵を返し、二人を追った。距離を保ち、人混みに紛れながら、決して気付かれないように慎重に後を追う。彼女の歩くペース、彼女の呼吸、彼女の仕草のすべてを網膜に焼き付けながら。

 なぜ僕のライブに来たのか。それは、これからゆっくりと調べればいい。もう、遠くから見つめるだけのファンじゃ終われない。

 やっと見つけた。もう絶対に、逃がさない。

 暗闇の中で、サングラスの奥の瞳だけが、獲物を見つけた捕食者のように熱く濁った光を放っていた。






 彼女の友人は途中の駅で降りていき、うたたんは一人で電車に揺られていた。少し離れた車両のドア付近から、僕は息を殺して彼女を見つめていた。イヤホンをして、目を閉じて音楽を聴いているらしい。どんな曲を聴いているのだろう。どんなことを考えているのだろう。ライブの感想だろうか。それとも明日の仕事のことだろうか。考えただけで、愛おしさで胸が締め付けられそうになる。変装用のサングラスの奥で、僕の視線はただひたすらに彼女の横顔に釘付けになっていた。

 やがて彼女が降りたのは、都心から少しだけ離れた、閑静な住宅街のある駅だった。僕は足音を忍ばせ、一定の距離を保ちながら彼女の背中を追う。夜の静寂の中、彼女の靴音がコツコツと響く。その音の波長すら、僕にとっては極上の音楽に聞こえた。

 コンビニの角を曲がり、細い路地を抜ける。街灯の光に照らされて、彼女の影が長く伸びた。推しの影を踏むなどという、そんな恐れ多いことができるはずがない。僕はその神聖な影を心の中で深く拝み、絶対に踏まないよう慎重に避けながら後を追う。彼女という神様に仕える使徒のような気持ちだ。ただそれだけで、彼女と繋がっているような背徳的な喜びに背筋がゾクゾクと粟立った。

 そして、彼女は小綺麗なマンションの前で足を止めた。エントランスを抜け、エレベーターへ乗り込む彼女。階数のランプが点灯し、止まった階を確認してから、僕は階段を使って音を立てないように同じ階へと向かった。廊下の陰からそっと覗き込むと、彼女が鞄から鍵を取り出し、自分の部屋のドアを開けるところだった。


「……ふぅ、疲れたぁ」


 小さく漏れた彼女の生声。それだけで、耳の奥が熱く溶けそうになる。

 彼女が部屋に入り、バタン、とドアが閉まる。ガチャリ、と重たい金属音がして、鍵がかけられた。

 その瞬間――僕は彼女の部屋のドアの前に進み出ると、耐えきれずにその場にへなへなとしゃがみこんでしまった。

 特定っ♡特定……できた♡

 声に出してしまいそうな歓喜を、両手で口元を覆って必死に押し殺す。ドア一枚隔てたすぐ向こう側に、僕の愛してやまない人がいる。彼女の生活の匂いが、呼吸が、すぐそばにある。そう思っただけで、全身の血が沸騰し、頭の奥がジンジンと痺れた。

 僕は震える手でスマートフォンを取り出し、エントランスで確認したこのマンションの名前を検索窓に打ち込んだ。不動産会社のサイトがいくつかヒットする。頼む、頼むから空いていてくれ。祈るような気持ちで画面をスクロールしていく。


『空室あり:203号室』


 画面に表示されたその文字を見た瞬間、僕の心臓はドクンッと大きく跳ねた。

 203号室。

 今、目の前にある彼女の部屋の表札は『202』だ。まだ彼女の今の名前すら知らないけれど、そんなことはこれからゆっくりと知っていけばいい。大事なのは、空いているのが彼女の部屋の、すぐ隣だということだ。

 奇跡だ。神様が、長年彼女を想い続けてきた僕にご褒美をくれたんだ。僕は迷うことなく、即座にその不動産サイトの『入居申し込み』のボタンをタップし、手続きを進めた。家賃なんていくらでもいい。審査だって、今の僕の収入と社会的地位なら一瞬で通るはずだ。

 こ、これでっ、僕は、うたたんの隣に……っ♡暮らせる♡

 申し込み完了の画面を見つめながら、僕はスマートフォンの画面にそっと唇を落とした。壁一枚隔てた隣に僕がいるなんて、彼女は夢にも思わないだろう。朝起きるタイミング、出勤する時間、帰ってくる時間。すべてを一番近くで把握できる。運命的な『偶然の再会』を演出することだって、これならいくらでも可能だ。


「……ふふっ、あははっ♡」


 抑えきれない笑い声が、マスクの下から漏れ出す。立ち上がり、彼女の部屋のドアノブにそっと指先で触れてから、僕はマンションを後にした。帰路につく僕の足取りは、これまでの人生で一番、羽が生えたようにウキウキと軽かった。


つづく

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