第二十三話 鳥籠の中
首筋に押し当てられた唇から伝わる熱に、私はただされるがままに目を閉じていた。抵抗すれば、さらに強い力で縛り付けられてしまうのが分かっているから。
「っ……」
嵐が過ぎ去るのを待つように身を硬くしていると、やがてチュッ、と静かな音を立てて唇が離れた。辰巳くんは心の底から満足そうに、とろけるような甘い笑みを浮かべた。
「いい子だね、うたたん」
彼はそう囁くと、私の膝裏と背中にスッと腕を回し、いとも簡単に私をふわりと抱き上げた。所謂お姫様抱っこだ。
「えっ……!?」
「さあ、まずは温かいお風呂に入ろう?今日は急な引っ越しで、疲れちゃったでしょ」
抵抗を許さない腕の力と、床から浮き上がる浮遊感。落とされないように、私は反射的に彼の首に腕を回してしがみつくしかなかった。彼はまるで大切なお姫様でも運ぶかのようなご機嫌な足取りで、私を腕の中に収めたまま、広いリビングの奥へと歩き出した。
「新しいパジャマも、フカフカのタオルも、君の好きな香りの入浴剤も、全部用意してあるからね」
連れて行かれたバスルームは、私が昨日まで住んでいたあのアパートの部屋全体よりも、ずっと広かった。大理石が敷き詰められた床に、大人二人が足を伸ばしても余裕で入れるほどの大きなジャグジーバス。一流ホテルのスイートルームと見紛うようなその空間で、さらに私の目を釘付けにしたのは、広い洗面台の上にずらりと並べられた見慣れぬボトルの数々だった。
「これ……」
「うたたん、前に『いつか使ってみたいなあ』って言ってたでしょ?だから、シリーズで全部揃えておいたよ」
それは、私がアイドル時代、まだSNSをやっていた頃に、何気なく『憧れの高級ブランド』として呟いたことのあるスキンケアのセットだった。引退して、アカウントを消して数年が経つというのに。彼は私のそんな些細な呟きすらも完璧に記憶し、この黄金の鳥籠に私を迎え入れる日のために、わざわざ買い揃えていたのだ。与えられる愛情の規模が常軌を逸していて、背筋にぞわりと冷たい汗が流れる。
「じゃあ、僕は夕食の準備をしているから。ゆっくり温まっておいで。……ああ、でも」
辰巳くんは私をそっと大理石の床に下ろすと、ドアを閉める直前、ドアノブに手をかけたままプラチナブルーの瞳をスッと細めて私を見た。
「危ないから、鍵はかけちゃ駄目だよ」
「え……」
「もしうたたんがお風呂で倒れたりしたら、すぐに僕が助けに行けるようにね。……約束、できるよね?」
それは『心配』という美しいオブラートに包まれた、『逃げ場はないし、いつでもお前を監視している』という明確な警告だった。密室で、最も無防備になるはずのバスルームですら、彼から完全に隠れることは許されないのだ。もし私がここで内鍵をかければ、彼は『僕の忠告を無視した』と判断し、どんな手段を使ってでもこのドアをこじ開けてくるだろう。
「……うん。わかった」
逆らう気力もなく、力なく頷く。すると彼はパッと表情を明るくし、「いい子だね」と嬉しそうに私の髪を撫でて、パタン、とドアを静かに閉めた。
一人になったバスルームで、私は重い足取りで洗面台の大きな鏡の前に立った。震える手で服を脱ぎ、鏡に映る自分の姿を見つめる。白く細い首筋には、彼が先程つけた赤い痕が、痛々しいほどくっきりと残っていた。決して消えない、元人気アイドルによって刻み込まれた強烈な所有印。その痕を見た瞬間、私は自分の心がポキリと音を立てて折れるのを感じた。私はもう、平凡なOLの『小林詩』という一人の社会人ではない。彼だけの所有物であり、永遠に彼に愛でられ続けるだけの愛玩動物、『うたたん』へと引きずり落とされてしまったのだ。
シャワーを浴びて汚れを落とし、彼が用意してくれた大好きな香りの入浴剤が溶けた、温かいバスタブのお湯に浸かる。肌を包むお湯は極上の温かさのはずなのに。私の体の芯にこびりついた氷のような冷えは、どれだけ時間が経っても、全く取れることはなかった。
お風呂から上がり、脱衣所に用意されていた真新しいパジャマに袖を通す。肌に吸い付くように滑らかな、最高級シルクのパジャマ。淡い水色のそれは、驚くほど私の体型にぴったりとフィットしていた。身長だけでなく、細かいスリーサイズまですべてを完全に把握されている。それが余計に彼の執念の深さを感じさせて、シルクの心地よい温もりとは裏腹に、再び肌が粟立った。重い足取りでリビングに戻ると、ダイニングテーブルには信じられないほど豪華な食事が並べられていた。
食欲をそそる出汁の優しい香りが、ふわりと鼻をくすぐる。湯気を立てるホクホクの肉じゃがに、彩り鮮やかなほうれん草のおひたし、そして皮がパリッと香ばしく焼かれた立派な焼き魚。小鉢には丁寧に作られただし巻き卵やきんぴらごぼうまで添えられ、まるで高級な小料理屋のような、完璧な和食の御膳が完成していた。
これ、全部一人で……?
私の両親は共働きでいつも帰りが遅く、子どもの頃の夕食はスーパーの出来合いのお惣菜や、温めるだけの簡単なレトルト食品がほとんどだった。だからこそ、私はこういう『手間暇かけられた手作りの和食』に強い憧れを持っており、ずっと私の大好物でもあったのだ。引退してから数年、SNSもやっていない私の現在の嗜好を調べる術はないはず。だとしたら、どうして彼は私の好物と、その奥にある『憧れ』までを、ここまで完璧に把握しているのだろうか。
……ふと、記憶の底に引っかかるものがあった。何年前だっただろうか。地方の小さなライブハウスでのMCか、あるいは握手会での何気ない会話だったかもしれない。「うたたんの好きな食べ物は何?」と聞かれ、「肉じゃがとか、手作りの和食かな。両親が忙しかったから、憧れがあるんだ」と、ポロリとこぼしたことがあったような気がする。私自身ですら忘れていたような、過去のほんの些細な発言。彼はその一言一句を狂気的な執念で記憶し、脳内のデータベースに刻み込み、この鳥籠の中で私を迎え入れる日のために、完璧な形で再現してみせたのだ。背筋に、氷の刃を滑らせたような冷たい悪寒が走る。
「おかえり、うたたん。うん、すごく似合ってるね。僕の思った通りだ」
水色のエプロンを身につけた辰巳くんが、私の姿を見るなり嬉しそうに駆け寄ってくる。日本中の女性が熱狂した人気アイドルが、私というたった一人のためだけにエプロンをして、キッチンに立ち手料理を振る舞っている。世間のファンが知れば嫉妬で発狂するような光景だが、今の私にとっては、ただただ息が詰まるような重圧でしかなかった。
「さあ、冷めないうちに食べよう?君の好きな和食を作ってみたんだ。うたたんのために、昨日の夜からじっくり仕込んでいたんだよ。これからは、毎日僕が美味しいものを作ってあげるからね♡」
有無を言わさぬ笑顔で席を引かれ、私は大人しく向かい合わせに座る。彼は私のお皿に、甲斐甲斐しく色とりどりの料理を取り分けてくれた。
「……ありがとう」
「ふふっ。……ねえ、うたたん。僕、今すごく幸せだよ。ずっと、ずっと……こうして君と一緒に暮らすのが夢だったんだ」
無邪気に笑う彼の顔を見つめていた私は、ふと、彼の背後――広大なリビングの奥の一角に、異様な光景が広がっていることに気がついた。
「……っ!」
『祭壇』だ。私の現役時代のポスターが壁一面を覆い尽くし、大量のブロマイドが額縁に収められ、缶バッジがショーケースの中にびっしりと敷き詰められている。ただでさえ異常だったあの空間が、この豪華なペントハウスの一角に、整然と、狂気的な執念をもってディスプレイされていたのだ。現役時代、『たっつー』であった彼からSNSのリプライで見せられたことはあったが、その時よりも異常さが際立っているような気がした。
「あの……あれも、持ってきたの?」
私が震える指でその祭壇を指差すと、私の視線に気づいた辰巳くんは、心の底から嬉しそうに何度も頷いた。
「うん!だって、あれは暗闇の中にいた僕の命を救ってくれた、何よりも大切な宝物だからね。……でも」
彼は祭壇から私へと視線を戻し、うっとりと目を細めた。
「これからは、写真やグッズだけじゃなくて、本物の君がずっと僕のそばにいるんだ。……本当に、夢みたいだよ」
彼はテーブル越しにすっと手を伸ばし、私の両手を包み込むようにギュッと握りしめた。
「朝起きて『おはよう』ってあいさつして、ごはんを『美味しいね』って一緒に食べて、夜は『おやすみ』って一緒に寝る。そういう普通の幸せを、君と一生、ここで紡いでいきたいんだ。……ね?うたたん」
絶対に、何があっても逃がさない。そんな強固で暴力的な意思と、果てのない底なしの愛情。私は、彼の熱を帯びた手を握り返し、顔の筋肉を総動員して、どうにか引き攣った笑顔を浮かべることしかできなかった。
「……そうだね、辰巳くん」
「あっ、違うよ、うたたん」
突然、彼が少しだけ不満げに口をとがらせた。そして、私と繋いでいた手の指先を持ち上げ、そこに『ちゅっ』と、甘い音を立ててキスをした。
「ひっ……」
「『慧』って呼んで?僕たち、もう一緒に住んでる恋人なんだから」
唇を離し、プラチナブルーの瞳で上目遣いに私を見つめてくる。ここで拒絶することは許されない。彼が望む完璧な『恋人』を演じなければ、この鳥籠の中で私はどう扱われるか分からないのだ。
「……慧、くん」
喉の奥から絞り出すようにそう呼ぶと、彼の顔に今日一番の、ひどく熱を帯びた笑顔がパッと咲き誇った。
「うんっ!……あはっ、どうしよう。本当に幸せすぎて、死んじゃいそう♡」
煌びやかな東京の夜景を見下ろす、この広くて美しすぎる鳥籠の中で。世間や社会から完全に切り離された私の新しい生活は、彼の重たくて甘い狂気と共に、静かに、そして決定的に始まっていった。
つづく




