第二十一話 逃避行の果て
あれから、一週間が経った。
衝撃的な引退記者会見を最後に『辰巳 慧』は姿を消し、不気味なほど音信がない。SNSでは、過激なファンが隠し撮り写真を投稿していた。辰巳 慧が203号室を出入りしている写真だ。彼はまだ、あの部屋に執着しているらしい。
ほとぼりが覚めるまでと思ったが、引退してしまった今、彼がマンションを出る理由がない。完全に当てが外れてしまった。部屋に戻って、彼に会うのが怖い。けれど、いつまでもこの生活を続けることは出来ない。会社には、謝り倒して余っていた有給を全て使って休んでいるが、もうこれ以上、引き延ばすことは難しいだろう。
完全に悪手であった。後悔しても、もう遅い。
コンコン、コン。
静寂に包まれた部屋に突然、控えめなノックの音が響いた。
ビクッと肩が大きく跳ね上がる。清掃の時間にはまだ早いし、ルームサービスも頼んでいない。フロントからの連絡もなかったはずだ。
息を殺してドアに近付く。ドアの向こうから、声はしない。黙っていると、もう一度だけ、コンコンと静かにノックの音がした。
私は冷え切った手でドアスコープに触れ、恐る恐る外の廊下を覗き込んだ。
そこに立っていたのは。
黒いキャップとマスク、サングラスをした怪しい人物。けれど私はその人が誰であるか、知っていた。隣人『田中』として振る舞っていた頃と同じ。テレビの中で全国民に向けて狂気の愛を宣言し引退を選んだ、元人気アイドルの辰巳 慧だ。
「うたたん。迎えに来たよ。……開けて?」
ドア越しに聞こえる、甘く蕩けるような声。彼がわざとドアスコープに向かってサングラスを少しずらし、瞳を見せる。直接こちらを見ている訳ではないのに、全てを見透かしているような水色の瞳。
終わった。私の決死の逃避行は、一週間で幕を閉じたのだ。
ドアの向こうで彼が、絶対に逃がさないとばかりに、ドアノブにそっと手をかける音がした。ガチャガチャ、とドアノブが回る無機質な音が、静まり返った部屋に響く。
もちろん、内側からチェーンと鍵をかけているためドアが開くことはない。しかし、その音が止む気配はなかった。
「うたたん。開けて?僕だよ。君の……恋人だよ」
扉越しに聞こえる声は、怒っている様子は微塵もなく、ただ純粋に愛しい人を心配するような甘い響きだった。
どうして……なんで、ここが……っ!?
電源を切ったスマートフォン、現金での支払い。足取りを完全に消したはずだった。それなのに、彼はたった一週間で私を見つけ出した。
「……うたたん。もしかして、ネットのニュースを見て怖くなっちゃった?ごめんね、僕のせいで怖い思いをさせて。でも安心して、もう僕、事務所も辞めてきたから。引退会見、見てくれたかな?」
「……」
テレビで大々的に報じられた会見だ。あんなに恐ろしい記者会見は、これが人生で最後だろう。
「もう記者も、マネージャーも、ファンの目も気にしなくていいんだ。君を傷つけるものは全部僕が排除したよ。だから、一緒にお家に帰ろう?」
帰る……?どこへ。あのマンションへ?いや、もうあそこは特定班にバレている。彼は私の退路を断ち、自分の退路すらも完全に焼き払って、ただ純粋な『狂気』だけを持ってここまで迎えに来たのだ。
ここで扉を開けなければ、彼はどうするだろうか。無理やりこじ開けるか、フロントの人間を呼ぶか。もし騒ぎになれば、こんなビジネスホテルに元人気アイドルがいることがすぐにバレて、今度こそ大勢の記者に囲まれてしまう。
……もう、抵抗する意味なんてないのだ。
私は震える手を伸ばし、ゆっくりとチェーンを外し、重たい鍵を開けた。
ドアの隙間から差し込んだ廊下の光を遮るように、長身の彼が部屋の中に足を踏み入れる。
「あ……」
私が何かを口にするより早く、強い力で腕を引かれ、彼の広い胸の中に深く閉じ込められた。
「うたたん……っ!ああ、よかった。ずっと、ずっと心配してたんだよ」
私の肩に顔を埋め、安堵の涙声で囁く彼。私を抱きしめる腕は、骨が軋むほど強い。
「どうして……ここが、分かったの……?」
震える声でそう問うと、彼は私を抱きしめたまま、ふわりと嬉しそうに笑った。
「あの日、居酒屋の個室で君がお手洗いに立った時、カバンの裏地にGPSのお守りを入れておいたんだ。君に何かあったら大変だからね」
「……っ!?」
悪びれる様子もなく、むしろ『君を守るために当然のことをした』という純度百パーセントの善意で語られる言葉。最初から、彼は私に首輪をつけていたのだ。
「本当はすぐに迎えに行きたかったけど……準備に一週間もかかっちゃったんだ。遅くなって、ごめんね」
彼は逃げ出した初日から、私がどこにいるか分かっていた。逃げ出せたと思い込んでいた私の決死の逃避行は、彼の手のひらの上でのちっぽけなお遊戯に過ぎなかった。
「さあ、行こう。君の荷物なんて持たなくていいよ。僕が全部、君のための新しいお城に用意してあるから」
彼はベッドの上に放り出された私のボストンバッグには目もくれず、私の右手を、『恋人繋ぎ』でしっかりと絡め取った。
「新しい……お城?」
「うん。誰も僕たちの邪魔をしない、静かで綺麗な場所。そこで、僕の貯金が尽きるまで……ううん、尽きてもずっと、二人きりで暮らそう?」
プラチナブルーの瞳が、狂気と歓喜で三日月型に歪む。
繋がれた右手から伝わる彼の異常な体温が、もう二度とこの手を離さないという絶対的な呪いのように感じられた。
私は何も答えることができず、ただ、彼に引かれるままに薄暗いホテルの廊下へと歩き出した。
私の世界は、完全に彼の重たくて甘い闇の中に閉じ込められたのだ。
つづく




