第十話 悪魔の契約
「うたたんは、誰よりもファン想いで……誰よりもステージで輝いていた、僕の最高のアイドルなんです! だから……お願いです。他の誰でもない、あなたの言葉じゃないと駄目なんです!」
彼の手のひらから伝わる熱と執念に圧倒されながらも、私はどうにか首を横に振った。
「ご、ごめんなさい……!私では、役に立てそうにないです。もう一般人ですし、貴方みたいなすごい人に教えられることなんて……」
私が振り絞るようにそう告げると、辰巳さんは困ったように眉を下げて静かに視線を落とした。私を包み込んでいた、男の人特有の大きく骨ばった手が、ゆっくりと解かれていく。けれど、完全に離れる直前、彼の長い指先が私の指の隙間を這うように、ひどく名名残惜しそうになぞっていった。背筋にゾクッと甘い電流のようなものが走る。
彼は手元に視線を落としたまま、ぽつりと静かな声で話し始めた。
「……僕、今のマンションには、役作りのために入居したんです」
「……え?」
予想外の告白に、私は目を瞬かせた。
「今度出演するドラマで、サラリーマンの役をもらったのですが、僕は大学を卒業したあと、バイトをしながら今の活動を始めたので、会社勤めというものを一度も経験したことがなくて。……だから、一般の人の生活リズムやリアルな空気を間近で勉強したくて、あえてあの普通のマンションに住むことにしたんです」
「そう……だったんですね」
人気アイドルが偽名を使ってあんな単身用マンションに住んでいた理由は、そういうことだったのか。大学を出て苦労しながら夢を掴んだ彼にとって、未知の領域である『会社員』を演じるためにそこまで身を削る姿勢に、少しだけ感心してしまった。
「でも、隣の部屋から出てきたうたたんを見て、本当に驚きました。まさか、ずっと会いたかった貴女がここに住んでいたなんて……♡」
彼の言葉に、私はひどく居心地の悪い思いで身を縮めた。
実は先ほど彼が自分のファンだと明かした時、私はほんの一瞬だけ『もしかして、私を狙って隣に引っ越してきたのでは』と疑ってしまっていた。身バレした直後から私を『うたたん』と呼び、熱っぽい目で見てくる彼を見て、『もしかして私のファンだから、意図して隣に引っ越してきたストーカーなのでは?』と、失礼な疑いを抱いてしまったのだ。
でも、よく考えればそんなわけがない。相手は日本中が熱狂する人気アイドルで、私はとうの昔に引退した一般人だ。彼が私に執着してストーキングするメリットなど何一つない。彼が隣に引っ越してきたのは役作りのためで、正真正銘の『偶然』だったのだ。思いがけず昔の推しと隣人になったからこそ、今の彼の瞳には、純粋な歓喜と熱が宿っているのだろう。
「運命、だと思ったんです」
真っ直ぐに私を見つめ直した彼の口から紡がれた、思いがけない言葉。
そのひどく重たくて甘い響きに、私の身体が微かに震えた。
「役作りのことや、アイドルとしてのあり方についてずっと一人で悩んでいたんです。でも……悩んでいる僕を、神様が助けてくれたんだって、そう思いました」
「……」
沈黙する私に、彼は再び顔を近づけ、祈るように両手を組んだ。
「お願いします、うたたん。僕には、貴女しか頼れないんです」
伏し目がちに私を見つめ、懇願する辰巳さん。その目元を彩る長いまつ毛が、微かに震えている。プラチナブルーの瞳がうっすらと潤みを帯びていて、今にも泣き出してしまいそうだ。
あんなにもステージの上で堂々と、何万人ものファンを魅了していた人気アイドルが今、私というたった一人の一般人に向けて、こんなにも脆く儚い表情で助けを求めている。
ズルい。そんな顔をされてしまえば、元アイドルとして、かつてのファンを見捨てることなんてできるはずがない。ましてや相手は、私に憧れてこの世界に入ったと言ってくれた子なのだ。
「……分かりました。私にできることなら、相談に乗ります」
気が付けば、私は白旗を上げるようにそう口にしていた、その瞬間。辰巳さんの顔から先ほどの儚げな憂いは嘘のように消え去り、代わりに太陽のように眩しい、とびきりの笑顔が咲き誇った。
「本当ですか!?ありがとうございます、うたたん!ああ、僕は神様に見捨てられてなかったんだ……っ!」
彼は嬉しさのあまり、テーブル越しに身を乗り出して、再び私の両手を強く握りしめた。今度はブンブンと上下に振られ、彼の手のひらの熱が直に伝わってくる。さっきまでの今にも泣きそうな顔からの、この無邪気な喜びよう。コロコロと変わる表情は、さすが人気アイドルと言わざるを得ない。私は彼にペースを完全に握られていることを自覚しつつも、その子犬のような笑顔を向けられると、毒気を抜かれたように小さくため息をつくしかなかった。
「ただし、私に教えられるのは、あくまで『一般的な会社員のリアル』とか、そういうことだけですからね。アイドルとしての技術的なアドバイスなんてできませんよ」
「ええ、もちろんです!うたたんの視点から意見をもらえるだけで、僕にとっては百人力ですから!」
辰巳さんは満足そうに頷くと、ようやく私の手を離し、自分のグラスを掲げた。
「じゃあ、改めて。僕の頼れる先輩に……乾杯!」
「……乾杯」
二度目の乾杯。
今度は、先ほどまで味がしなかったはずの特上ワインの風味が、じんわりと舌に広がった。芳醇で、少しだけ甘い。肩の力が抜けたせいか、そこからの時間は不思議なほど穏やかだった。
「あの、早速質問なんですけど……会社員の方って、お昼ご飯はどうしてるんですか?ドラマだとよく屋上で食べたり、同期のおしゃれなOLさんとランチに行ったりしてますけど……」
興味津々といった様子で身を乗り出す辰巳くん。そのキラキラした瞳は、未知の世界を知りたがる子供のように輝いている。
「屋上で食べるのはドラマの中だけかな。私は大体お弁当を作って、休憩室で食べてるよ。同僚に誘われたり、疲れてる時は社員食堂も使うんだけど、混むからたまにしか行かないなあ」
「へえー!先輩、お弁当自分で作ってるんですか?すごいなあ……得意料理とかあるんですか?」
「得意ってほどじゃないけど……卵焼きとか、ウィンナーとか、適当に詰めるだけだよ」
「それでもすごいです!いいなあ、僕も先輩の作ったお弁当食べてみたいな……」
辰巳さんが少しだけ上目遣いで、ぽつりと呟く。一瞬ドキッとしたが、彼はすぐにパッと顔を上げる。
「あっ、今のセリフ、会社で気になってる同僚の女の子に言うセリフとしてどうですか!?」
辰巳くんは無邪気に聞いてきた。私は心臓の高鳴りを誤魔化しながら笑う。
「あはは。いきなりそんなこと言われたら、ちょっと引いちゃうかも」
「えー!引かれちゃうのか……難しいなあ。メモしておこ」
彼はスマホを取り出し、本当に真面目な顔でフリック入力をしている。その一生懸命な姿がおかしくて、私は思わずふふっと笑ってしまった。
「じゃあ、満員電車ってやっぱり大変ですか?僕、朝の電車にほとんど乗ったことがなくて……。ニュースで見るとすごく密集してますけど、痴漢とか変な人に絡まれたりしないか心配で……あっ、役作りとして、ですよ?」
「大変だよー。朝はもうギュウギュウで息をするのも苦しいくらい。でも、私はずっとスマホで音楽を聴いて自分の世界に入ってるから、変な人に絡まれたりしたことはないかな」
「音楽?どんな曲を聴いてるんですか?……あ、やっぱり『桃色チーカーズ』とか?」
「えっ、なんで知ってるの!?」
「だって、昔から先輩の推しグループじゃないですか。あの頃からずっとブレずに好きなんですね。ふふっ、先輩らしくてすごくいいと思います」
ニコッと微笑まれて、私は少しだけ顔を熱くした。自分の趣味を肯定されて嫌な気持ちになるオタクはいないし、何より、私の昔の話を覚えていてくれたことが純粋に嬉しかった。
「休日は何してるんですか?サラリーマンの休日って、やっぱりゴルフとか行くんですか?」
「それはおじさん世代の話かな。私は家で録画したアイドルの番組を見たり、溜まった家事をしたり、本当に地味だよ」
「へえ、じゃああんまり外には出ないんですか?」
「うん、完全なインドア派だね。おうちが一番落ち着くし」
「そっか……。それなら、家でのんびりしてる時に、ふらっと遊びに行ってもいいですか?あ、隣人として、ですよ!」
「こら、またそういう冗談言う」
私はそれに、自分の日々の生活を振り返りながら丁寧に答えていく。会話のテンポは心地よく、彼は聞き上手で、時折見せるリアクションも素直で可愛らしい。
なんだ……人気アイドルだからと身構えちゃったけど、中身は普通の、ちょっと熱心で素直な男の子なんだな。
お酒の力も手伝って、私の彼に対する警戒心は、いつの間にかするすると解けてしまっていた。彼が私の『手作りのお弁当事情』や『休日の外出頻度』といったプライベートな情報を、緻密に頭の中のデータベースに刻み込んでいることなど露知らずに。
二時間ほど経ち、料理も食べ終えた頃。辰巳さんが、ふと思い出したようにスマートフォンを取り出した。
「あ、そうだ。先輩、これ」
「ん?」
「これから相談に乗ってもらうのに、毎回マンションの廊下で待ち伏せするわけにもいかないですよね?だから……連絡先、交換してくれませんか」
画面には、緑色のメッセージアプリのQRコードが表示されていた。ごく自然な流れだった。相談役を引き受けた以上、連絡先を知らないのは不便だという彼の言い分はもっともだ。けれど、相手は日本中が熱狂する人気アイドル。その個人的な連絡先を知るということに、私は一瞬だけ躊躇した。
「先輩……誰にも言わないから、安心して」
私の躊躇いを見透かしたように、彼は少しだけ首を傾げて、甘く囁く。
……そういえば。以前見たテレビ番組を思い出す。彼は同担拒否のガチファンだったのだと。自分の推しの連絡先を他人に教えるような真似は絶対にしないだろう。私は小さく息を吐き、自分のスマートフォンを取り出して彼のコードを読み取った。
『辰巳 慧』
画面に追加されたその名前を見て、なんだか途方もない世界に足を踏み入れてしまったような、現実味のない不思議な感覚に陥った。
「ありがとうございます!これで、いつでも先輩に相談できます。すごく心強いです」
対する辰巳くんは、スマートフォンの画面をまるで宝物でも扱うかのように両手で包み込み、今日一番の、ホッとしたような笑顔を見せた。そして、ふと思い出したように顔を上げ、少しだけ身を乗り出してくる。
「あと、先輩!もう一つお願いがあるんですけど……僕のことは『辰巳さん』じゃなくて、『慧』って呼んでほしいです!」
「えっ!?」
思いがけない提案に、私は思わず素頓狂な声を上げてしまった。
「い、いやいや!さすがに今をときめく国民的アイドルを下の名前で呼び捨てだなんて、恐れ多すぎますって!」
「えー、ダメですか?せっかく秘密の相談役になってくれたのに。それに、先輩にはもっと僕のことを身近に感じてほしいんです」
辰巳さんは少しだけ唇を尖らせ、子犬のような上目遣いで私を見つめてくる。ファンが見たら一撃で昇天しそうなあざとさだが、元底辺アイドルとしては、雲の上の存在である彼を気安く呼ぶことへの心理的ハードルが高すぎた。
「ダメです。絶対にバチが当たります」
「うーん……じゃあ、せめて『辰巳くん』!それなら、先輩と後輩っぽくて自然じゃないですか?」
「……まあ、それくらいなら」
「やった!じゃあ、これからは『辰巳くん』でお願いしますね、先輩!」
彼は花が咲いたような笑顔で、嬉しそうにスマートフォンを胸に抱きしめた。無事に後輩としてのポジションと呼び名を確保したその瞳の奥で、捕食者が獲物を完全に檻に閉じ込めた時のような、ドロリとした歓喜の炎が渦巻いていることに、私はやはり気付くことができなかった。
店を出て、二人で夜道を歩いて帰る。辰巳くんは再びパーカーのフードを目深に被り、大きなマスクをして『不審な隣人の田中さん』に戻っていた。マンションに着き、エレベーターで二階へ上がる。私の部屋である202号室の前まで来ると、彼は小さく手を振った。
「先輩!今日は本当にありがとうございました。ご馳走様でした」
「いえ、こちらこそ……えっと、お仕事、頑張ってね」
「はい!それでは、おやすみなさい」
ガチャリ、と鍵を開けて自室に入る。ドアを閉め、靴を脱いだ瞬間、ドッと一気に疲れが押し寄せてきた。
怒涛の一日だった。隣人の田中さんが人気アイドルで、私のガチファンで、役作りのために相談役を引き受けることになり挙句の果てにLINEまで交換してしまった。
ベッドに倒れ込み、天井を見つめる。
「……明日から、どうなるんだろう」
ポツリと呟いた私のスマートフォンが、ピコン、と短く鳴った。画面を見ると、『辰巳 慧』からのメッセージ。
『今日は楽しかったです。僕の秘密、絶対内緒ですよ?おやすみなさい、先輩♡』
文末につけられたハートマークを見て、私はなんだかむず痒いような、奇妙な感覚に襲われながら、そっとスマートフォンを伏せた。
一方その頃。
壁一枚隔てた隣の203号室。暗闇の中、うたたんのグッズで埋め尽くされた『祭壇』のど真ん中で。辰巳は手元のスマートフォンに映る『うたたん』という登録名をうっとりと見つめながら、声を殺して歓喜の涙を流していた。
繋がった……っ♡ついに、うたたんと繋がった……!
彼女の生活リズムを把握し、偶然を装って隣人として接触し、完璧な嘘で同情を引き、ついには直通の連絡手段まで手に入れた。
僕が手繰り寄せた赤い糸は、すでに彼女の四肢をきつく縛り上げている。もう絶対に、この結び目を切らせはしない。
「愛してるよ、うたたん♡……ずっと、ずっと、僕のそばにいてね♡」
誰もいない部屋に、甘く濁った執着の呪いが、静かに溶け込んでいった。
つづく




