第十一話 点と点が線に
「おはようございます!今日もよろしくお願いします!」
テレビ局のスタジオに入るなり、辰巳は周囲のスタッフたちにいつも以上に明るい声で挨拶をして回った。
カメラの前に立てば、指定されたポーズや表情を完璧にこなし、合間のトークでもキレのある返しで現場を沸かせる。その纏うオーラがあまりにもキラキラと輝いているため、休憩に入った途端、マネージャーが不思議そうに首を傾げて近づいてきた。
「辰巳くん、なんだか今日、いつにも増してすごく調子いいね。一週間休んでいたのが嘘みたいだ。お休みの間に、何かいいことでもあったの?」
「ふふっ。何があったかは……ナイショです♡」
辰巳は自身の唇に人差し指を当て、悪戯っぽくウィンクをして見せた。
その破壊力抜群の笑顔に、周囲の女性スタッフたちが小さく悲鳴を上げるのを聞き流しながら、辰巳はこっそりとポケットの中のスマートフォンに触れた。
うたたんと直接連絡ができる世界線、最高すぎる……っ!
あの日、連絡先を交換して以来、辰巳は『役作りの相談』という大義名分を盾にして、毎日欠かさず詩にメッセージを送っていた。
『今日は満員電車でしたか?』
『会社員の方って、お昼は誰かと食べるんですか?』
といった、本当にただの一般的な質問だ。
『今日は座れましたよ』
『私はお弁当派なので、休憩室で同僚と食べることが多いですね』
それに対する詩からの返信は、絵文字一つない事務的でそっけないものばかり。
けれど、辰巳にとってはそんなことは些末な問題だった。自分の送った言葉に、彼女が時間を割いて、文字を打ち込んでくれている。スマートフォンが震え、画面に『うたたん』からの通知が表示される。その事実だけで、彼の心は天にも昇るような幸福感で満たされていたのだ。
ああ……早く仕事終わらせて、帰りたいな。早くあのマンションに帰って、壁越しに彼女の気配を感じたい。
辰巳は愛おしいその人を想いながら、再び完璧なアイドルの笑顔を作り、カメラの前に立った。
一方その頃。
会社の昼休み、自席でお弁当を食べていた私のスマートフォンが、ブルッと短く震えた。画面に目を落とすと、そこにはポップアップ表示で通知が出ている。
『辰巳 慧:先輩はお酒強い方ですか?』
「……っ!!」
私は反射的にスマートフォンを裏返しにし、周囲を見回した。心臓がバクバクと嫌な音を立てている。幸い、同僚たちはそれぞれ休憩を取っていて、私の手元を見ている人はいなかった。
あの日、彼と連絡先を交換してからというもの、こうして『役作りの相談』のメッセージが毎日送られてくるようになった。返信自体はなんてことない内容で済むのだが、問題はその『名前』だ。
コミュニケーションアプリの通知に『辰巳 慧』ってフルネームで出るの、心臓に悪すぎる……!
もし、万が一。辰巳 慧の追っかけをしている由紀が通りかかった時にこの画面を見られでもしたら、社会的に終わる。どんな言い訳をしたところで、あの熱狂的なオタクが納得してくれるはずがない。私は周囲を警戒しながら再び画面を開き、急いで彼のアプリの設定画面を開いた。
表示されている名前、絶対に変えなきゃ。ええと、偽名の『田中さん』にするか……いや、それだと私が誰か分からなくなるかも。無難に名字のひらがなにしておこう。
私は表示名変更の欄をタップし、文字を入力し始めた。
「辰巳だから……うーん、た、たつ……あれ?」
『たつみ』と入力しようとした私の指が、ふと、空中でピタリと止まった。
た、つ、み。たつ。……たっつー。
――ズキン、と。
脳裏に、すっかり蓋をしていたはずのアイドル時代の記憶が、唐突にフラッシュバックした。
ステージの上から見える、客席の景色。
決して人気があったとは言えない私のライブで、いつも、どんなに小さな会場でも、必ず最前列陣取ってくれていた一人の男性ファンがいた。垢抜けない地味な服装に、分厚くて重たい黒縁眼鏡。今の辰巳くんのような華やかさなんて微塵もなかったけれど、その分厚いレンズの奥にある瞳だけは、いつもステージ上の私を真っ直ぐに、キラキラと熱烈な光を宿して見つめてくれていた。
握手会で、彼がはにかみながら名乗ってくれたハンドルネーム。
『……いつも応援してます。たっつー、です』
――たっつー。
――たつみ。
私のファンだった男の子。引退間際に『ありがとう』と泣きながら伝えたファン。
そして先日居酒屋の個室で、私に『ずっと確かめたかったんです』と、真っ直ぐなプラチナブルーの瞳で告げてきたトップアイドル。
あの垢抜けなかった眼鏡の奥の瞳と、辰巳くんの宝石のような瞳が、私の中でパズルのピースのようにカチリと音を立てて噛み合った。
「……え……。もしかして、たっつー……?」
誰もいない昼休みのオフィスで、私はスマートフォンの画面を見つめたまま、呆然と呟いた。
あの、分厚い黒縁眼鏡をかけて、いかにもオタクといった風貌だった大人しい男の子。彼が、今の日本を代表するキラキラのトップアイドル『辰巳 慧』?
にわかには信じられないけれど、あの熱を帯びた瞳、そして『たつみ』という名前。
記憶の底から、当時の彼の姿が鮮明に蘇ってくる。
思い返せば、彼は他のファンとは明らかに異質な熱量を持っていた。
私のような底辺アイドルのイベントは、都内の小さなライブハウスや、地方のショッピングモールの片隅の特設ステージで行われることがほとんどだった。観客が両手で数えられるほどしかいないような寂しい営業の時でさえ、彼は必ず最前列の中央にいた。北海道から沖縄まで、私がどこへ行こうとも、分厚い黒縁眼鏡をかけた少し猫背の彼は、当然のようにそこに存在していたのだ。
さらに異常だったのは、イベント後の握手会だ。彼は毎回、一人で段ボール箱がいっぱいになるほどのCDを買い込み、何十枚分もの握手券を握りしめて何周もループしていた。
私の前に立つと、彼はいつもひどく緊張した様子で、じっとりと汗ばんだ手を震わせていた。最初はただの熱心なファンだと思っていた。けれど、回数を重ねるごとに、黒縁眼鏡の奥から覗く瞳の熱が、普通の『推し』に向けるものとは違う、もっとドロリとした重たいものに変わっていくのを感じていた。
『うたたん。今日のブログの隅っこに写ってたキーホルダー、あれって駅前の雑貨屋さんのですよね。僕も同じもの買いました』
『うたたんの好きな紅茶の銘柄、分かりました。「アールグレイ・フレンチブルー」ですよね。柑橘の爽やかな風味と、青いお花の甘い余韻……うたたんは普段から水色のものを好んでいるんですね。とっても素敵です。これからは僕も、同じ紅茶だけで身体を満たそうと思います』
私の何気ない発言や、写真のわずかな背景から全てを特定し、私の生活をなぞろうとする執念。
私は彼の執念に恐怖を抱き、念のため引っ越しをして、特定されないようにSNSでの投稿に気をつけるようになった。
そして、アイドル生活の終盤。いよいよ人気が出ず、私が密かに引退を考え始めていた頃の握手会。彼は私の両手を強く握りしめ、ひどく熱に浮かされたような、暗い情熱をぶつけてきたのだ。
『これからもずっと、うたたんのこと応援してます。僕の人生の時間は、うたたんを応援するためだけに存在してるんです。他のことなんて何もいりません。だから、これからもずっと……僕が死ぬまで、うたたんに僕の全てを捧げさせてくださいね』
『うたたんの全てが僕の生きる意味なんです。ずっと、ずっとそばにいますよ』
それは、ファンからの純粋な応援の言葉のようでいて、その実、一人の狂信者が唯一の神に向かって放つ、重すぎる呪いの言葉だった。
当時は、売り上げに貢献してくれるありがたい太客でありながらも、その見返りを求めない純粋すぎるほどの執着と、永遠を前提としたストーカーじみた宣言に、少しだけ薄気味悪さと恐怖を感じていたことを思い出す。
……何故今まで忘れていたのだろう。特定されることを恐れて引っ越しをしていたから、安心して、恐怖から無意識に蓋をしてしまっていたのかもしれない。それに、『たっつー』と『辰巳 慧』の容姿が違いすぎるというのもあるだろう。
けれど、引退して数年経つ私のことを未だに『うたたん』と呼び、底辺アイドルだった私にあそこまでの異常な執着を見せてくる存在なんて、あの狂信的だった『たっつー』以外に考えられない。
そして、当時のあの『重すぎる愛』と『異常な特定能力』を持った彼ならば。私の今の職場や家を執念で特定し、身分を偽って意図的に隣の部屋に引っ越してくることなど、造作もないことのはずだ。そこまで考えが至った瞬間、私の背筋を、氷を滑らせたようなゾクッとした悪寒が駆け抜けた。
待って。彼がたっつーなら……あの居酒屋で言っていたこと、全部『嘘』ってことにならない?
『サラリーマンの役作りのために、普通のマンションに引っ越してきた』
『偶然、隣の部屋から私が出てきて驚いた。運命だと思った』
「……っ」
息が詰まった。偶然なんかじゃない。
彼は何かしらの方法で私がここに住んでいることを特定して、私の隣の部屋を狙って引っ越してきたのだ。朝のゴミ出しで鉢合わせたのも、きっと偶然じゃない。私の出勤時間を把握して、待ち伏せしていたんだ。
ストーカーだ。
日本中の女性を熱狂させている人気アイドルが、引退した元アイドルの一般人をストーキングして、隣の部屋に住み着いている。
その恐ろしすぎる事実に気付き、私の全身から一気に汗が噴き出した。
ブルッ、と手元のスマートフォンが再び震える。
『辰巳 慧:僕は全然飲めない設定でいこうと思ってるんですけど……』
追撃の連絡。今朝までは『熱心な後輩』だと思っていたそのメッセージが、今は『逃げ場のない檻の鍵を閉める音』のように感じられた。
どうしよう。ブロックする?いや、駄目だ。相手は隣に住んでいる。もしここで私が彼を拒絶して、彼が逆上したら?密室のマンションで、成人男性の力に敵うわけがない。とにかく今は、私が『すべてに気付いた』ことを悟られてはいけない。
私はガクガクと震える指を必死に抑えつけ、深呼吸をしてから画面をタップした。
『会社の飲み会は、人間関係を築く上で大切ですが、無理して飲む必要はないと思いますよ。お酒に弱い設定なら、ウーロン茶とかで乗り切れると思います』
当たり障りのない、完璧に『相談役の先輩』としての返信。送信ボタンを押した直後、私は力尽きたようにデスクに突っ伏した。
今日、家に帰るのが死ぬほど怖い。ああ、そう言えば今日は同期の飲み会があった。なるべく居座って、彼と出会わないようにしよう。
そもそも、私の考えすぎなのではないか。自意識過剰なだけではないか。
ぐるぐると回る思考回路。これは私の勘違いだと、そう思いたかった。
震える私に、更なる追撃の音が響く。
『辰巳 慧:今日は同期の飲み会って、絶対に行かなきゃいけないものなんですか?』
「……っ」
しまった。昨日の帰り際、彼に「明日は同期の飲み会がある」とポロリとこぼしてしまっていたのだ。彼の画面越しのメッセージからは、明確な『行かないでほしい』という圧力が込められているように感じた。
どうしよう……。でも、ここで彼の言葉に従って休んだら、それこそ彼の思い通りにコントロールされてしまう。それに、今日はただでさえ、あのマンションに帰るのが怖いんだから……。
私は震える指で、できるだけ感情を乗せないように、大人の女性としての毅然とした文字を打った。
『同期の集まりだから、抜けられないの。帰りが遅くなるから、今日はもう連絡できないかも。ごめんね、撮影頑張って』
これでいい。彼と接する時間を少しでも減らすんだ。なるべく遅くまで飲み会に居座って、彼が寝静まった頃にこっそり帰ろう。
スマートフォンを伏せようとした、その時。数秒も経たないうちに既読がつき、返信が届いた。
『そうなんですね、残念です。お酒、無理しないでくださいね』
『では、撮影頑張ってきます!』
私は返信を確認すると、『ファイト』のスタンプを押し、急いでスマートフォンを伏せる。それ以降、彼からの返信の通知音が鳴ることはなかった。
その日の夜の飲み会は、案の定、全く味がしなかった。テーブルに並べられた美味しそうなカルパッチョや唐揚げも、口に入れるとただの砂を噛んでいるようだった。周囲では、同期たちが楽しげに仕事の愚痴や恋愛話で盛り上がっている。しかし、私の耳にはそれらの声が、遠くのノイズのようにしか聞こえていなかった。
私は一人、氷が溶けて薄まったウーロン茶のグラスを両手で強く握りしめ、ひたすら上の空で時間をやり過ごしていた。
バッグの奥底にしまったスマートフォンは、飲み会が始まってから一度も震えていない。普段ならホッとするはずのその沈黙が、今の私にとっては逆に不気味で恐ろしかった。
連絡が来ないってことは、怒らせちゃったのかな……。まさか、マンションの暗がりで私が帰ってくるのを待ち伏せしてるんじゃ……!?
想像すればするほど、彼が黒いパーカーのフードを深く被り、マンションのエントランスや自室のドアの前でじっと立ち尽くしている姿が脳裏に浮かび、背筋に冷たい汗が流れる。
「詩、どうしたの?なんか今日、ずっとスマホ気にしてない?もしかして……彼氏待たせてるとか!?」
「えっ!?う、ううん!何でもないよ!ただ、ちょっと明日の準備とか考えてて……!そ、それに、私に彼氏なんていないこと、由紀が一番知ってるでしょ!」
隣に座っていた同僚の由紀にからかうように指摘され、私は変な声を出して慌てて首を横に振った。
時計を盗み見るたびに、確実に『帰る時間』が近づいてくる。
帰りたい。でも、帰りたくない……っ!
この喧騒の中にいれば、とりあえず物理的な安全は保たれる。けれど、ここに居座って帰りが遅くなればなるほど、もし彼が本当に待ち伏せしていた時の反応が恐ろしいものになる気がしてならなかった。どちらに転んでも地獄だ。逃げ場なんて、どこにもない。
時計の針が午後十時を回った頃。これ以上ここにいても精神が削り取られるだけだと悟った私は、這うような重い足取りで、絶望的な気持ちで帰路につくため店を後にした。
夜、十時半。
私はマンションの廊下を、足音を殺して歩いていた。
どうか、彼と鉢合わせませんように。祈るような気持ちで自分の部屋、202号室の前まで辿り着き、震える手でカバンから鍵を取り出す。鍵穴に差し込もうとした、その瞬間だった。
ガチャリ。
隣の203号室のドアが、図ったようなタイミングで開いた。
「あ、先輩。おかえりなさい!」
黒いパーカー姿の彼が、まるで最初からそこで待ち構えていたかのようにひょっこりと顔を出す。その顔には、テレビで見るのと同じ、いやそれ以上にキラキラとした無邪気な笑顔が張り付いていた。
ビクッと肩が跳ねる。偶然のふりをしているけれど、絶対に彼はずっとドアの向こうで私の足音を待ち伏せていたのだろう。
「た、辰巳く……いえ、田中さん。ただいまです」
声が震えないように必死に腹に力を入れる。辰巳くんは私の様子がおかしいことには全く気付いていないようで、心配そうな顔で一歩、こちらへ近づいてきた。
「飲み会、随分長かったみたいですね。先輩が泥酔していないか心配していましたが、酔ってなさそうで安心しました」
正確には、飲めなかったのである。泥酔などという隙のある姿を見せたら、付け込まれてしまうかもしれない。私は笑って誤魔化す。
「あはは、お酒は強い方なんだよね。でも、久々に飲み会に行ったから疲れちゃった。おやすみ、田中さん」
「……ええ、おやすみなさい。小林さん」
辰巳くんは残念そうな顔をしたけれど、無理に引き留めるようなことはしなかった。ドアを閉め、鍵をかける。ふう、と安堵の息を吐く。
ブルッ、とスマートフォンが震えた。
『辰巳 慧:おやすみなさい、先輩。いい夢をみてくださいね♡』
「ひっ……!」
これから、どうしたらいいんだろう。彼は、着実に距離を詰めてきている。私は、彼の重すぎる執着心から逃げることができるのだろうか。私は震える手で、当たり障りのないスタンプだけを返信して、スマートフォンを強く握りしめた。
つづく




