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古株ファンがヤンデレだった件  作者: 柊原 ゆず


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第十五話 必死の攻防


 月曜日のオフィス。自分のデスクに座る私は、パソコンの画面を見つめたまま、完全にフリーズしていた。

 どうすれば、あの激重人気アイドルから安全に距離を取れるの……?

 頭の中は、その一つの命題で完全に支配されていた。私は現在、ごく普通のOLとして働いている 。昨日、隣室の203号室に住む彼と『役作りのための恋人ごっこ』の契約を結ばされてしまった 。二人きりの時は『うたたん』と呼ばれることになり、毎日「おはよう」と「おやすみ」の挨拶が送られてくるという、地獄のような疑似恋愛がスタートしている 。

 このまま彼のペースに呑まれ続ければ、遅かれ早かれ私の平穏な生活は完全に崩壊する。なんとかして、彼を刺激せずにフェードアウトする方法を見つけなければならない。

 私はエクセルの表にダミーの数字を打ち込みながら、脳内で必死にシミュレーションを展開した。

 作戦その一、引っ越しをする。一番手っ取り早い物理的な距離の取り方だ。……が、即座に却下。彼はアイドル引退から三年以上経った私の現在を特定し、ストーキングの末に隣の部屋へ引っ越してくるような異常な執念の持ち主だ 。彼には人気アイドルとしての莫大な財力があるため、私がどこへ逃げようと、興信所でも何でも使ってあっさりと見つけ出してしまうだろう 。むしろ『逃げられた』と気付かせて逆上させるリスクが高すぎる。

 作戦その二。連絡を徐々に無視する。普通の人間関係ならこれで自然消滅を狙える。……これも却下。相手は壁一枚隔てた隣人だ 。連絡を無視すれば「体調でも悪いんですか?」と無邪気なふりをしてインターホンを鳴らされるか、ゴミ出しや通勤のタイミングで確実に待ち伏せされる 。逃げ場なんてない。

 作戦その三。架空の彼氏がいることにして諦めさせる。これが一番危険だ。彼は全国ネットのテレビ番組で、堂々と『同担拒否』を宣言するような男である 。そんな彼の前で「実は彼氏ができちゃって……」なんて言おうものなら、その架空の彼氏、あるいは架空の存在だと見破られた私自身が物理的にどうなるか分かったものではない。


「……詰んでる」


 小さく、絶望の吐息が漏れた。考えれば考えるほど、四方八方を強固なコンクリートで塞がれているような息苦しさを覚える。私が今取れる唯一の生存戦略は、『彼の気持ちに気付いていない、少し鈍感で真面目な先輩』という仮面を絶対に剥がさないことだけだ 。

 とにかく、ボロを出さないように。彼が求める『疑似恋愛』には付き合いながらも、絶対に隙は見せない。連絡は業務連絡のように淡々と返して、彼がこの『役作り』に飽きるのをひたすら待つしかない……。

 それしか道はないのだと自分に言い聞かせていた、まさにその時。デスクの上に伏せて置いていた私のスマートフォンが、ブルッと短く震えた。


『田中:おはようございます、うたたん♡ 今、お昼休憩ですか?僕は今から雑誌の撮影です!先輩が今日も一日頑張れるように、特別にオフショット送りますね!』


 メッセージと共に送られてきたのは、メイク中の鏡越しに撮られた、息を呑むほど美しい彼の自撮り写真だった。子犬のように少し首を傾げ、甘い笑顔でこちらを見つめている。世間のファンが見たら発狂して倒れそうなプレミアムな一枚だが、今の私にとっては、監視カメラの映像を見せつけられているような恐怖しか湧いてこない。

 ……ああ、もう。本当に胃が痛い。

 私は周囲に人がいないことを確認し、震える指で『先輩としての完璧な返信』を打ち込み始めた。


『お疲れ様です。写真ありがとう、撮影頑張ってね。私も午後のお仕事に戻ります。』


 絵文字は一つも使わない。徹底的に温度感を下げる。どうか、彼が早くこのくだらない『恋人ごっこ』に飽きて、新しいドラマの役にでも夢中になってくれますように。叶うはずもない祈りを胸に秘めながら、私は冷え切った手でスマートフォンの画面を閉じた。






『お疲れ様です。写真ありがとう、撮影頑張ってね。私も午後のお仕事に戻ります。』


 撮影の合間、スマートフォンの画面に表示されたその短いメッセージを見て、僕はふにゃりとだらしない笑みを浮かべた。絵文字も顔文字も一切ない、ひどく事務的な文面。けれど、僕の目にはそれがたまらなく愛おしく映っていた。

 うたたん、職場のデスクで周りの目を気にしながら、必死に平静を装って返信してくれたんだな……。真面目な先輩として振る舞おうとする不器用なところ、本当に最高に可愛い♡

 僕が送ったとびきりの自撮りを見て、きっと彼女の心臓も跳ねたはずだ。照れ隠しでこんなそっけない文章になっているのだと思うと、いますぐ彼女のオフィスに乗り込んで、その赤い頬にキスをしたいくらいだった。


「辰巳くん、次の衣装の準備できたよー!」

「はい!今行きます!」


 スタッフの声に、僕は弾むような声で応えた。彼女からの「撮影頑張ってね」というエールのおかげで、今日の僕は無敵だ。どんなハードなスケジュールでも、羽が生えたようにこなせる自信があった。

 早く仕事を終わらせて、僕の『恋人』に会いに行かなくちゃ!






 会社の定時を過ぎても、私は自席に残り、特に急ぎでもない資料の整理を続けていた。

 ……よし。これくらい時間をずらせば、彼の把握している私の帰宅時間からは完全に外れるはず。彼は私が毎日同じ電車で帰宅していることを知っている。もし彼が今日も私を待ち伏せしているとしたら、いつも通りの時間に帰るのは危険すぎる。私はあえて一時間半の残業をし、帰宅のピークを過ぎた夜遅くにオフィスを出た。すっかり暗くなった道を歩き、最寄り駅に着く。冷たい夜風が首元を吹き抜けたが、私の心は少しだけ安堵していた。これだけ時間をずらせば、さすがにあのマンションの前で鉢合わせることもないだろう。

 しかし、その淡い期待は、マンションから数十メートル離れたコンビニの角を曲がった瞬間に粉々に砕け散った。


「あ……うたたん!おかえりなさい」


 街灯の下。

 見覚えのある黒いパーカーに、顔の半分を覆う大きなマスク。隣人の田中さん――辰巳くんが、自販機の横の薄暗い影に溶け込むようにして立っていた。


「た、田中さん……?どうして、こんなところに……」


 私が思わず後ずさると、彼は歩み寄り、プラチナブルーの瞳を心配そうに細めた。


「今日はいつもより帰りが遅かったから、心配で……ずっとここで待ってたんです。無事でよかった」

「ずっと……って……」

「一時間半くらいですかね? でも、うたたんを待つ時間なら全然苦じゃないですよ。僕たち、恋人同士なんですから」


 甘く、けれど逃げ場のない重力を持った言葉。彼は、私が定時に帰ってこなかったことで、わざわざマンションの外に出て私を待ち伏せしていたのだ。時間をずらした私のささやかな抵抗すら、彼の執着の前では『恋人を心配する健気な彼氏の行動』に変換されてしまった。


「さあ、帰りましょう。……手、繋いでもいいですか?」

「えっ、でも……外だし、誰かに見られたら……」

「大丈夫ですよ。こんな暗い道なら誰も見ていませんし、うたたんの冷えた手を温めるのも、彼氏の役目ですから」


 私が断る隙も与えず、彼は私の右手をすっと取り、自分のパーカーのポケットの中へと強引に引き入れた。ポケットの中で、熱を帯びた彼の大きな手が、私の指をきつく絡めとる。もはや抵抗する気力すら削がれ、私は薄暗い夜道を、彼に手を引かれるままに自分の部屋である202号室へと向かって歩くしかなかった。

 手を引かれたまま、私たちはマンションの二階へと辿り着いた。私の部屋である202号室と、彼の部屋である203号室の前だ。彼がパーカーのポケットに入れていた私の手をゆっくりと解放する。冷たい外気と、彼の手のひらから離れた安堵感が同時に押し寄せた。


「今日帰り遅かったから、ご飯まだですよね?僕、お夕飯作ったので、うたたんのお家で一緒に食べませんか?」


 ニコリと笑って、彼はこともなげにとんでもない提案をしてきた。一緒に、部屋でご飯を食べる。それはつまり、私のテリトリーである完全な密室に足を踏み入れるということだ。


「あ、ええと……」

「ちょっと待っていてくださいね、作り置きを温めてくるので」


 私が言い淀んでいるのを承諾と受け取ったのか、辰巳くんはウキウキとした足取りで、自分の部屋である203号室のドアノブに手をかけた。

 彼が私から完全に目を離し、背中を向けた、ほんの一瞬の隙。

 今だ……っ!

 私は音を立てないように素早く、けれど全力で自分の部屋のドアを開け、弾かれたように自室へと滑り込んだ。バタンッ、とドアを閉め、震える手で二重ロックをかける。そのまま玄関の床にへたり込み、息を殺してスマートフォンを取り出し、連絡アプリを開いて彼宛てにメッセージを打ち込んだ。


『ごめんなさい。今日はもう食べてきました。おやすみなさい』


 送信ボタンを押した瞬間、恐怖と安堵で涙が溢れそうになった。

 本当にどうしよう。壁の向こうにいる人気アイドルは、異常な執念を持ったストーカーだ。今回はなんとか逃げ切れたけれど、彼のエスカレートしていく要求をいつまでも躱しきれるわけがない。

 このままだと本当に、一線を超えてしまう……。

 もし私の部屋に招き入れてしまったら、何をされていたか分からない。自分の甘さと、じわじわと外堀を埋められていく絶望感に、私はただ震えることしかできなかった。

 その夜、私はベッドに潜り込み、恐怖でガタガタと震える自分の身体をきつく抱きしめながら、浅い眠りについた。






 僕は自分の部屋である203号室のキッチンへと向かった。電子レンジのスイッチを入れ、温め終わるとウキウキとした足取りですぐに廊下へと引き返す。


「お待たせ、うたた――」


 しかし、そこには彼女の姿はなく、代わりに202号室の重たいドアが固く閉ざされていた 。その直後、僕のスマートフォンの画面が明るくなり、短い振動が掌に伝わってきた 。画面に表示されたのは『ごめんなさい。今日はもう食べてきました。おやすみなさい』といううたたんからの連絡アプリのメッセージだ 。

 普通の男なら、ここで避けられたと落ち込むか、舌打ちでもするのだろう。けれど、僕は暗い廊下でスマートフォンの画面を見つめたまま、マスクの下で口角が吊り上がるのをどうしても抑えることができなかった。

 ……っ、可愛すぎる……!

 僕を部屋に入るのが、僕と二人きりの密室になるのが、そんなにも恥ずかしかったんだ。僕たちは『恋人』としての関係が始まって間もない 。いきなり部屋に上げるなんて、真面目で純粋な彼女にとっては乙女心としてハードルが高すぎたに違いない。僕が背中を向けた一瞬の隙をついて慌てて自室に逃げ込み、ドアの向こうで真っ赤な顔をしてこの文章を打ってくれたのだ 。


「あははっ、本当にウブだなあ、僕の可愛い恋人は♡」


 僕はスマートフォンの画面の『おやすみなさい』の文字にそっと唇を落とし、自分の部屋に戻った。

 ガチャリと鍵を閉め、靴を脱ぐ。そのまま部屋の奥にある、彼女のブロマイドで壁一面を隙間なく埋め尽くし、缶バッジの海を敷き詰めた『祭壇』へと真っ直ぐに向かった 。


「うたたん、聞いて。今日は部屋に入れる心の準備ができてなかったみたい」


 僕は祭壇のグッズたちに向かって、嬉々として報告した。


「でもね、食事に誘った時の照れた顔も、申し訳なさそうに送ってくれたメッセージも、全部が愛おしかったよ。僕と一緒にご飯を食べるのを、異性として強烈に意識してくれてる証拠だもんね」


 僕はキッチンに戻り、作り置きしていた二人分の手料理をテーブルに並べた 。そして、向かいの誰も座っていない空の椅子を見つめる。

 物理的な壁が、今はまだ二人を隔てている。けれど、彼女は確実に僕の引いた網の中で、僕という存在に翻弄されている。そのささやかな抵抗すらも、僕にとっては甘い蜜の味だ。


「大丈夫、焦らないよ。君が自分から、僕の腕の中に落ちてくるその日まで……ちゃんと待っててあげるからね♡」


 誰もいない部屋で、僕は一人分の料理を口に運びながら、甘く歪んだ至福の余韻に深く沈んでいった。


つづく

詩ちゃんが怯え続けているのが可愛くて、ついついたくさん考えてしまいます。

ですが、次から本格的に話が進んでいけたらと思います。

はたして詩ちゃんは逃げることができるのでしょうか……!

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