第二十四話 完璧なガラスケースと甘い毒
ふわりと、鼻をくすぐる甘い香りで目が覚めた。
バターがとろけるような芳醇な香りと、深く焙煎されたコーヒーのほろ苦い香り。
ゆっくりと鉛のように重い瞼を開けると、視界を占める最高級のシーツの眩しい白、そして――私の顔を至近距離で覗き込んでいる、端正すぎる顔立ちが飛び込んできた。
「おはよう、うたたん。よく眠れた?」
鼻先が触れ合いそうな距離で微笑む慧くん。彼のプラチナブルーの瞳は、朝の光の中でも不気味なほどキラキラと輝いている。一体いつから、彼は瞬きもせずに私の寝顔をそうやって見つめていたのだろうか。
「……おはよう、慧くん」
心臓がヒュッと跳ね上がったけれど、私は引きつる頬を必死にコントロールし、寝起きの掠れた声で返した。
その瞬間。
彼のプラチナブルーの瞳が、まるで待ち望んでいたプレゼントを貰った子供のようにパァッと見開かれ、すぐに甘く、とろけるような三日月型に歪んだ。
「……っ!あはっ♡おはよう、うたたん♡」
彼は歓喜を噛み殺すような震えた声で囁くと、愛おしくてたまらないというように私の頬にそっと手を伸ばしてきた。長い指先が私の肌に触れ、親指の腹で優しく、けれど絶対に逃がさないという重たさを含んで撫でてくる。
「朝起きて一番に、君の口から『慧くん』って呼んでもらえるなんて……♡ああ、どうしよう。本当に幸せだ。僕、生きててよかった……♡」
世間の人が聞けば大袈裟だと笑うかもしれないセリフ。けれど、彼の瞳の奥でドロリと渦巻く熱情は、それが一切の嘘偽りない、狂気的なまでの本心であることを物語っていた。頬を撫でる指先の熱と、至近距離から注がれる逃げ場のない甘い眼差し。私は最高級のシーツの下で、ただ小さく身を強張らせることしかできなかった。彼は私のそんな硬直を『寝起きの初々しい照れ』だと都合よく解釈したのか、ふふっと嬉しそうに笑い、私の額にチュッと熱いキスを落とした。
「朝ごはん、できてるよ。フレンチトーストと、君が前好きだって言ってたカフェのコーヒー豆を取り寄せて淹れたんだ。ベッドまで運ぼうか?」
「ううん、起きる。リビングに行くね」
過剰なまでの世話焼きをやんわりと断り、私はベッドから抜け出した。彼があつらえた、私の体に吸い付くように馴染むシルクのパジャマのまま、静まり返った広大なリビングへと向かう。
昨夜は暗くてよく見えなかったが、朝の光に照らされたこのペントハウスは、恐ろしいほど美しく、そして生活感というものが一切排除された無機質な空間だった。広すぎる空間に、高すぎる天井。置かれているソファやテーブルはどれも最高級のブランド品で完璧にコーディネートされているが、まるで誰も住んでいない高級家具のショールームのようだ。テーブルの上に読みかけの雑誌があるわけでもなく、無造作に置かれたリモコンや、日常のささやかな汚れすらどこにも見当たらない。塵一つ落ちていない磨き上げられた大理石の床が、朝の光を冷たく反射している。ここは『人間が生活するための家』ではない。私というたった一人の人間を、最も美しい状態で保存し、永遠に愛でるための『ガラスケース』なのだと、その冷ややかな完璧さが無言で物語っていた。
唯一、その無機質な空間の中で異様なほどの熱気と色彩を放っているのが、リビングの奥に鎮座するあの巨大な『祭壇』だ。狂気的に並べられた私の過去の残骸から逃げるように視線を外す。
ダイニングテーブルには、まるで一流ホテルのルームサービスのような完璧な朝食が並べられていた。粉砂糖が雪のように振られたフレンチトースト、色鮮やかなフルーツ、湯気を立てる琥珀色のコーヒー。私は引かれた椅子に大人しく座り、ナイフとフォークを使って甘いフレンチトーストを口に運んだ。
普段の私ならば、美味しいと感じただろう。悔しいほどに完璧な焼き加減で美味しいはずなのに、極度の緊張と恐怖に支配された私の舌には、ただの砂を噛んでいるような味気ない感覚しか伝わってこなかった。
「……ねえ、慧くん」
「ん?どうしたの?シロップ足りなかった?」
「ううん、すごく美味しいよ。……ただ、少しテレビをつけてもいいかな。朝のニュースとか、見たいなって」
さりげなく、あくまで日常の延長として切り出したつもりだった。世間がどうなっているのか。私の捜索願が出されていないか。外の情報を少しでも、ほんの欠片だけでも得たかったのだ。
しかし、慧くんはコーヒーカップをカチャリと静かに置くと、ひどく困ったようにふわりと眉を下げた。
「ごめんね、うたたん。この部屋、テレビ線もネット回線も全部引いてないんだ」
「……え?」
「だって、必要ないでしょ?外のニュースなんて、誰かが不幸になったとか、誰かが誰かを叩いてるとか、そんな汚いノイズばっかりだ。君の綺麗な耳に入れるようなものじゃない」
彼はゆっくりと立ち上がり、私の背後に回って、私の髪を愛おしそうに指先で梳き始めた。
「それにね、今テレビやネットを見たら、きっと僕たちのことで大騒ぎしてる。心無い言葉で、君が傷つくかもしれない。僕の神様を傷つけるかもしれない世界なんて、一切見せたくないんだよ」
完璧なまでの情報統制。彼にとってそれは『愛する人への悪意からの保護』であり、私にとっては『完全な外界との遮断』を意味していた。スマートフォンを捨てられ、テレビもネットもない。時計が刻む時間すら、ここでは何の意味もなさない。この広く美しい部屋にあるのは、私と彼、そして狂気じみた量の私のグッズが並ぶ『祭壇』だけ。
「慧くん……今日、お仕事は?」
分かっていながら、私は震える声で尋ねた。髪を梳いていた彼の手がピタリと止まり、耳元に甘く、熱い吐息が触れる。
「言ったでしょ?もう辞めてきたって。僕のこれからの仕事は、うたたんを愛して、守って、幸せにすることだけ。だから、二十四時間、三百六十五日……ずっと君のそばにいるからね♡」
背筋に氷の刃を突き立てられたような悪寒が走った。人気アイドルとしての地位も、名誉も、眩い未来も。彼はその莫大なリソースを全て捨て、『小林 詩』という一人の人間を監視し、愛玩するためだけに全てを注ぎ込んでいるのだ。
「……そっか。嬉しい、な」
私がかすれる声で絞り出すと、彼は「僕も!」と弾んだ声で、私を背後から骨が軋むほどきつく抱きしめた。
窓の外には、広大な都心の青空が広がっている。けれど、特殊なロックがかけられたその分厚い窓ガラスの向こう側へ、私が帰れる日はもう二度と来ない。
優しい後輩。熱狂的なファン。異常な執着を持つストーカー。
その全てをどろどろに煮詰めたような男の腕の中で、私の精神はゆっくりと、甘い毒に侵されるように溶かされていくのを感じていた。
つづく




