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古株ファンがヤンデレだった件  作者: 柊原 ゆず


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第十八話 楔


「ええ」


 たった二文字。春の少し肌寒い朝の空気を震わせたその声は、甘く、ひどく穏やかだった。人気アイドルの口からあまりにもあっさりと飛び出した肯定の言葉に、マイクを突き出していた記者の男たちは一瞬、まるで魔法をかけられたかのようにポカンと口を開けてフリーズした。

 数秒の空白。カシャッ、と誰かが反射的に切ったカメラのシャッター音を合図に、堰を切ったように怒号のような質問が飛び交い始めた。


「ほ、本当なんですか!?お相手は一般の方なんですよね!?」

「同棲はいつから!?ファンへの裏切り行為だとは思いませんか!」

「相手の女性は、あなたと同じマンションから出てきた方ですか!?」


 矢継ぎ早に飛んでくる無数のフラッシュの眩い光と、乱暴に突きつけられる黒いマイクの波。普通のスキャンダル発覚時であれば、恐怖や焦りで顔を引き攣らせ、言葉を濁して逃げ去る場面だろう。

 けれど、今の僕にとって、そんな怒声やシャッター音はただの心地よいBGMでしかなかった。彼らが騒げば騒ぐほど、ニュースは瞬く間に日本中を駆け巡り、愛するうたたんの退路が完璧に塞がれていく。それが実感できて、たまらない快感が背筋を駆け上がってくるのだ。

 僕はゆっくりと顔を上げ、無数に並ぶテレビカメラのレンズを真っ直ぐに見据えた。

 このレンズの奥。今頃、どこかの場所で一人震えながらこの画面を見ているであろう、残酷で愛しい彼女と、これから彼女を探し出そうとする見苦しいハイエナたちに向けて、はっきりと宣言する。


「世界で一番愛している人です」


 スッと、周囲の喧騒が一段階トーンダウンした。僕は口角をさらに引き上げ、言葉を紡ぐ。


「彼女に危害を加えるなら、僕も手段を選びませんから。気を付けてくださいね」


 それは、トップアイドル『辰巳 慧』としての、完璧で美しい笑顔のまま放たれた明確な脅迫だった。キラキラと輝くプラチナブルーの瞳の奥で、一切の冗談を許さないドロリとした狂気が渦巻いているのを、目の前の記者たちは本能的に悟ったのだろう。先ほどまで血走った目で群がっていた大人たちが、まるで人間の皮を被った怪物でも見たかのようにサッと青ざめ、一瞬にしてその場が凍り付いた。

 圧倒的な静寂と恐怖に包まれたエントランスを見渡し、僕は満足げににっこりと笑う。


「それでは、仕事がありますので」


 優雅な足取りで迎えのハイヤーに乗り込み、バタン、とドアを閉める。外の凍りついた空気が遮断された車内で、僕はこれから向かう事務所での契約解除の話し合いと、その後に待っている彼女との『永遠の生活』を思い描きながら、ひどく上機嫌に鼻歌を歌い始めた。






 到着した事務所のフロアは予想通り、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。ひっきりなしに鳴り止まない電話のコール音、対応に追われるスタッフたちの怒号。僕の姿を見るなり、青ざめた顔で右往左往していたスタッフたちが弾かれたように道を空ける。 彼らの目には、トラブルの元凶である僕への非難と、何をしでかすか分からない怪物を見るような恐怖が入り混じっていた。僕が一番奥の応接室のソファにゆったりと腰を下ろすなり、血相を変えた社長がバンッ!と鼓膜を劈くような音を立てて乱暴にドアを開け放った。


「お前、なんてことを言ってくれたんだ!!」


 ネクタイを振り乱し、顔を茹でダコのように真っ赤にして激怒する社長の怒鳴り声が、部屋中にビリビリと響く。 その額には青筋が浮かび、肩で激しく息をしている。しかし、取り乱した大人を前にしても、僕の心は驚くほど凪いでいた。むしろ、どうして皆がこんなにも滑稽なほど慌てふためいているのか心底不思議で、僕は小さく首を傾げた。


「そんなに怒ることですか?僕、テレビでも『ガチ恋はやめてね』って、ちゃんと前もって言ったんだけどなあ」

「そういう問題ではない!!」


 ドンッ!と、社長が応接机を両手で強く叩く。 机の上のティーカップが跳ね、カチャリと嫌な音を立てた。


「国民的アイドルが堂々と交際宣言して、おまけにマスコミを脅迫するなんて前代未聞だ!スポンサーも各局も大混乱だぞ!問い合わせの電話がパンクして、今うちの会社の機能は完全に麻痺している!お前、自分がどれだけ会社に損害を出しているか分かっているのか!?」


 唾を飛ばしてまくしたてる社長の悲壮な顔を見つめながら、僕は冷ややかに、そして極めて合理的に思考を巡らせた。

 損害。違約金。社会的信用の失墜。

 それの何が問題なのだろう。もう、僕が『アイドル』という窮屈な仮面を被り続ける理由は、この世界のどこにもないのだ。僕から逃げ出した愛しい彼女の退路を断ち、社会的に完全に追い詰めるための、強固で最高な『楔』は、たった今全国ネットの電波に乗せて打ち込んできたのだから。これ以上、彼女のいないこんな退屈な場所で、喚き散らす大人を相手に無駄な時間を過ごしている暇はない。


「……分かりました。責任を取って、辞めます」


 僕はあっさりと、まるで『今日の昼食はパスタにします』とでも言うような軽い口調でそう告げ、ふわりとソファから立ち上がった。


「……は?」


 あまりにも唐突な引退宣言に、怒り狂っていた社長が目を丸くして固まる。その滑稽な姿に未練など微塵もない。


「違約金は後ほどお支払いします。僕にはもう、アイドルを続ける理由はないので。……それでは、お世話になりました」


 僕は言葉を失ってフリーズする社長に背を向け、迷いなくドアへと踵を返した。


「お、おい、ちょっと待て!!!辞めるって、ふざけるな、待てと言ってるだろう!!」


 背後から社長の悲鳴のような、裏返った制止の声が響いたが、僕の足は止まらない。会社の稼ぎ頭がいなくなる?莫大な違約金が発生する?そんなこと、僕の知ったことじゃない。 払いたければ勝手に僕の口座から引けばいい。今の僕には、一生遊んで暮らせるだけの莫大な貯金があり、彼女だけを安全に囲うための、誰の目にも触れない絶対的な『城』もある。僕の人生に必要なのは、たった一人の神様だけだ。

 さあ、迎えに行くよ。待っていてね。僕の愛しい神様。

 背後でガラガラと音を立てて崩壊していく事務所の惨状を背に、僕の瞳の奥には、手に入れた最高の絶望と歓喜が熱く、ドロリと渦巻いていた。


つづく

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