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古株ファンがヤンデレだった件  作者: 柊原 ゆず


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第十九話 逃避行


 時刻はほんの数時間前、昼のオフィスまで遡る。

 事態は、私の予想を遥かに超える恐ろしいスピードで悪化していた。昼休みが始まってすぐのことだ。同僚の由紀が私の席に駆け寄ってくるなり、文字通り大泣きしながら縋りついてきたのだ。


「うた~~~っ!慧くんに、慧くんに恋人がいたらどうしよう……っ!」

「ゆ、由紀!?ちょっと、落ち着いてってば……」

「だって!ニュース見たでしょ!?マンションがどうとか……同棲してるとか……っ!」


 ボロボロと大粒の涙を流し、デスクに突っ伏す由紀。私は彼女の震える背中を撫でて慰めながらも、内心ではホッと安堵の息をついていた。

 ……ああ。やっぱり、大々的にニュースになったんだ。

 作戦は成功だ。人気アイドルの彼が普通のマンションに住んでいるというスキャンダル。これで事務所も事態を重く見て、彼をあの部屋から強制的に退去させるはずだ。


「……うん、ニュースでやってたね。マンションがどうとか……」


 私が努めて冷静に相槌を打つと、由紀は勢いよく顔を上げた。


「そう!前までは超高級タワマンに住んでたのに、わざわざ普通のマンションに引っ越してるんだよ!?しかも今、ネットの特定班がすっごい勢いで動いてて、もうすぐ場所も絞れそうなんだよね!」

「……え?」


 由紀のその一言に、私の思考がピタリと停止した。

 もうすぐ、絞れそう?


「ご、ごめん由紀。私、急にお腹痛くなってきちゃって……ちょっとトイレ行ってくる!」

「えっ、詩?大丈夫!?」


 私は由紀の制止を振り切り、顔面蒼白でトイレへと駆け込んだ。一番奥の個室に入り、便座の蓋を閉めて座り込む。ガタガタと震える手でスマートフォンを取り出し、急いでSNSを開いた。

 ……嘘でしょ、もうここまでバレてるの?

 検索画面をスクロールし、私は完全に血の気を引かせた。SNSではすでに『辰巳慧のマンション特定班』と名乗るアカウントがいくつも立ち上がり、沿線の駅名や過去の目撃情報、さらには不動産サイトの間取り図まで照らし合わされ、物件の候補がたったの三つにまで絞り込まれていたのだ。


「特定されるのは、もう時間の問題だ……」


 もしあのマンションが完全に特定されれば、どうなるか。週刊誌の記者だけでなく、怒り狂ったファンや面白半分の野次馬が昼夜問わず押し寄せてくるだろう。彼には『同担拒否』を公言するほどの、熱狂的で過激なファンが大勢いる。もし、騒ぎの最中に隣の部屋から出てくる私が見つかりでもしたら。


『この地味な女が同棲相手に違いない!』


 そう標的にされ、素性を暴かれ、ネットリンチに遭うのは火を見るより明らかだった。

 彼をマンションから追い出すためのリークだったのに……これじゃあ、私が真っ先に被害を被ってしまう!

 自分の放った火が、自分自身の足元を猛烈な勢いで焼き尽くそうとしている。私は上司に体調不良を理由に早退を申し出ると、逃げるように会社を飛び出し、急いでマンションへと戻った。

 自室の202号室に飛び込み、クローゼットから引っ張り出したボストンバッグに、数日分の着替えと財布、貴重品を手当たり次第に詰め込む。とりあえず、ほとぼりが冷めるまで適当なビジネスホテルか実家に身を隠すしかない。私が不在の間に、彼が事務所の大人たちに連れ戻されて退去してくれるのを待つんだ。


「小林詩、大丈夫。今日からしばらく離れるだけ。すぐに平穏な日常が戻ってくる……」


 大きく深呼吸をして、自分に言い聞かせる。そっとドアノブを回し、廊下に出る。隣の203号室のドアが静かに閉まっていることを確認し、私は足早にマンションを飛び出して駅へと向かった。






 ――そして現在。

 息を切らし、何度も背後を振り返りながら逃げ込んだのは、都心から電車を何本も乗り継いだ先にある古びたビジネスホテルだった。クレジットカードや電子決済は使わない。足取りを追われるのを少しでも防ぐため、財布にあった現金を震える手でフロントに出し、逃げるように部屋の鍵を受け取った。案内された部屋の重い鉄のドアを閉め、鍵とチェーンをしっかりと掛ける。その金属音を聞いてようやく、私はベッドへと倒れ込んだ。


「はぁっ、はぁっ……」


 張り詰めていた緊張の糸が切れ、荒い呼吸だけが静まり返った薄暗い部屋に響く。無音の空間が逆に恐ろしくなり、私は気を紛らわせるように、壁掛けの小さなテレビの電源を入れた。しかし、それは最悪の選択だった。


『――速報です。国民的アイドル、辰巳慧さんが先ほど……』


 どのチャンネルを回しても、トップニュースは同じ話題で持ちきりだった。画面の中の彼は、マンションのエントランスらしき場所で、無数のマイクとカメラのフラッシュを一身に浴びていた。怒号のような質問が飛び交う中、普通なら顔を引き攣らせるような状況下で。彼だけはまるで、スポットライトを浴びてステージに立っているかのように堂々としていた。そして信じられないほど美しく、底知れない狂気に満ちた、甘い笑顔を浮かべていたのだ。


『世界で一番愛している人です。彼女に危害を加えるなら、僕も手段を選びませんから気を付けてくださいね』


 その言葉がテレビのスピーカーから流れた瞬間、私はベッドの上でガタガタと激しく震え上がった。画面越しのプラチナブルーの瞳が、真っ直ぐに私を見据えているような錯覚に陥る。これは、マスコミやファンへの牽制なんかじゃない。私に対する、全国ネットの電波を使った完全な『包囲網』の宣言だ。自ら人気アイドルの座を捨ててまで、社会全体を巻き込んで、私というちっぽけな獲物の退路を完全に焼き払おうとしているのだ。

 でも、大丈夫。ここは絶対に彼が知るはずのない場所だ……!

 バッグの奥底にしまったスマートフォンは、とっくに電源を切ってある。誰にも行き先は告げていない。ほとぼりが冷めるまで、数日間この薄暗い部屋から一歩も出なければ、いくら彼だって見つけ出せるはずがない。

 私は震える身体を抱きしめ、ホテルの薄っぺらい毛布を頭の先まで深く被った。


「大丈夫、大丈夫……」


 必死に自分に言い聞かせるように何度も呟くその声は、自分でも可哀想になるくらい、ひどく震えていた。


つづく

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