第十三話 恐怖の休日
居酒屋の検索画面とにらめっこをしながら、私はふと重要なことに気がついた。
……待って。夜にお酒を飲んだら、また一緒にこのマンションに帰ってくることになるじゃない!夜は人気が無いし、怖い……!
危険すぎる。お酒が入って相手の気が大きくなっている帰り道や、マンションの廊下で何をされるか分かったものじゃない。自室に逃げ込むまでが遠足、いや、命がけのミッションだ。安全を確保するためには、夜の密室や暗い帰り道は絶対に避けなければ。
私は名案を思いつき、急いで彼宛ての連絡アプリのトーク画面を開いた。
『今度の休日、お昼から飲めるお店を予約しようと思うんだけど、どうかな?』
休日の昼間なら、外には人も多いし、お酒を飲んでも解散するのは夕方前になるはずだ。健全極まりないし、何より明るい時間帯というだけで私の精神的な負担がまるで違う。
完璧な提案だ。私は少しだけ安堵の息を吐き、送信ボタンを押した。
ピコンッ。
待ちに待った通知音に、僕はベッドから跳ね起きてスマートフォンを引ったくった。画面に表示されたうたたんからのメッセージを読み、僕は一瞬、自分の目を疑った。
『今度の休日、お昼から飲めるお店を予約しようと思うんだけど、どうかな?』
「休日の……お昼から……!?」
文字通り、声が裏返った。
夜の仕事終わりの短い時間じゃない。貴重な『休日』を、しかも『お昼』から僕のために使ってくれるというのか!?
ただの相談事なら、仕事帰りにサクッと一、二時間飲んで解散するのが普通だ。わざわざ休日の昼間を指定してくるなんて、それはもう……。やっぱりこれ、実質デートでは!?頭の中で、ファンファーレが鳴り響いた。
夜の居酒屋は『食事』の延長線だ。けれど、休日の昼間から会うということは、そこから夕方、あるいは夜までずっと一緒に過ごせる可能性がある。食事をして、街を少し歩いて、もしかしたらショッピングに付き合ったり、カフェで甘いものを食べたり……。
うたたんは、僕と長く一緒にいる口実を作るために、わざわざ『休日の昼』を提案してくれたんだ!
「っ……あははははっ!うたたん、可愛すぎる……っ♡」
僕はベッドの上でバタバタと足をバタつかせ、クッションに顔を埋めて歓喜の叫びを押し殺した。さっきの『部屋が散らかっている、という照れ隠し』からの、『休日の昼間からのデートの誘い』。完全に脈ありじゃないか。僕の『健気な後輩作戦』は、想像以上の特大ヒットを記録している。僕は震える指で、即座に返信を打ち込んだ。
『嬉しいです!お昼からなら、時間も気にせずゆっくり相談できますね!当日、すごく楽しみにしてます!』
送信した後、僕は部屋の奥にある『祭壇』へとすっ飛んでいった。
「うたたん、聞いて!今度の休み、うたたんと初デートだよ!」
壁一面のブロマイドと、敷き詰められた缶バッジの海に向かって、僕は満面の笑みで報告する。無数の彼女の瞳が、僕の初デートを祝福してくれているように見えた。
僕はすぐさまクローゼットを勢いよく開け放つ。
中に並ぶのは、アイドル『辰巳 慧』として表舞台に立つためのハイブランドの服から、プライベート用のカジュアルな服まで様々だ。
しかし、今日の僕はただの『辰巳慧』ではない。うたたんの『健気で可愛い後輩』なのだ。
「威圧感を与えるようなハイブランドは論外……でも、安っぽく見えて『頼りない』と思われるのも嫌だ。あくまで清潔感第一、かつ、ふとした瞬間に男らしさを感じさせる絶妙なラインを攻めないと……!」
腕を組み、真剣な顔で服の山を睨みつける。
脳内のデータベースから、うたたんにまつわるありとあらゆる情報を引っ張り出した。
一週間前、給湯室で同僚と話していた『白のニットっていいよね。優しそうに見えて好きだな』という言葉。
一昨日、僕の楽屋での自撮りを送った時、僕のネクタイに『そのネイビー、落ち着いててすごく似合ってる』と褒めてくれた時の記憶。
彼女の視線の動き、声のトーン、全てが僕のハードディスクには鮮明に記録されている。
「よし、ベースは白のサマーニットだ。それにネイビーの細身のパンツを合わせて……うん、完璧な『爽やか後輩コーデ』の完成だっ!」
鏡の前で服を当ててみて、僕は満足げに頷いた。だが、服を決めただけで終わるような素人ではない。デートの成否は、細部にこそ宿るのだ。
僕は引き出しから、あらかじめ用意しておいた『デート用秘密兵器ボックス』を取り出した。
「まずは匂い。香水はキツすぎるからNG。うたたんが愛用しているのと同じ、フローラル系の柔軟剤を使って、さりげない『運命の共通点』をアピール……」
すーっと息を吸い込むと、彼女と同じ香りが僕を包み込む。これだけで天にも昇る心地だ。
さらに、バッグに忍ばせるアイテムの確認も怠らない。
清潔なアイロンがけされたハンカチ、除菌ウェットティッシュは当然として、絆創膏と靴擦れ用の保護パッドも必須だ。もしもうたたんが歩き疲れたり、ヒールで足を痛めたりした時、サッと差し出せる『気の利く男』でなければならない。
突然の雨に備えて折りたたみ傘はもちろん、彼女が寒がった時のために、羽織れる薄手のストールもバッグの底に忍ばせておく。
「完璧だ……!我ながら、隙がない」
準備が整うと、僕は洗面所へと向かった。
高級な美容液をたっぷり染み込ませたシートマスクを顔に貼り付け、鏡に向かって笑顔の練習を開始する。
「先輩!今日は誘ってくれてすっごく嬉しいですっ!」
「……ダメだ、ちょっと必死すぎるな。もっと自然に」
「先輩、お疲れ様です。今日はゆっくり話しましょうね」
「うん、この角度!左斜め四十五度からの、少しはにかんだような笑顔!これが一番僕の涙袋を魅力的に見せてくれる!」
パックでテカテカに光る顔のまま、僕は様々なパターンの『健気な後輩スマイル』を鏡に叩き込んだ。
食事中の相槌の打ち方、グラスの渡し方、車道側をさりげなく歩くエスコートのシミュレーション。会話のシミュレーションだって百パターンは用意しておかなければ。
考えなければならない幸せな悩みが山積みだ。
「ふふっ……ふははっ!待っててね、うたたん。最高の休日にしてあげるからね……っ♡」
鏡の中の僕は、頬を紅潮させ、ひどく熱に浮かれた目をしていた。
「早く休日にならないかなぁ……っ♡」
防衛本能から必死に『昼間』を指定した彼女の意図など、一ミリも届いていない。夜の密室を避けるために必死で考え出された彼女の『昼間の防衛策』は、『辰巳 慧』という名の暴走機関車に、さらに大量の石炭をくべる結果にしかなっていなかった。
僕は完全に『大好きなうたたんとの初デート』という極上のフィルターを通した世界の中で、ウキウキと胸を躍らせながら、その日を今か今かと待ちわびていた。
いよいよ、運命の休日。
自室の鏡の前で、僕は入念に本日の『デート用』の仕上げを行っていた。サラリとした水色の髪を、市販のカラースプレーで一時的に真っ黒に染め上げる。そこに少し太めの黒縁眼鏡をかけ、大きめのマスクを装着すれば、アイドルのオーラを完全に消し去った完璧な変装の完了だ。
服装も、ハイブランドは一切身につけず、清潔感と親しみやすさを最優先した『無害な後輩ファッション』でまとめている。
事前に連絡アプリで、彼女には一つのルールをお願いしておいた。
『身バレ防止のため、個室などの安全な場所に入るまでは、僕のことを「田中さん」って呼んでくださいね』
人気アイドルとして当然の自衛策だと言えば、彼女はすんなりと受け入れてくれた。外では秘密の偽名で呼び合うなんて、なんだか秘密の恋人同士みたいで最高じゃないか。
時計の針が、約束の十一時きっかりを指した。
僕は弾む足取りで隣の部屋へと移動し、202号室のインターホンを鳴らした。
私は玄関のドアの前で深く、深く深呼吸をしていた。アイドルの現役時代、何千人もの観客の前に立つ直前ですら、これほど緊張したことはない。
小林 詩、大丈夫。今日一日乗り切るだけ。昼間の明るい外なんだから、絶対に安全……。
自分にそう言い聞かせていた、その時だった。
ピンポーン。
心臓がビクッと大きく跳ね上がり、嫌な汗が背中を伝う。覚悟を決めていたはずなのに、内臓がせり上がるような恐怖で足がすくむ。けれど、ここで居留守を使えば、隣に住んでいる彼がどんな行動に出るか分からない。
私は震える右手を伸ばし、ゆっくりとドアを開けた。
「おはようございま――」
笑顔を作って挨拶をしようとした私の目の前で。
ドアの向こうに立っていた彼が、私を見た瞬間、ガクンッ!と音を立ててその場に崩れ落ちた。
「えっ!?たつ……田中さん!?」
私は慌てて彼の本当の名前を飲み込み、偽名で呼びかけた。え、何!?心臓が止まるかと思った。彼に何かされたわけじゃない。彼が勝手に、私の前で膝から崩れ落ちてコンクリートの床に手をついたのだ。貧血?それとも急病?
「……っ!」
かっ……かわいすぎる……っ!!
僕はコンクリートの床に両手をつき、全身の震えを必死に抑え込んでいた。
休日のプライベートな私服姿のうたたん。少しだけメイクをしていて、春らしい淡い色のトップスを合わせたパンツスタイルが、気が狂うほど似合っている。
破壊力が高すぎて、ドアが開いて彼女が視界に入った瞬間に脳が処理しきれず、文字通り物理的に膝の力が抜けてしまったのだ。
「だ、大丈夫ですか……?」
おろおろと心配してくれる彼女の声が、頭の上から降ってくる。
ああ、駄目だ。落ち着け。僕は『爽やかな後輩』だ。ここでいきなり不審者丸出しになっちゃ駄目だ!
僕はプルプルと痙攣しそうになる足になんとか力を入れ、ロボットのようにギクシャクと立ち上がった。
「す、すみません。ちょっと……靴の裏に、石が挟まってて」
「そ、そう……なんですね」
苦し紛れの言い訳に、彼女は引き攣ったような笑顔を浮かべた。
そして、立ち上がった彼を至近距離でまじまじと見つめた直後、私はサッと顔色を青ざめさせた。
「っ……!」
私の脳内では、危険を知らせるサイレンがけたたましく鳴り響いていた。
一時的に黒く染められた髪。目元を隠すようにかけられた、少し重たい黒縁眼鏡。
テレビで見るような華やかなアイドルのオーラを消し去ったその姿は、私の記憶にこびりついている、かつての熱狂的なファン――『たっつー』そのものの風貌だったのだ。やはり、彼だ。絶対に間違いない。トップアイドルとしての輝きを脱ぎ捨てた彼の本質は、あの頃からずっと私に執着し続けている、あの男の子なんだ。
「……じゃ、じゃあ。行きましょうか、田中さん」
「はい!小林さん、今日は一日よろしくお願いします!」
恐怖で震えそうになる声を必死に抑え込み、私は歩き出した。そのすぐ隣に、尻尾を千切れんばかりに振る大型犬のような幻覚を背負った彼が、嬉しそうにピタリとくっついてくる。こうして、私の命がけの接待と、彼の狂気に満ちたルンルン気分が交差する、地獄の休日が幕を開けた。
居酒屋へ向かう道中、私は生きた心地がしなかった。
一定の距離を保とうと少し内側を歩く私に対し、彼は尻尾を振る大型犬のように、嬉しそうにピッタリと距離を詰めてくるのだ。
怖い。誰か助けて……!
春の暖かな日差しとは裏腹に、私の心の中は極寒の猛吹雪だった。
一方、隣を歩くうたたんの横顔をチラチラと盗み見ながら、僕は天にも昇る心地だった。
風に揺れる彼女の髪、時折香る甘いシャンプーの匂い。そのすべてが愛おしい。もっと彼女を感じたい。もっと、近づきたい。
その時、僕の脳内に革命的な閃きが舞い降りた。
そうだ。僕には『役作り』という最強の大義名分があるじゃないか……!
僕はすっと歩みを緩め、隣を歩く彼女を真っ直ぐに見つめた。
「小林さん、手を繋いでもいいですか?」
「えっ!?」
突然の申し出に、うたたんはビクッと肩を跳ねさせて驚きの声を上げた。
無理もない。いくら相談相手とはいえ、隣人同士で恋人でもない二人が手を繋ぐなんて普通ではない。しかし、今の僕には完璧な理由があった。
「実は、これからやるドラマで、ラブシーンがあるんですよ。でも、僕、そういう経験が全然なくて……。だから、その練習がしたくて」
堂々たる嘘だった。僕が次に演じるのは、ただのしがないサラリーマン役であり、ラブシーンなど微塵も存在しない。しかし、そんなこととは知る由もないうたたんは、完全に狼狽して目を白黒させていた。
「あ、……ええと、」
困惑し、視線を泳がせるうたたん。その反応を見た僕は、マスクの下で甘い笑みを深めた。
照れてるんだ。可愛いなあ♡
突然のラブシーンの練習という言葉に、彼女は女性としてドギマギしてくれているのだ。そう都合よく解釈して、僕はこれ以上の拒絶を許さないように、首を傾げてにっこりと笑いかけた。
「いいですよね?」
それは、トップアイドルとしての魅力を全開にした、有無を言わさない甘く暴力的な笑顔。
私が何かを答えるより早く、大きくて熱を帯びた彼の手が、私の右手をガッチリと捕らえた。それも、ただ手を握るだけではない。彼の長い指が私の指の間に滑り込み、隙間なく絡めとる『恋人繋ぎ』だった。
「ひっ……!」
「わあ、小林さんの手、すごく小さくて柔らかいですね」
嬉々として弾む彼の声とは対照的に、私は恐怖で小さな悲鳴を飲み込んだ。
逃げられない。がっちりとホールドされた右手から、彼の異常なほどの体温と執着がドクドクと伝わってくる。振り払いたくても、成人男性の力で絡めとられた手はビクともしない。それに、ここで不自然に振り払えば、彼の気分を害してしまうかもしれない。
「さあ、行きましょうか!お店、楽しみだなあ」
完全に捕食者の手に落ちた私の右手を嬉しそうに振りながら、彼はルンルン気分で歩き出した。
街ゆく人々の目に、私たちはどう映っているのだろう。休日の昼下がり、手を繋いで歩く仲睦まじいカップル?
違う。これは、真綿で首を絞められるような、見えない鎖に繋がれた囚人の連行だ。
繋がれた右手からじわじわと侵食してくる彼の重たい愛に耐えながら、私は明るい太陽の下で、終わりの見えない恐怖にただひたすら耐えることしかできなかった。
つづく
ストーカーだけど顔のいいアイドルということで、絆されるヒロインよりも、やってることはえげつないので、しっかり恐怖するヒロインの方が好きです。
可哀想可愛い詩ちゃんを楽しんでもらえたらと思います。




