最終話 永遠の誓い
私が自ら求めた抱擁と、微かな愛の言葉。
それは、慧くんにとって何よりも待ち望んでいた、世界を救う『福音』だったのだろう。彼は私の肩に顔を埋めたまま、しばらくの間、声を上げて子供のように泣きじゃくっていた。私の首筋から肩口にかけて、執拗なまでに、何度も何度も熱いキスが落とされる。その一つ一つが、私という存在を彼の中に溶かし込み、魂の奥深くにまで所有印を上書きしていくような重さを持っていた。私はただ、彼の背中にそっと腕を回し、その嵐のような愛撫を静かに受け入れていた。
「うたたん……っ、うたたん。僕の、神様」
やがて、しゃくり上げるような嗚咽が落ち着き、彼がゆっくりと顔を上げた。至近距離で交わる視線。彼のプラチナブルーの瞳は、涙で濡れてひどく熱を帯びていた。泣き腫らした目元は少し赤く染まっているというのに、人気アイドルだった頃の完璧な美しさは少しも損なわれていない。むしろ、その危ういほどの熱情が、彼の美貌をより一層狂気的に引き立てていた。
彼は愛おしそうに私の頬を撫で、親指の腹で私の唇をそっとなぞる。
そして、弾かれたように顔を輝かせると、名残惜しそうに私から体を離し、足早にリビングの奥へと向かって行った。
「……慧くん?」
ぼんやりとした頭で彼の広い背中を目で追う。数十秒後、足音を忍ばせて私の元へ戻ってきた彼の手には、艶やかな黒いベルベットの小さな箱が大切そうに握られていた。
「ずっと、渡すタイミングを待ってたんだ。君が心から僕を受け入れてくれたら、絶対その時にって」
甘く、微かに震える声でそう告げると、彼は私の目の前でゆっくりと片膝をついた。それはまるで、忠実な騎士が主君に忠誠を誓うような、ひどく美しく洗練された動作だった。彼は私を下から熱を帯びた瞳で見上げながら、恭しくそのベルベットの箱を開いた。
「……っ」
息を呑んだ。
中に鎮座していたのは、目が眩むほどに大きなダイヤモンドがあしらわれた指輪だった。部屋の照明の光を乱反射して暴力的なまでに煌めくそれは、どんな高級な宝石店のショーウィンドウでも見たことがないほど、圧倒的な存在感を放っている。人気アイドルとして彼が稼ぎ出した莫大な財力と、十年間にわたって煮詰められた果てのない執着。そのすべてが、この小さな箱の中に結晶化されていたのだ。
「うたたん。僕と、結婚して」
静かな部屋に響いたその言葉は、テレビドラマで見るような華やかなアイドルのプロポーズではなかった。ただ一人の狂信者が、自らの唯一の神に向かって、永遠の忠誠と完全なる所有を誓うような、ひどく重たくて真摯な声だった。これ以上ない愛の証明であり、決して逃れられない永遠の鎖。法的な縛りすらも手に入れ、私という存在を完全に彼だけのものにするための、最も美しい儀式。
私はその眩しすぎる指輪の輝きと、彼から向けられる底なしの愛情に魅入られたように、ただ静かに、恍惚とした安堵の中でゆっくりと頷きを返すのだった。
「……結婚」
夢見心地のまま、私は自分の口からこぼれ落ちたその単語を反芻した。
私がそう呟くと、慧くんは私の左手を恭しくすくい上げ、手の甲に熱い口付けを落としてから、甘く蕩けるような声で囁いた。
「うん。戸籍や世間のルールなんて、本当はどうでもいいんだ。ただ、君が完全に僕のものだっていう、誰にも壊せない確固たる『証明』が欲しかったんだ」
彼はそう言って、ベルベットの箱からその巨大なダイヤモンドの指輪をつまみ出し、私の左手の薬指へとそっと滑り込ませた。肌に触れた冷たい金属の感触に、微かに肩が震える。
そして、その指輪は恐ろしいほどに滑らかに、私の指の付け根にぴたりと収まった。測ったように――いや、きっと私が深く眠っている間に、彼が何度も何度も指のサイズを測っていたのだろう。その執拗で狂気的な行動が容易に想像できてしまうほどの、寸分の狂いもない完璧なサイズ感だった。
指輪の放つ抗いがたい存在感と、ずしりと沈み込むような重み。それはそのまま、彼が十年間抱え続けてきた、重すぎる愛の質量そのものだった。
かつての『小林詩』であった私なら、この異常な重さに耐えきれず、恐怖で悲鳴を上げて発狂していたかもしれない。社会から完全に切り離され、指のサイズすら勝手に測られ、私という人間の全てをたった一人の男の所有物として縛り付ける、この世で最も美しすぎる手錠。
けれど。
今の私には、その恐ろしいはずの手錠の重さが、たまらなく心地よかった。
ああ、私はもう、一生彼から逃げられないんだ。
その確信が、私に得体の知れない甘美な安心感を与えてくれる。私は左手の薬指に輝く永遠の鎖を愛おしそうに見つめ、目の前でひざまずく私の狂信者に向けて、この鳥籠に来てから一番の、幸福に満ちた笑みを浮かべるのだった。
「……綺麗」
私がうっとりと吐息のような声で呟くと、彼は私の左手を両手で大切に包み込み、下から甘く蕩けるような瞳で見つめ返してきた。
「君の方がずっと綺麗だよ」
慧くんは指輪の光る私の左手に深く額を押し当て、祈りを捧げるように、あるいは呪いを刻み込むように熱い吐息を漏らした。
「これで、君はもう完全に僕のお嫁さんだね。逃がさないよ。この命が尽きるまで、僕の愛で君を溺れさせてあげる」
それは、もはや脅迫ですらなかった。私という存在を骨の髄まで愛し尽くし、外界のすべてから完全に隔離して生かしていくという、甘く恐ろしい永遠の宣告。
「……ふふっ。逃げないよ。もう、どこにも行かない」
私が微かに微笑んでそう答えると、彼の肩がビクッと大きく跳ねた。彼自身の放った檻の鍵を、囚われたはずの私自身が内側から喜んで閉めたのだ。
彼は信じられないものを見たようにプラチナブルーの瞳を限界まで見開く。そして次の瞬間――この世の全ての幸福を手に入れたようなひどく無防備な顔で、堰を切ったように涙を溢れさせ、子供のように泣き笑いした。
もう、外の世界で季節がどう巡ろうと関係ない。
社会がどうなっていようと、誰が誰を愛し、誰が誰を憎んでいようと。私の世界は、この広くて無機質なペントハウスと、彼が延々と与え続けてくれる甘い毒のような愛情だけで、完璧に完結しているのだから。
「うたたん……」
不意に、涙に濡れた顔を上げた彼が、熱を帯びたプラチナブルーの瞳で私を見つめた。
「僕にとって、君はこれからもずっと大好きな『うたたん』で、ただ一人の神様なんだけど……」
彼は私の左手を大切そうに持ち上げると、薬指のダイヤモンドに恭しく唇を落とした。
「僕だけの『お嫁さん』になってくれたから……これからは本当の名前でも、呼んでいいかな?」
過去の偶像としての私を愛し尽くした上で、生身の私までをも貪ろうとする、底なしの独占欲。私はその甘く重い執着に胸を締め付けられながら、静かに、けれどはっきりと頷いた。
その瞬間、彼のプラチナブルーの瞳が大きく見開かれた。
「あ……っ」
微かに唇を震わせた直後、彼は世界中のすべての幸福を手に入れたような、とびきり甘くて無防備な笑顔を弾けさせた。それは、かつて数万人のファンを熱狂させた完璧なアイドルの笑顔ではない。ただ一人の愛する人にすべてを受け入れられた、純粋すぎる歓喜の表情だった。
「ありがとう……っ、ありがとう……!」
彼は感極まったように私の左手を両手で強く包み込むと、子供のようにすりすりと何度も頬擦りをした。
私は空いた右手で、すり寄ってくる彼の頭をそっと引き寄せ、そのサラサラとした髪を優しく撫でた。指先から伝わってくる彼の熱と、私という存在を必要とするどうしようもない重さが、胸の奥を甘く痺れさせていく。
こんなにも私を求め、狂おしいほどに愛してくれる、ただ一人の人。その事実に、もはや心地よい恍惚しか覚えない自分を自覚しながら、私は彼に向けて静かに微笑みかけた。
「愛してるよ、慧くん」
「僕も……愛してる、詩ちゃん」
初めてだった。彼が『うたたん』という過去の偶像の名ではなく、私の本当の名前を呼んだのは。
それは、彼が私のアイドルとしての過去も、泥臭かった現実も、その全てを飲み込んで一人の女性として『完全に自分のものにした』という揺るぎない勝利の宣言だった。
彼がゆっくりと立ち上がり、私を引き寄せる。静かに重ねられた唇から、彼の甘い香水の匂いと熱が、私の口内を、そして空っぽになった心の中をどこまでも深く満たしていく。
星屑のような夜景を見下ろす、絶対に扉の開かない黄金の鳥籠の中で。大空を夢見た一羽の小鳥は、自らその羽を折りたたみ、狂信者の温かい掌にすっぽりと収まることを選んだ。彼にすべてを明け渡した『一人の女』として。そして、彼のためだけに永遠の愛を囀り続ける絶対的な『神様』として。
私はこの甘く狂おしい檻の中で、彼と共に永遠を生きていくのだった。
おわり




