第四話 ライブ
ドーム会場を埋め尽くすほどの、見渡す限りのペールブルーの光の海。開演を告げるブザーが鳴り響いた瞬間、鼓膜が破れんばかりの歓声がうねりとなって会場を揺らした。隣にいる由紀は、すでに泣きそうな顔で水色のペンライトを強く握りしめている。ステージ中央、眩い光の中から現れたトップアイドル『辰巳 慧』の姿に、会場のボルテージは一気に最高潮に達した。
「慧くーん!!」
由紀の絶叫が隣で響く。無理もない、と私はどこか冷静に感心していた。
一流アイドルのライブは、やはり圧倒的だった。テレビ越しでも伝わっていた透き通るような甘い歌声は、生で聴くとより一層の深みと艶がある。それに加えて、一切のブレがないキレのあるダンス。激しいパフォーマンスの中でも、彼が見せる柔和な笑顔は決して崩れない。元アイドルという視点で見ても、演出、構成、本人のスキル、すべてにおいて非の打ち所がない。
プロだなあ。これなら、由紀が『人間の形を保っていられなくなる』のも納得だわ。彼の大ファンというわけではない私でさえ、良質なエンターテインメントに触れた満足感で、自然とペンライトを振る手に力が入った。
数曲の激しいパフォーマンスが終わり、ステージ上の照明が少しだけトーンダウンした。ライブの中盤、彼が息を整えながらファンと交流するMCコーナーだ。辰巳は額に光る汗をタオルで軽く拭うと、マイクを握り直して柔らかく微笑んだ。
「皆さん、楽しんでくれてますか?」
その一言だけで、再び会場が揺れる。彼はファンを喜ばせるようなエピソードを面白おかしく語り始めた。そのトーク力はやはり見事なもので、会場は終始笑いと温かい空気に包まれている。
ふと、私は彼のある動作にプロの技を見た。彼は話しながら、ゆっくりとステージの端から端まで歩き、アリーナ席からスタンドの最後列まで、まるで一人一人の顔を確認するかのように丁寧に視線を送っているのだ。これぞアイドルの鏡だよね。どの席の人も『自分と目が合った』って思える魔法。私も現役時代、もっと勉強しとけばよかったなあ。そんなふうに、完全に『同業者(引退済み)』としての視点で感心していた、その時だった。彼が私たちのアリーナ席側のステージ端まで歩いてきて、ふと、私の方へと視線が滑ってきた。
――バチッ、と。
彼と、完全に目が合ったような気がした。
おぉ……! これが噂の『目が合った錯覚』ってやつか! すごい、今の角度、本当にこっちを見てるみたいだった!
私は、トップアイドルのファンサービスの凄まじさに一人で感動していた。この大人数の中で、一人の観客に「自分が見られている」と確信させる技術。さすがは今をときめく辰巳慧である。
ところが次の瞬間、マイクが彼の鋭く息を呑む音を拾った。
「――っ!」
流暢に紡がれていた彼の言葉が、唐突に途切れる。
え、演出? それとも機材トラブル?
不思議に思ってステージを見ると、辰巳は目を見開き、何かに驚いたような、あるいは信じられないものを見つけたような顔で、私のいる辺りを真っ直ぐに凝視したまま固まっていた。
マイクを持つ彼の手が、微かに震えているようにも見える。
あれ? どうしたんだろ。……あ、もしかして私の後ろの人、すごい派手なコスプレでもしてるのかな?
私は後ろを振り返ろうとしたが、次の瞬間、辰巳はハッと我に返ったように瞬きをすると、すぐにいつもの完璧な笑顔を顔に貼り付けた。
「あ、ごめんなさい! 皆さんのペンライトがあんまり綺麗だったから、ちょっと見惚れちゃいました」
その言葉に、ファンたちは「えーっ!」と嬉しそうな悲鳴を上げる。辰巳は何事もなかったかのように、再び流れるようなトークを再開した。その視線はもうこちらを向くことはなく、再び会場全体へと万遍なく向けられていた。
さすがプロ、動揺してもフォローが完璧。やっぱり、ライトの反射が眩しかったとか、そんな感じかな。それにしても、あの一瞬のフリーズはちょっと珍しいものが見れたかも。私はそんな呑気な感想を抱きながら、再び始まった曲に合わせてペンライトを振った。
今の私が、地味な眼鏡に三つ編み姿の一般人であること。そして、彼が数万人の観客の中から私を『うたたん』として見つけ出すはずがないこと。それらを微塵も疑わない私は、最後まで純粋にライブを楽しんだ。
それから数時間後、銀テープが空を舞い、大盛況の中でライブは無事に幕を閉じた。
「……最高だった。私、もう思い残すことはないよ……」
終演後の規制退場を待つ間、由紀は文字通り抜け殻のようになって隣の席で突っ伏していた。宣言通り屍になった彼女を「はいはい、お疲れ様」と苦笑しながら介抱し、私はカバンを手に取る。
いやー、本当にいいライブだった。由紀に誘われなきゃ一生来なかっただろうし、感謝しなきゃ。いい刺激になったなあ。
胸の奥にあるのは、純粋な満足感だけ。あの瞬間の、射抜くような鋭い視線が、実は自分だけに向けられた執念の塊だったなんて。何も知らない私は、上機嫌で会場を後にした。
つづく




