第二十五話 お人形
決して開くことのない窓――分厚い防音ガラスと、絶対に私には開けられない特殊なロックで塞がれた巨大な窓しかない――広大なペントハウスに来てから、一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。
この美しすぎる部屋には、時計も、カレンダーも、テレビも、一切の時間がわかるものが存在しない。あるのはただ、私と彼と、狂気的な熱量を放つ祭壇だけだ。
連れてこられた最初の数日間は、窓から差し込む太陽の光と、眼下に広がる東京の夜景を頼りに「今が何日目か」を必死に頭の中で数えていた。けれど、彼が完璧に管理し、押し付けてくる『彼と過ごすための生活リズム』に巻き込まれているうちに、曜日の感覚も、昼夜の境目すらも次第に曖昧に溶け出していった。
私は今、彼が「朝だよ」と言えば朝を迎え、彼が「おやすみ」と言えば眠りにつく、彼だけの時間軸の中で生かされているのだ。
「うたたん、あーんして?」
ふわりと甘い香りが漂い、銀色の小さなフォークが私の口元へと運ばれてくる。フォークの先に刺さっているのは、宝石のように艶やかに輝く、美しくカットされた瑞々しい季節のフルーツだ。
私は自分で手足を動かせるし、怪我をしているわけでもない。けれど、ここで「自分で食べる」と拒絶した時の、彼が悲しそうに歪める顔と、その奥に見え隠れする底知れない執着の炎を想像すると、無駄な抵抗をする気力はとうに削がれていた。
私はされるがままに、微かに震える唇を小さく開けてそれを受け入れた。口の中に、極上の甘さと果汁がいっぱいに広がる。悔しいけれど、彼が私のためだけに用意するものは、どれも信じられないほど美味しいのだ。
「……うん、美味しいよ」
「美味しい?ふふっ。よかったあ」
甘く、蕩けるような声。けれど、その過保護すぎる愛情は、私の手足から確実に自由を奪い去っていく。
この美しすぎる鳥籠での私の仕事は、『彼に愛され、彼に世話を焼かれること』だけだった。
朝起きれば、彼が私の体型に合わせてあつらえた最高級の服を着せられ、彼の手によって丁寧に髪を梳かされる。食事は全て彼が完璧な栄養バランスで作ってくれる上、少しでも硬いものや、ナイフやフォークを使うような料理は、「危ないから」と彼が全て一口大に切り分けてから私の口へと運ばれてくるのだ。掃除も、洗濯も、食器の片付けすらも。私が家事のために指一本動かすことは、絶対に許されていなかった。
このままじゃ、私……本当にただの『生きているお人形』になってしまう……!
危機感が胸をよぎる。自分のことは自分でやりたい。誰かに全てを管理され、思考することすら奪われるお人形にはなりたくない。私は、彼の機嫌を損ねないよう慎重に言葉を選びながら、おずおずと口を開いた。
「あのね、慧くん」
「ん?どうしたの、うたたん。もっと何か食べたい?」
「ううん、そうじゃなくて。私……毎日ずっと座ってるか寝てるかだけで、運動不足になっちゃうから。その……お皿洗いとか、掃除機をかけるのくらい、手伝わせてくれないかな?」
それは、私の人間としての、そして社会で自立して生きてきた『小林 詩』としての、ギリギリのささやかな抵抗だった。
しかし。私のその言葉を聞いた瞬間。
ピタリ、と。私の髪を優しく撫でていた彼の手が、不自然なほど完全に停止した。慧くんのプラチナブルーの瞳から、スッと、蝋燭の火を吹き消したように光が消えた。さっきまで花が咲いたように笑っていた顔の筋肉はそのままに、瞳の奥に宿っていた熱だけが急速に冷え切り、無機質なガラス玉のように私を見下ろしている。
室内の温度が一気に数度下がったかのような、息が詰まるほどの圧倒的な威圧感。彼が発する異様な冷気に、私の全身の産毛が総毛立った。
しまった、地雷を……踏んだ……っ!
「……手伝う?」
低く、地を這うような声が静かな部屋に響く。
それは、私が彼から自立しようとすること――すなわち、彼への『完全なる依存』を拒絶したことに対する、明確な怒りと失望の表れだった。
「……お皿洗い?」
「う、うん。少しは動かないと、本当に体が鈍っちゃうし……」
私がなんとか言葉を繋ごうとすると、彼は無表情のまま、ピシャリと言い放った。
「駄目だよ」
静かな、けれど有無を言わせない絶対的な拒絶。彼はゆっくりと立ち上がると、テーブル越しに身を乗り出し、私の両手をそっと包み込んだ。そして、捕らえた私の手を自分の口元へと引き寄せ、指先の一つ一つに、まるで神聖なものに崇拝の儀式を行うかのように、深く、熱い口付けを落としていった。
「ひっ……!」
「もし、お皿が割れて、君の綺麗な指が傷ついたらどうするの? 洗剤で、君の柔らかな肌が荒れてしまったら?」
「気をつけるから……」
「僕が嫌なんだ。うたたんの尊い手は、僕に愛されるためだけにあるんだよ。家事なんかで汚していいはずがない」
ちゅっ、ちゅっ、と。
指先から手の甲、そして手首へと、執拗に落とされる熱いキスの雨。それは愛情という名の、決して逃れることのできない重たい鎖だった。大切に扱われているはずなのに、指先に唇が触れるたびに、私の自由が一つ、また一つと奪われていく。物理的に手を握られているだけのはずなのに。冷え切った私の両手は、彼の熱を帯びた狂気によって、テーブルにきつく縫い付けられているようだった。
「でも、私、このままだと本当に……何もできない人間になっちゃう」
これ以上彼にすべてを委ねたら、私は私でなくなってしまう。その根源的な恐怖から、震える声で本音をこぼした。
すると、私の指先に唇を落としていた彼はゆっくりと顔を上げ、この世で最も美しい、そしてひどく歪んだ微笑みを浮かべた。
「いいんだよ。何もできなくて」
甘く、耳の奥を蕩かすような声が、私の訴えをふわりと包み込んで溶かしていく。
「君が自分の足で歩けなくなるなら、僕がずっと抱きしめて歩いてあげる。ご飯が自分で食べられなくなるなら、僕が一生、口移しで食べさせてあげる」
「……っ」
そのプラチナブルーの瞳には、狂気的なまでの熱情と、一片の曇りもない真実の愛だけが宿っていた。
彼の言葉に、嘘や誇張は微塵もなかった。彼は本気で、私が彼なしでは息をすることすらできない完全な『依存状態』になることを望んでいるのだ。社会人としての能力も、自分の身の回りの世話も、自立心も、自由な意志も。私が人間として生きていくための力を全部彼が奪い取り、代わりに彼の『無限の愛と保護』で満たそうとしている。
「うたたんは、僕の大切な神様だから。ただ、僕の用意したこのお城で、ずっと美しく微笑んでいてくれればそれでいいんだよ」
私の両手を包み込んだまま、彼はうっとりと目を細めた。
もう、抗う言葉はどこにも見当たらなかった。何を言っても無駄なのだ。私がどれだけ自立を望んで抵抗の言葉を紡いでも、彼の狂気的な献身フィルターを通せば、すべて『うたたんが無理をしている。僕がもっと世話を焼いてあげなくちゃ』という結論に変換されてしまう。
「……わかった。ありがとう、慧くん」
完全に心が折れ、私が諦めの吐息とともにそう呟くと、彼はパッと表情を輝かせた。
「どういたしまして!」
彼は弾んだ声で答えると、椅子から立ち上がり、私を背後からすっぽりと抱きしめた。背中から伝わる、彼の腕の心地よい温もり。鼻腔をくすぐる、彼の甘い香水の匂い。それらに優しく包み込まれながら、私の脳裏に浮かんだのは、つい先日までの日常だ。満員電車に揺られ、上司に気を使いながら懸命に働き、自分の足で社会を歩いていた『小林詩』という平凡な女性の記憶。それが今、真っ白で甘い霧の中に、少しずつ溶けて消えていくのを感じていた。
この美しすぎる鳥籠の中で。私は、自分がゆっくりと、彼が望む完璧な『お人形のうたたん』に作り変えられていくのを、ただ静かに受け入れることしかできなかった。
つづき




