第十四話 恋人ごっこ
ようやく辿り着いた居酒屋は、駅前の喧騒を感じさせない落ち着いた店構えだった。案内されたのは、壁が厚く、扉もしっかりと閉まる完全個室。
外の目が遮断されるため本当は嫌だが、辰巳くんが居酒屋で過ごすための最低条件であるため、仕方がない。家に招くよりはマシだと、自分に言い聞かせる。
席に着き向かい合って座ってからも、彼は繋いだ手を離そうとしなかった。テーブルの上で、私たちの手は『恋人繋ぎ』のまま、不自然な形で鎮座している。
「……あの、田中さん。メニュー、見づらくないですか?」
私は片手でどうにかメニュー表を広げ、震える声で提案した。せめて、この熱を帯びた拘束から解放されたかった。しかし、辰巳くんは黒縁眼鏡の奥の瞳をキラキラと輝かせ、満面の笑みで即答した。
「全然!片手でも十分見えますよ。何にします?先輩の好きなもの、僕も食べたいな」
上機嫌なんて言葉では足りない。彼は今、この異常な状況を心の底から楽しんでいるのだ。
振り払えば、何をされるか分からない。けれど、このままでは私の精神が持たない。私は必死に、彼を不快にさせない『言い訳』を脳内で検索した。
「……ごめんね、ちょっと、手汗が……。一度離してもいいかな?」
顔を赤らめ、申し訳なさそうに彼女が視線を伏せる。
その言葉を聞いた瞬間、僕は息を呑む。
かっ……可愛すぎる!僕と手を繋いでるだけで、手汗をかいちゃうくらい緊張してるんだ……!
辰巳 慧の脳内フィルターは、彼女の拒絶を『乙女の羞恥』という最高のご馳走に変換した。
「ああ、ごめんなさい!僕、嬉しくてつい……」
名残惜しそうに、けれど満足げに、彼はゆっくりと指を解いた。解放された右手が、じわりと冷えていく。私はすぐに膝の上に手を置き、彼の拘束から距離を取った。
やがて、注文したワインと色鮮やかなおつまみの皿が運ばれてきた。
「ごゆっくりどうぞ」
店員が退室し、重厚な扉がカチリと閉まる。ついに、完全な密室が完成されてしまった。
その音を合図にするように、辰巳くんは耳にかけていたマスクの紐を外し、ふう、と息を吐き出した。
「……ようやく、二人きりになれましたね」
マスクの下から現れたのは、整いすぎた造形に、どこか狂気を孕んだ艶やかさを湛えた『辰巳 慧』の素顔だった。彼は黒縁眼鏡を少しだけ指で押し上げ、テーブルに身を乗り出した。その仕草一つ一つが、逃げ場のない檻の柵を一本ずつ増やしていくように見えて、私はワイングラスを握る手にぐっと力を込めた。
「……改めて、今日はお昼から時間をつくってくれてありがとうございます。先輩とこうして時間を気にせず二人きりで話せるなんて、とても嬉しいです」
「そ、そんな、私の方こそ……」
震えそうになる声を必死に抑え、私はなんとか愛想笑いを作った。
「僕、大学を卒業したあと、バイトをしながら今の活動を始めたのもあって……世間知らずの自覚はあります。だから、今回の普通のサラリーマン役がすごくプレッシャーだったんです」
辰巳くんは困ったように眉を下げ、美しいプラチナブルーの瞳を私に向けた。
「でも、先輩が毎日社会人のことを色々と教えてくれたおかげで、少しずつ普通の人の感覚が分かってきた気がします。本当に感謝してるんです」
「……役に立てているなら、よかった」
私が当たり障りのない返答をしてワインを一口飲むと、彼は熱心な後輩のように目を輝かせた。
「はい。それで……実は今日、もう一つだけ、先輩に教えてほしいことがあってお誘いしたんです」
「教えてほしいこと……?」
私が小首を傾げると、彼はふっと声のトーンを落とし、甘く探るような視線で私を見つめてきた。
「僕、ずっと悩んでいるんです。恋って、どんな感じなんだろうって」
マスクを外し、露わになった完璧な顔立ちで、辰巳くんはふいにそんなことを口にした。
グラスを手に取ろうとしていた私の動きが、ピタリと止まる。
「……え?恋、ですか?」
「はい。今度やるドラマ、ラブシーンがあると言いましたよね?社内恋愛の要素があるみたいなんです。でも僕、プライベートで誰かに恋をした経験がなくて……」
伏し目がちに語るその姿は、純粋に役作りに悩む真面目な青年にしか見えない。けれど、本能が警告を発しているのか、胸の奥で鼓動が早まっていく。
「だから、先輩に教えてほしいんです。恋をしたら、人はどうなるんですか?」
真っ直ぐなプラチナブルーの瞳が、私を射抜く。
密室の居酒屋。
向かいの席から身を乗り出してくる彼に威圧され、私は引き攣った笑顔を顔に貼り付けたまま、どうにか無難な言葉を絞り出した。
「ど、どうなるって……。普通に、相手のことが気になったり、ついつい目で追っちゃったりとか……そういう、温かい気持ちになるんじゃないかな」
「目で追う……。なるほど」
辰巳くんは納得したように頷くと、テーブルの上で頬杖をつき、じっと、穴が開くほど私を見つめてきた。
「先輩にはそういう人、いますか?」
「え?」
「相手のことが気になって、目で追ったりする人」
不意に話を振られ、私はドギマギと視線を泳がせた。
いない。そんな余裕なんて、今の私の生活にはどこにもない。ましてや、隣の部屋に人気アイドル兼自分の熱狂的ファンだったストーカーが住み着いている状況で、他の誰かにうつつを抜かせるはずがなかった。
「え、ええと、今は……いないかな」
「じゃあ、恋人も?」
「う、うん」
私が小さく頷くと、彼はほんの一瞬だけ、口角を吊り上げて酷く満足そうに笑ったように見えた。しかし、瞬きをした次には、すっかり元の『悩める青年』の顔に戻っている。
「……僕も、いないんです。恋人」
グラスの縁を指でなぞりながら、ひどく寂しそうに呟く辰巳くん。
誰もが羨む美貌と名声を持っている人気アイドルが、密室で自分だけに孤独を打ち明けている。普通の女性なら母性本能をくすぐられて胸をときめかせる場面なのだろうが、相手の異常性を知ってしまっている私の背中を這い上がってきたのは、得体の知れない居心地の悪さと、ジットリとした冷汗だった。
重たい静寂が落ちる。
やがて彼は、ゆっくりと顔を上げ、黒縁眼鏡の奥でプラチナブルーの瞳を妖しく光らせた。
「……ねえ、先輩。僕と、恋人ごっこしませんか?」
「……っ、こ、恋人、ごっこ……?」
予想だにしなかった提案に、私は声を引き攣らせた。
ストーカー相手に恋人のフリをするなんて、これ以上ないほどの最悪な展開だ。
「はい。ドラマの役作りのために、恋人同士がどんな風に連絡を取り合って、どんな風にデートをするのか、実際に体験してみたいんです」
「で、でも、そういうのは本当の恋人とじゃないと……」
「本当の恋人を作っている暇なんてないし、もしスキャンダルにでもなったら大変でしょう?でも、同じマンションの先輩と、外ではこうして変装して会うなら安心です。それに……」
テーブルの下で、不意に私の足先に、硬い靴の先端がスッと押し当てられた。ビクッと肩が跳ねる。テーブルの上では、彼が身を乗り出し、退路を塞ぐように私を覗き込んでいた。足元から伝わる逃げ場のない重圧と、至近距離から絡みつくようなプラチナブルーの視線。上下からの完璧な包囲網に射竦められ、私は足を引っ込めることすらできなかった。
「先輩、僕の役作りに付き合ってくれるって、約束してくれましたよね?」
逃げ道を完全に塞ぐ、とどめの一言。
あの日、彼の涙ながらの訴えにほだされて頷いてしまった過去の自分が恨めしい。
ニコニコと無邪気に微笑む彼の瞳の奥に、獲物を絶対に逃がさないというドロリとした執着が渦巻いているのを感じながら、私はただ、薄暗い個室の中で小さく震えることしかできなかった。
「で、でも……ファンの子に、悪いよ。ファンのこと、大切にして」
思わず口をついて出たその言葉は、紛れもない私の本心だった。元アイドルとして、時間やお金を割いて応援してくれているファンを蔑ろにするような行為は、絶対に良くない。私自身、不器用ながらも自分のファンを何よりも大切にしていた自負があったからこそ、目の前で軽々しく『恋人ごっこ』などと提案する彼を諭さずにはいられなかった。
私の真剣な響きを帯びた言葉を受けて、辰巳くんは少しだけ驚いたように目を丸くした。しかし次の瞬間には、ひどく愛おしいものを見るような、甘く蕩けるような笑みを浮かべた。
「……先輩は、本当に優しいですね。僕がただの一人のファンだったあの頃から、そういうファン想いなところ、全然変わってない」
黒縁眼鏡の奥で細められたプラチナブルーの瞳。彼が私の熱狂的なファンだった『たっつー』であることは、今や私たちの間では暗黙の了解として共有されている。彼は私がその事実に気付いた上で、私が『元・自分のファンで、今は可愛い後輩を応援する先輩アイドル』として受け入れてくれていると信じ切っているのだ。
「そういう真面目で優しい先輩だからこそ、相談してよかったなって思ったんです」
辰巳くんは『純粋に慕っている後輩』の顔を取り繕って微笑む。
彼は気付いていない。自分がどれだけ上手に『可愛い後輩』を演じているつもりでも、その瞳の奥で時折ギラリと燃え上がる、異常なほどの執着を私が気付いていることに。
ここで私が、彼の気持ちに気付いている素振りを見せたら、絶対に駄目だ……!
テーブルの下で、私は自分の膝をギュッと握りしめた。もし私が「あなたの気持ちには応えられない」なんて言ってしまったら。彼が被っている『役作りに悩む後輩』という理性の皮が、完全に剥がれ落ちてしまう。そうなれば、彼は遠慮も容赦も一切なく、その圧倒的な腕力と狂気で私を自分のものにしようと襲いかかってくるはずだ。だから私は、彼の重たい愛情に一切気付いていない『ちょっと鈍感な先輩』を演じ切らなければならない。
「ファンの子たちに完璧な『恋する男』の演技を見せるために、どうしてもリアルな経験が必要なんです。この恋人ごっこはファンを裏切るどころか、ファンを喜ばせるための、アイドルとしての血の滲むような『努力』の一環なんですよ」
「そ、それは……」
「お願いです、先輩。僕が心を許して頼れるのは、昔からずっと尊敬している貴女しかいないんです」
なんという恐ろしい詭弁だろう。
けれど、ここで完全に拒絶して彼を絶望させ、逆上させるリスクは冒せない。私はあくまで『役作りに付き合う後輩想いの先輩』という仮面を被ったまま、ギリギリの防衛線を引くしかなかった。
「……わ、わかった。でも、あくまで……役作りの、練習だからね。外では絶対にバレないようにするし、手も……もう、勝手に繋がないでね」
震える声でそう条件を絞り出すのが、今の私にできる精一杯の抵抗だった。
その言葉を聞いた瞬間、辰巳くんの端正な顔が歓喜で歪み、黒縁眼鏡の奥の瞳が獲物を捕らえた捕食者のようにギラリと光った。
「ありがとうございます! 先輩ならそう言ってくれると信じてました!」
僕はすぐに、無邪気な青年の顔に戻って深く頭を下げる。
ああ、よかった。僕の気持ち、先輩には全然バレてないみたいだ。まずは『疑似恋愛』で先輩の懐に完全に入り込んで、じわじわと僕なしじゃ生きられないようにしてあげるからね♡
完全に騙せていると優越感に浸る慧と、その狂気に気付きながらも薄氷の上を歩くように気付かないフリを続ける詩。
逃げ場のない防音の個室で、二人の歪な『恋人ごっこ』は、静かに、けれど決定的に幕を開けたのだった。
「先輩。これすごく美味しいですよ。はい、あーん」
「えっ!?い、いや、自分で食べるよ……っ」
「ダメです。恋人同士なら、これくらい普通にやりますよね?ほら、リアルなお芝居のために、恥ずかしがらないで」
有無を言わさぬ笑顔で、彼が小皿に取り分けた料理を口元まで運んでくる。黒縁眼鏡の奥のプラチナブルーの瞳が、逃げることを許さないとばかりに私を射すくめていた。ここで拒絶して彼を刺激するわけにはいかない。私は観念して、震える口を開けてそれを受け入れた。口の中に広がったのは、高級店ならではの繊細な味付け……のはずだが、極度の緊張と恐怖で味覚が完全に麻痺しており、今の私にはただの砂を噛んでいるようにしか感じられなかった。
「どうですか?美味しいですか?」
「……う、うん。美味しい、ね」
「よかった!先輩と食べるご飯、最高に美味しいです!」
対照的に、辰巳くんは本当に心の底から幸せそうに目を細めて箸を進めている。
その後も、彼の『恋人』としての距離の詰め方は容赦がなかった。
「恋人なんだから、もっとお互いのことを知らなきゃダメですよね。先輩は、休みの日は何をしてるんですか?」
「えっと、家でテレビを見たり、掃除したり……地味だよ」
「へえ、家庭的でいいですね。僕も家だと地味なんですよ。家でテレビを見たり、掃除したり、料理にも凝ってて。あ、今度、僕が先輩の部屋にご飯を作りに行ってもいいですか?」
「そ、それはちょっと!まだ……心の準備が……」
「あはは、冗談ですよ。でも、いつかは行きたいなあ」
冗談めかした口調だが、その目は全く笑っていなかった。彼は確実に、私のパーソナルスペースの奥深くまで入り込もうと隙を窺っているのだ。
「じゃあ、どんな男性がタイプですか?」
「えっと……誠実で、優しい人、かな……」
「誠実で優しい人……なるほど。僕、先輩には誰よりも優しくしますね」
「あ、うん……ありがとう……?」
「今まで、どんな人と付き合ってきたんですか?」
「……ずっとアイドルやってたし、引退してからも仕事ばかりで出会いなんてなかったから。そういう経験は、全然……」
私がボロを出さないよう、正直かつ当たり障りのない回答で防衛線を張ろうとすると、辰巳くんはピタリと動きを止め、驚いたように目を丸くした。そして次の瞬間、先ほどまでの何倍も熱を帯びた、ドロリとした歓喜の表情を浮かべた。
「じゃあ、僕が先輩の『初めての恋人』ってことですね……っ!」
「えっ、いや、だからこれは役作りのごっこ遊びで……!」
「ごっこでも、嬉しいです!先輩の初めてを僕が全部もらえるなんて……最高の彼氏になれるように、全力で頑張りますね!」
彼は本当にこれが『ごっこ』だと理解しているのだろうか。まるで本当の彼氏のような振る舞いだ。
ただの隣人や後輩の枠を完全に踏み越えたプライベートな質問に対し、結果的に「過去に男の影がない」という事実を与えてしまったことは、彼の重たい愛にさらに油を注ぐ結果となってしまったらしい。
彼からの質問攻めは続く。どれもプライベートの核心に迫る内容ばかりだ。私はボロを出さないよう、当たり障りのない回答で必死に防衛線を張り続けた。
早く、早く帰りたい……っ!胃に穴が開きそう……!
テーブルの下で、私は自分の膝をきつく握りしめていた。永遠にも感じられる、地獄のような二時間。
どうにか目の前の料理を平らげ、彼が満足するまでの息の詰まる『恋人ごっこ』に耐え抜き、私たちはようやく店を出ることになった。
個室を出る直前、彼は再び黒縁眼鏡と大きなマスクを装着し、アイドルのオーラを完全に消し去って『隣人の田中さん』へと戻った。
ガヤガヤと賑わう店を出ると、まだ初夏の眩しい陽射しがアスファルトを焦がしていた。まだ日は高く、これから夕方に向かう時間帯だ。このまま「じゃあ次に行きましょう」なんて言われたら、私の精神が擦り切れてしまう。
視線の先には、学校帰りの高校生たちの集団や、少し早めに仕事を終えたサラリーマン風の男達がぽつりぽつりと歩き始めている。夕方のラッシュが、少しずつ始まろうとしていた。
「ねえ、田中さん」
私は彼を不快にさせないよう、けれどこれ以上ないほど『先輩としての真剣な表情』を作って、彼の立ち止まった横顔を見上げた。
「……何ですか、先輩?」
「ここから夕方になると、一気に人が増えるよ。学生さんとか、仕事帰りの人とか……。万が一、ここで『辰巳 慧』の顔がバレたら大変なことになる」
「でも、ちゃんと変装してますし……」
「ダメだよ。今の田中さんは、ドラマの大事な時期なんだから。私、そんなことで貴方のキャリアに傷がつくようなこと、絶対にあってほしくない。ファンの子たちだって、そんなの望んでないよ。……だから、今日はこれくらいにして、お家に帰ろう?」
辰巳くんは、マスク越しに息を呑むようにして、私をじっと見つめてきた。黒縁眼鏡の奥のプラチナブルーの瞳が、驚きに揺れている。やばい、言い方が強すぎただろうか……。背中にじわりと嫌な汗が伝う。けれど、次の瞬間。彼の細められた目元に、じっとりと蕩けるような歓喜の色が浮かんだ。
「……先輩。僕のことを、そんなに心配してくれてるんですか?」
「え?あ、うん。もちろん……。大切な、後輩だからね」
「嬉しいなぁ。先輩が、僕の身の安全を一番に考えてくれてる……。そっか。先輩の言う通りですね。僕がここで捕まっちゃったら、先輩にも迷惑がかかるかもしれないし」
違う、私は私の身の安全を一番に考えている。そんな私の内心の悲鳴など、彼の超高精度の脳内フィルターは一瞬で『健気な愛情』へと変換してしまったようだ。それでも、効果はてきめんだった。辰巳くんは深く納得したように頷き、それ以上デートを引き伸ばそうとはしなかった。
「わかりました。先輩の言う通り、今日は大人しく帰ります。……僕を大切に思ってくれて、ありがとうございます、先輩」
「う、うん。わかってくれてよかった」
なんとか最初の防衛線を突破した。
約束通り、彼は私と手を繋ごうとはしなかった。しかし、その距離感は明らかに行きよりも近かった。私の肩と彼の腕が、歩くたびに微かに触れ合うほどの密着具合だ。
「……あの、田中さん。ちょっと近くないかな……?」
私が恐る恐る指摘すると、彼はマスク越しにふわりと目を細めた。
「え?でも、僕たち『恋人』ですよね?外で手を繋げない分、これくらいは許してくださいよ。それに……」
言いかけて、彼が突然私の肩をグッと抱き寄せた。
「ひっ……!」
「危ないですよ、先輩」
すれ違いざまに、無灯火の自転車が私たちのすぐ横を猛スピードで通り過ぎていった。彼が引き寄せてくれなければ、ぶつかっていたかもしれない。
「あ……ありがとう」
「いえ。大切な『恋人』を守るのは、彼氏の役目ですから」
耳元で囁かれたその甘い声に、背筋がゾクッと粟立つ。彼はただの親切や『役作り』を装いながら、合法的に私に触れ、自分のテリトリーに閉じ込めようとしているのだ。
怖い……っ!でも、ここで不自然に振り払ったら……。
「頼りになるね、後輩くん」
私は恐怖を必死に押し殺し、あくまで『ちょっと鈍感な先輩』としての余裕を装って微笑むしかなかった。
マンションに到着し、それぞれの部屋の前で立ち止まる。
「今日は本当にありがとうございました。最高の『初デート』でした……♡」
203号室の前で、彼は名残惜しそうに私を見つめてくる。
「う、うん。お疲れ様、田中さん。おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい、先輩……あ、二人きりの時は『うたたん』って呼んでもいいですか?」
「えっ!?」
「僕の、特別な恋人ですから」
有無を言わせない、仄暗い熱を帯びたプラチナブルーの瞳。私は引き攣った笑顔のまま、小さく頷くことしかできなかった。
「……ふふっ。おやすみ、うたたん♡」
これ以上見ていられず、私は逃げ込むように202号室に飛び込み、二重ロックをかけた。
「はぁっ、はぁっ……」
玄関のドアに背中を預け、ずるずるとへたり込む。
『恋人ごっこ』という名目で、彼の執着はこれからさらにエスカレートしていくに違いない。私は自ら、虎の尾を踏んでしまったことを深く深く後悔していた。
壁の向こうの203号室。
玄関に入った慧は、靴も脱がずにその場で両手で顔を覆い、天を仰いでいた。
ごっこだとしても、うたたんが、僕の恋人に……っ!僕の、僕だけのものになった……!!
詩の『気付いていないフリ』による決死の防衛線など露知らず、慧はついに彼女の恋人の座を手に入れたという至上の喜びに打ち震えていた。
「外で手を繋げないのは残念だけど……大丈夫。僕が絶対、君を僕なしじゃ生きられないようにしてあげるからね、うたたん♡」
暗闇の部屋の中、祭壇のグッズたちに見守られながら。辰巳の甘く、ひどく濁った歓喜の笑い声が、静かに響き渡っていた。
つづく




