第十二話 一線を守る
翌朝。
私は玄関の冷たいドアに額を押し当て、ドアスコープから外の様子を血走った目で覗き込んでいた。
時刻は八時。いつもなら、家を出ている時間だ。
いない。今は、誰もいない。
昨日、『辰巳 慧』が『たっつー』であると気付いてしまってから、私は一睡もできなかった。一晩中、壁の向こう側から私の生活音を拾おうと耳を澄ませているかもしれない『たっつー』の姿が頭から離れず、ベッドの上で毛布にくるまって震え続けていたのだ。なんとか彼に会わずに出勤しなければ。もし顔を合わせたら、寝不足と恐怖で引き攣った顔を見られて、「どうしたんですか?僕のこと、嫌いになったんですか?」と逆上されてしまうかもしれない。
幸い、今日の彼は早朝から情報番組のロケがあると言っていた。昨夜、部屋に逃げ帰った私が、彼からの『いい夢をみてくださいね♡』というメッセージに、震える手で当たり障りのないスタンプだけを返信した直後のこと。画面を埋め尽くすほどの、異様に長いメッセージが送られてきていたのだ。
『明日は早朝から情報番組のロケなんです。相談役の先輩には、僕のスケジュールを把握しておいてほしいので送りますね!』
『4:30 起床』
『5:00 お迎えの車でマンション出発』
『6:00 テレビ局入り、メイク開始』
『8:00〜10:00 生放送本番(絶対見てくださいね!)』
『10:30〜12:00 雑誌のインタビュー(この時間はスマホ見れません)』
『12:00〜13:00 お昼休憩(今日のお弁当の写真送りますね!)』
『13:00〜15:00 午後のロケ撮影(外の撮影です!お洒落なお店がたくさんあるようです。先輩と行きたいなあ♡)』
『15:30〜17:30 新ドラマの打ち合わせ(先輩に教えてもらった会社員の話、早速役作りに活かしてきますね!)』
『18:00〜 お迎えの車で現場を出発』
そこには、分単位でびっしりと書かれた彼の一日の行動予定が記されていた。ご丁寧に、最後には『19:00には帰宅できる予定です。先輩の帰りを待ってますね♡』という恐ろしい一文まで添えられて。ただの相談役に、なぜ自分の行動をそこまで詳細に報告してくるのか。まるで「僕が貴女の生活をすべて把握しているように、貴女も僕のすべてを把握していてください」という暗黙の強要のようで、画面を見た瞬間に血の気が引いた。だが、その異常なスケジュール報告のおかげで、彼が『朝五時にはマンションを出発している』ことが分かったのは唯一の救いだった。今は八時。彼が予定通りに行動しているなら、もう隣の部屋にはいないはずだ。
私はそーっと、音を立てないようにゆっくりとドアノブを回した。ガチャッという金属音が、心臓に悪いほど大きく響く。ドアを数センチ開け、隙間から廊下の左右を確認する。
よし、誰もいない!私は素早く外に飛び出し、音を立てないようにドアを閉め、鍵をかけた。そして、エレベーターではなく非常階段へ向かって、つま先立ちで全速力で駆け出した。彼の申告通り、彼が部屋から出てくることはなかった。私は駅のホームまで辿り着く。周囲にあのペールブルーの姿が見えないか確認し、ようやく深く息を吐くことができた。
絶望的な気分で満員電車に揺られながら、私はただひたすらに、嵐が過ぎ去るのを待つしかない小動物のように震えていた。
会社に到着し、鞄を置くために自席へ向かおうとした時だった。
「詩!こっちこっち!」
休憩室の方から、由紀が手招きしている。何事かと思って足を踏み入れると、彼女は休憩室に壁掛けで設置されたテレビの前に陣取っていた。
「見て!慧くん、今日の生放送のゲストなの!」
由紀が指差した画面には、見間違えるはずもない、あのペールブルーの髪と完璧な笑顔の男が映し出されていた。画面の隅に表示されている時刻は、八時四十五分。
――『8:00〜10:00 生放送本番(絶対見てくださいね!)』
彼が昨夜送ってきた、狂気じみたスケジュール表の文字が脳裏にフラッシュバックする。
「やっぱり一週間休養してたせいか、ちょっと雰囲気変わったよねー。なんか、前より色気が出たっていうか、余裕があるっていうか。ああ〜、今日も顔がいい……!」
テレビの画面越しに推しを愛でる由紀の呑気な声が、遠くのノイズのように聞こえる。テレビの中の彼は、司会者と軽快なトークを繰り広げ、共演者を笑わせていた。日本中が熱狂する、非の打ち所がない人気アイドル。けれど、帰宅すると。彼は黒いパーカーにマスク姿で、古びたマンションの廊下で私を待ち伏せしているのだ。テレビの中のキラキラした姿と、あの暗い情熱を宿したストーカーの姿がどうしても結びつかず、私はひどい眩暈を覚えた。
『辰巳さん、今日は朝早くからありがとうございます。カメラの向こうの視聴者の皆さんに一言お願いします!』
司会者にそう振られ、テレビの中の彼が、ゆっくりとカメラの方へ向き直った。
「はい。今日も朝早くから見てくれて、ありがとうございます」
ふわりと、彼が微笑む。その瞬間、画面の向こうのプラチナブルーの瞳と、バチッと視線が絡んだ気がした。
「……っ!」
「貴女が今日も、一日笑顔で過ごせますように。……僕はずっと、応援していますからね♡」
何百万という視聴者に向けた、アイドルとしての完璧なメッセージ。ファンなら誰もが喜ぶ、ありふれた言葉。由紀も隣で「はああ〜〜っ♡」と骨抜きにされたような声を上げている。
けれど、その奥に潜むひどく重たくて暗い熱を知ってしまった私には、その言葉が『貴女(=うたたん)がどこにいても、僕はずっと監視していますからね』という、私一人に向けられた強烈なメッセージにしか聞こえなかった。
テレビの向こう側からでも、彼は私を逃がさない。サァァァァ……と、全身の血が足元へ流れ落ちていく音が聞こえた気がした。
休憩室から逃げるように自席に戻った後も、私は仕事に全く集中できなかった。パソコンの画面を見つめていても、どうしても背後からあの視線を感じてしまう。
時刻は十時過ぎ。デスクの上に伏せて置いていた私のスマートフォンが震えた。
『田中:生放送、見てくれました?』
差出人は『辰巳慧』だ。昨晩、私は震える手で彼の名前を『田中』に変えていた。『たつみ』も『たっつー』も表示したくなかったからだ。彼は仕事の合間を縫って、連絡をしてきたのだろう。
当然見ているという前提も怖い。けれど、機嫌を悪くして逆上されるのはもっと怖い。
私は震える手で、親指を立てるスタンプを押すだけに留めた。
そして、お昼休みを知らせるチャイムが鳴ると同時に。再び、無機質なバイブレーションが机を震わせた。連絡アプリの通知だ。
『田中:先輩、お疲れ様です!今、ロケのお弁当を食べてます。先輩は今日、何のお弁当ですか?』
『田中:[画像]』
送られてきたのは、豪華なロケ弁の写真と、その後ろにぼんやりと写り込む彼のピースサイン。
私は震える手でスマートフォンを握りしめ、トイレの個室へと駆け込んだ。鍵をかけ、便座に座り込んで頭を抱える。逃げられない。彼はテレビの中からでも、隣の部屋からでも、どこからでも私を見張っている。
『あ、そうだ!先輩、今週末の日曜日って空いてますか?』
追撃のメッセージ。私は嫌な予感に心臓を跳ねさせながら、画面を見つめた。
『もしよければ週末、相談に乗ってくれませんか?今度の役、家でのシーンが多くて悩んでるんです。リアルな会社員の生活感を知りたいので、先輩のお部屋を参考にさせてもらえませんか?』
『この間のお礼に、美味しいケーキを買っていきます!一緒にお茶しながらお話しできたら嬉しいです♡』
――先輩のお部屋を参考にさせてもらえませんか?
それはつまり、家に『辰巳 慧』を招き入れるということだ。
息が止まった。
ついに、彼は『隣人の田中さん』としてではなく、『辰巳 慧』として、この完全な密室——私の部屋——に上がり込もうとしているのだ。
絶対に駄目。家に入れるのだけは、絶対に駄目……っ!
相手は私の過去を知り尽くし、私の生活を把握するために隣に引っ越してきた正真正銘のストーカーだ。何を考えているのか、部屋に入れた途端に何をされるのか、全く読めない。密室で二人きりになったら、最後だ。
『今、部屋がすごく散らかってて……ちょっと見せられないかな』
『この間みたいに居酒屋はどうかな?外の方が気兼ねなく話せると思うし。個室があるお店、今度は私が探すよ』
私は苦し紛れのNOを突き付ける。返信してすぐに既読が付いた。お願い、これで引き下がって。心の中で必死に祈りながら彼からの返答を待つ。この時間が、とてつもなく永遠のように感じられた。
『そうですよね。急にお誘いしてしまってすみません!先輩が嫌じゃなければ、ぜひお店でお願いしたいです』
『じゃあ、お店決まったらまたLINEするね』
『はい!楽しみにしてます!』
なんとかはぐらかせた。安堵の溜め息を吐く。
お店探しは私が主導権を握れる。自分の身の安全を確保しやすく、かつ彼が不満を持たないような店を探さなければ。私は震える手でスマートフォンを握りしめ、必死に居酒屋の検索を始めた。
最後に、彼からわくわくとするスタンプが送られた。このスタンプを見た瞬間、背筋が凍った。大昔に私が作ったスタンプだ。まだ持っていたのか。
胃がズキズキと痛む。折角の休憩時間だが、弁当が喉を通ることはなかった。
一方その頃。
ロケ弁当をごくりと飲み込み、僕は小さく声を出して笑っていた。幸い、控室には僕一人だ。誰の目も気にする必要はない。
「ふふっ……あははっ」
散らかっているから、部屋には入れられない。
うたたんは申し訳なさそうにそう言っていたけれど、僕は知っている。彼女が毎週水曜日と土曜日の朝に、必ず丁寧に掃除機をかけていることを。昨日も壁越しに粘着クリーナーをコロコロとかける音が聞こえていたし、彼女の部屋が散らかっているはずないのだ。
じゃあ、どうして彼女は嘘をついたのか?
答えは一つしかない。
うたたん、僕を部屋に入れるのを『意識』してくれたんだ……!
僕を異性として意識しているからこそ、プライベートな空間を見せるのが恥ずかしかったに決まっている。少し前までは『無害な隣人の田中さん』だった僕が、今は『相談に乗ってあげなきゃいけない可愛い後輩の辰巳くん』になり、さらに『部屋に入れるにはドキドキしてしまう男』へと昇格したのだ。
しかも、彼女の方から『お店を探す』と提案してくれた。
これはもう、実質的に彼女からのデートの誘いと言っても過言ではない。
「うたたんが僕のために、一生懸命お店を探してくれてる……。ああ、どうしよう、幸せすぎる」
部屋に入り込めないことへの不満など微塵もない。むしろ、彼女のいじらしい『照れ隠し』の嘘を見抜けた優越感と、次の逢瀬への期待で胸が張り裂けそうだった。
「焦らないよ、うたたん。君が僕を心から受け入れて、そのドアを開けてくれる日まで……ちゃんと待っててあげるからね♡」
彼女が昼休みを犠牲にして、恐怖に震えながら居酒屋を検索していることなど露知らず。
辰巳は甘い妄想に浸りながら、彼女から届くはずの『デートの誘い』の連絡を、今か今かと待ちわびていた。
つづく




