第二十六話 消える境界線
いつからだろう。自分の意志で、自分の足の裏に体重を乗せることすら、ひどく億劫になってしまったのは。
最高級の羽毛がたっぷり詰まったふかふかのベッドは、まるで私を逃がさない底なし沼のように、身体を甘く深く沈み込ませている。重い瞼をこじ開け、肌に吸い付くシルクのシーツから這い出すようにして上体を起こそうとした途端、ふらりと視界がぐらついた。
平衡感覚が鈍く揺れ、思わず枕元に手をついて荒い息を吐く。
この空調が完璧に管理されたペントハウスに連れてこられてからというもの、私はこの広大な室内を自分の足で歩き回る必要すらない生活を送っている。欲しいものは言葉にする前に目の前に差し出され、行きたい場所があれば彼が抱き上げて運んでくれる。その圧倒的なまでの過保護と運動不足のせいで、私の筋肉はすっかり痩せ細り、明らかな体力の低下を引き起こしていたのだ。
それでも、今日は少しだけ……自分の足で歩いてみよう。
そんな微かな自立心の残滓が芽生え、ベッドの端から冷たいフローリングへと、白い素足をそっとおろした。その瞬間だった。
「あっ、駄目だよ、うたたん。僕が運ぶって言ったのに」
かすかな衣擦れの音すら聞き逃さない獣のように、慧くんが小走りで寝室に現れた。彼の足音は分厚い高級絨毯に吸い込まれ、ほとんど無音に近い。
咎めるような、けれど甘さをたっぷり含んだ声とともに、彼は私の前にひざまずく。そして、私が抵抗する隙も与えずに膝裏と背中にスッと腕を回すと、ふわりと私の重力を奪い去った。
「っ……慧くん、私、自分で歩けるよ……」
「駄目。うたたんはまだ起きたばっかりでフラフラしてて危ないでしょ?もし転んで、その綺麗な足に怪我でもしたらどうするの」
彼はひょいっと私を抱き上げると、まるで私の重さなど微塵も感じていないかのような軽やかな足取りで寝室を出る。私のささやかな抗議は、彼の甘い微笑みと、密着した胸の奥から響く穏やかな心音にあっさりと掻き消されてしまった。
彼の腕の中は不快なほど温かく、そして、絶対に逃げ出せない檻のように強固だった。
そのまま運ばれて連れて行かれたのは、目が眩むほど明るい洗面所だ。
大理石のカウンターの前には、私のために特別に用意された毛足の長いベルベットの椅子が置かれている。慧くんはそこへ、壊れやすい精巧なアンティークドールでも扱うかのような、恐ろしいほど丁寧な手つきで私を座らせた。
スチームで適温に温められたふかふかのタオルが、ふわりと私の頬を包み込む。
彼の手は私に一切の労力を許さず、目元から首筋にかけての微かな寝汗を、優しく、じっくりと拭い去っていく。
「今日はどの香りのクリームがいい?こっちのブルガリアンローズ?それともラベンダー?昨日は甘いのがいいって言ってたから、バニラも開けてみたんだけど」
カウンターの上にずらりと並べられた高級なスキンケア用品の小瓶を指差し、彼は機嫌良く私の顔を覗き込む。
それは一見、私に『選択』という自由を与えているようでいて、その実、彼が完璧に用意した手のひらの上での、小さな遊戯に過ぎない。
「……ラベンダーで、お願い」
「うん、わかった。ラベンダーね。うたたんにとっても似合うと思うよ」
私の消え入りそうな小さなリクエストに、彼は目尻を下げて満面の笑みで応えた。
蓋を開けると、心を鎮めるような深みのあるラベンダーの香りがふわりと広がる。慧くんは自分の手のひらでクリームを人肌に温めてから、私の頬へと滑らかに指先を滑らせた。
円を描くように、優しく、ねっとりと。肌の奥底まで彼の存在を染み込ませるような、執拗なまでの丁寧さでマッサージが始まる。
心地よい香りに包まれ、彼の指先の滑らかな動きに翻弄されながら、私はぼんやりと正面の大きな鏡に映る自分を見つめた。
そこにいるのは、誰だろう。
かつての私は、毎朝満員の通勤電車に揺られ、他人の靴に踏まれながら鬱屈とした溜息をついていた。目の下にはくっきりと隈を作り、パサついた髪を雑にまとめ、ブルーライトを放つパソコンの画面と死んだ魚のような目で睨み合っていた、名ばかりの社会人『小林詩』だったはずだ。
けれど今、鏡の中にいる女はまるで別人のように生気を持っていた。
ストレスも、慢性的な疲労感も、明日への不安も、口座の残高を気にする焦燥も、何一つない。ただただ一人の男に極限まで甘やかされ、日光を遮られ、上質なクリームで磨き上げられた、血色の良い艶やかな肌をした女。唇は桜色に潤い、髪はシルクのように輝いている。
美しく、完璧で、そしてひどく空っぽだ。
ああ……私はもう、完全に彼のお人形なんだ……。
慧くんの指が、私の唇の輪郭をそっとなぞる。
鏡の中の『お人形』は、抵抗することもなく、ただ静かにその重たい愛撫を受け入れていた。
このペントハウスに連れ込まれた最初の頃は、まだ私の中に社会人としての『小林詩』の自意識がはっきりと残っていた。外の世界への強烈な未練や、社会の歯車から完全に切り離されてしまったことへの焦燥感。彼がキッチンに立っている隙にどうにか外へ連絡できないかと考えたり、逃げ出さなければと、頭の片隅で常に細い警鐘が鳴り響いていた。
けれど、今は違う。
外の世界のことを考えようとすると、途端に頭の中に分厚く濁った靄がかかったように重くなり、呼吸すら苦しくなるのだ。
『現実』の泥臭さと疲労感を思い出すだけで、胃の奥がせり上がり、吐き気がするほど疲れてしまう。自分の足で社会を歩いて生きていくということは、痛くて、辛くて、酷くすり減るものだった。
それに比べて、ここはどうだろう。
私を物理的にも精神的にも傷つけるものは、何一つない。寒さも、飢えも、他人の悪意も、労働の義務も、ここには存在しない。あるのはただ、私を唯一の神様だと崇拝し、私を愛することだけに全人生を捧げている美貌の青年と、完璧な環境だけ。
それならいっそ、もう何も考えなければいいのだ。
自分の足で歩くこと。自分の頭で考えること。社会で自立して生きていくという、人間としてのささやかな尊厳。
そんな厄介な重荷はすべて窓の外へ投げ捨ててしまえばいい。思考することを放棄し、彼が絶え間なく与えてくれる、致死量の甘い毒のような底なしの愛情に、ただぷかぷかと身を委ねてしまえばいい。
彼に身も心もすべてを明け渡してしまえば、ここは間違いなくこの世で一番安全で、狂おしいほどに甘い天国だった。
「髪、梳かすね。……今日もすごく綺麗だよ、僕の神様」
背後から優しくブラッシングされながら、心地よい微睡みが再び私を包み込む。
彼に身も心もすべてを明け渡すことは、本来ならひどく恐ろしいことのはずだった。
自分の足で立つ力を失い、誰かに生殺与奪の権利を握られるということなのだから。なのに、私の体はもう、彼の甘い香水の匂いを嗅ぐだけで無条件に安心し、彼の優しくとろけるような声を聞くまで、すんなりと眠りにつくことすらできなくなっていた。私は完全に、彼という甘い猛毒に飼い慣らされてしまったのだ。
「……慧くん」
「なぁに?ブラシ、痛かった?」
鏡越しに視線が絡むと、彼は私の髪を梳く手を止め、心配そうにこちらを覗き込んでくる。そのプラチナブルーの瞳には、私という存在への純粋な慈愛だけが溢れていた。
「ううん……」
小さく首を横に振る。
頭の中の靄はさらに濃く、分厚くなり、もはや難しいことは何も考えられなくなっていた。ただ、彼の体温に触れたい。温かいものにすっぽりと包み込まれて、外の世界のすべてから完全に守られたい。
社会で限界まで摩耗し、この鳥籠での極限の甘やかしによってドロドロに溶かされた私の心は、まるで親の絶対的な庇護を求める幼子のように、ただひたすらに彼という『安全地帯』への逃避を渇望していた。
そして、同時に思う。
鏡の中で私を見つめる、この美しくも狂った男のことを。彼は、本来なら眩いステージの上で何万もの歓声を浴びていたはず。けれどそのすべての輝きを捨ててまで、私というたった一人の人間を崇拝し、ひざまずき、全人生を捧げている。その異常なまでの重たい愛が、恐ろしさを通り越して、ひどく愛おしいものに思えてしまった。
この人には、私しかいない。私が笑うだけで世界を救われたかのように喜び、私が拒絶すればこの世の終わりのように絶望する。それなら、私がこの狂おしい愛の器になり、彼を心の底から満たしてあげたい。
それは恐怖による服従ではなく、逃れられない『共依存』という名の、深く歪んだ愛情が完全に芽生えた瞬間だった。
「……あのね」
自分でも驚くほど、甘く、とろけるような声が出た。私は鏡の中の彼を見つめたまま、ゆっくりと瞬きをして、その言葉を口にした。
「……ぎゅって、して」
その瞬間。
鏡越しに映る慧くんの動きが、まるで時間が凍りついたようにピタリと止まった。
呼吸すら忘れたかのように見開かれた瞳。
カツンッ、と。彼の手から滑り落ちた高級な木製のヘアブラシが、大理石の床に落ちて硬く乾いた音を響かせる。
次の瞬間、私の体は背後から押し潰されるような、骨が軋むほどの強い力で乱暴に抱きしめられていた。
「――っ、ああ、うたたん……!うたたん、うたたんっ!!」
背中から覆い被さるように、彼が私の首筋に顔を深く、深く埋める。
耳元で響いたのは、歓喜に咽び泣くような、あるいは飢えた獣のような、悲痛な唸り声だった。
今まで、この鳥籠での関係はすべて、彼が一方的に与え、私が受動的にそれを受け入れるだけのものだった。それが今、私の方から自発的に彼の愛情を求めて甘え、彼を受け入れたのだ。その初めての行動は、彼の抱える巨大な狂気に、最後の決定的なピースをカチリと嵌め込んでしまったようだった。
「愛してる……愛してるよ。君の方から僕を求めてくれるなんて、本当に、夢みたいだ……っ!ああ、どうしよう、可愛くて、可愛くて、おかしくなりそうだ……っ!」
私を抱きしめる腕の力が、さらに強くなる。痛いほどなのに、その熱がひどく心地よかった。
首筋に、ポツリ、ポツリと熱い雫が落ちてくる。日本中を熱狂させていた元人気アイドルが、ただ一人の女に甘えられたというそれだけの事実で、子供のように声を出して泣いているのだ。
「……私も……慧くんが、好き」
すべてを諦め、空っぽになった私の心に、彼が注ぎ込む過剰なまでの愛だけがどろりと満ちていく。
彼の熱い涙と、首筋や耳元に執拗に落とされるキスの雨を甘んじて受け入れながら、私は静かに目を閉じた。
もう、外の世界には戻れない。ううん、本当はもう、戻りたくなんてないのだ。
煌びやかな東京の夜景を眼下に見下ろす、この広くて無機質な、決して扉の開かない黄金の鳥籠の中で。
私と彼の境界線が完全にドロドロに溶けて消え去った、甘く、恐ろしく、狂おしい『絶対的な依存』が完成した瞬間だった。
つづく




