第二十二話 外部との遮断
連行されるようにして連れ出されたホテルの裏口には、スモークガラスで中の様子が全く見えない黒いハイヤーが停まっていた。
「さあ、乗って」
辰巳くんにエスコートされるまま、私は後部座席に滑り込んだ。隣に彼が座り、パタンと重厚なドアが閉まる。外界との繋がりが、また一つ物理的に遮断された音がした。
車が静かに走り出す。どこへ向かっているのか、窓の外の景色を見ようとしたけれど、彼が私の肩を抱き寄せて自分の胸に閉じ込めてしまったため、何も見えなかった。
「……ねえ、うたたん。大丈夫?顔色が悪いよ。寒いの?」
「……会社」
「え?」
「会社、無断欠勤になっちゃう。パソコンも、私物も置いたままだし……連絡、しないと……」
無意識のうちに、酷く掠れた声が口を突いて出ていた。
もう元の生活には戻れないと頭では分かっていても、これまでの『小林詩としての日常』の残骸が、私を現実に引き留めようとしていた。
すると彼は、愛おしい子供をあやすように、私の頭を優しく撫でた。
「大丈夫だよ。会社には僕が、うたたんの『婚約者』として連絡しておくから。体調を崩して退職するって、手続きも全部僕が代わりにやってあげる」
「……っ」
「うたたんはもう、満員電車に揺られて苦しい思いをしたり、会社で作り笑いなんかする必要はないんだ。これからは僕が、君の欲しいもの全部、捧げるから」
そう言って、彼は私のコートのポケットから、私のスマートフォンをスッと抜き取った。躊躇いなくSIMカードのトレイを引き出すと、小さなチップを指先で真っ二つに折り曲げ、車内のゴミ箱に捨ててしまった。抜け殻になったスマートフォンは、そのまま彼のジャケットの内ポケットへと滑り込んだ。
「あ……」
「外の汚いノイズは、もう君には必要ないでしょ?」
私と社会を繋ぐ最後の命綱があっさりと捨てられた。
もう、本当に誰も私を見つけることはできない。抵抗する気力すら湧かず、私はただ、彼の体温と甘い香水に包まれながら、静かに目を閉じることしかできなかった。
どれくらい車に揺られていただろうか。
到着したのは、都心の喧騒から離れた場所にある、要塞のような高級マンションの地下駐車場だった。
「着いたよ、うたたん」
彼に手を引かれて降り立ち、他の住人と顔を合わせることのない専用のプライベートエレベーターに乗り込む。最上階のボタンが押され、耳鳴りとともに一気に上昇していく。
チーン、という無機質な音と共に扉が開くと、そこはもう、広大なペントハウスの玄関だった。
「……ここが」
「うん。僕と君の、新しいお城」
大理石の床に、足がすくむほど広いリビング。大きな窓からは煌びやかな夜景が一望できた。
けれど、その美しい窓には、内側から開けられないように特殊なロックが厳重にかけられていることに、私はすぐに気がついた。
「どう?気に入ってくれた?うたたんの好きなブランドの服も、メイク道具も、全部クローゼットに揃えてあるよ。もし足りないものがあったら、何でも言ってね」
背後からすっぽりと抱きしめられ、耳元で甘い声が鼓膜を揺らす。
彼の莫大な財力と、常軌を逸した執着の結晶。ここは文字通り、私というたった一人の神様を閉じ込めるためだけに作られた、絶対に出口のない黄金の鳥籠だ。
「……うたたん」
「……なに」
「僕のこと、好き?」
逃げ場を塞ぐように背中から回された彼の腕に、ギリッ、と強い力がこもる。
逃げ場を塞ぐように回されたその腕の熱に、私は息を呑んだ。ここで『嫌い』と答える選択肢など、初めから存在しない。もし少しでも拒絶の意思を見せれば、彼の手によって、私の心ごと完全に彼好みのものに作り変えられてしまうだろう。
嘘でもいいから『好き』と答えて、機嫌を損ねないようにしなければ。頭の中ではけたたましく警鐘が鳴っているのに。
「…………」
極度の緊張と恐怖で喉が干からびたように張り付き、どうしてもその二文字が音にならなかった。
沈黙が、重くのしかかる。答えない、いや、答えられない私を前にして、彼の腕の力がさらに強くなるのを覚悟し、私はギュッと目を瞑った。
しかし。
「ふふっ」
耳元に落ちてきたのは、怒声ではなく、甘く蕩けるような吐息混じりの笑い声だった。
「好きって、まだ言えないよね。うたたん、僕の大きすぎる愛が怖くて逃げちゃったんだから」
「……ッ」
ビクリ、と私は身体を強張らせる。
怒ってるんだ。私が彼から逃げ出したこと。
当然だ。彼は、人気アイドルとしての眩いほどの地位も名誉も、莫大な違約金すらも、何もかもを捨てても構わないほど私に執着してくれているのだから。そんな彼の想いを踏みにじり、私が逃避行に走ってしまったのだから……。激昂されて殴られてもおかしくない。
震えが止まらない私をよそに、彼は怒るどころか、迷子になった幼子をあやすような、ひどく甘く優しい声色のまま、私の頭をゆっくりと撫でた。
「うたたんが逃げたのはとっても悲しかったけど、これからはずっと一緒だよ」
「っ……」
丁寧に髪を梳くように撫でられるたびに、背筋に氷のような悪寒が走る。
私が『彼が嫌で、恐ろしくて逃げ出した』という事実は、彼の中では完全に『愛が大きすぎた故の可愛い戸惑い』としてすり替えられ、自己完結してしまっているのだ。
私の本当の感情や意思が入り込む隙間なんて、この鳥籠の中には一ミリも残されていない。彼は、彼の中の『理想のうたたん』を私に投影し、ただ愛でているだけなのだから。
「好きって、うたたんから言ってもらえるように、僕がたくさん愛してあげるね」
それは、暴力よりも遥かに恐ろしい宣言だった。
外の世界との繋がりをすべて絶たれ、彼から与えられる異常なまでの優しさと愛情だけで私を満たし、やがて私自身が自ら『好き』とすがりつくようになるまで、徹底的に甘やかして心を支配するという残酷な予告。
「愛してる。もう一生、死んでも離さないからね♡」
「っ、ひゃ……!」
チュッ、と。
首筋に、焼け付くように熱い唇が押し当てられる。
それは愛情表現という生易しいものではなく、私という存在のすべてが彼のものであると、決して消えない『所有印』を魂の奥深くにまで刻み込むような、重い儀式だった。
眼下に広がる、宝石を散りばめたような夜景。
その光が一つも届かない黄金の鳥籠の中で、歪で後戻りのできない狂気の『同棲生活』が今、完全に幕を開けたのだった。
つづく




