ヒトノモノ その71 面影
七十一
家に帰り、涙を流しました。家族に泣いていることが気づかれないようにするため、声を出しませんでした。
生まれて初めて、失恋というものを味わいました。心に穴が空いてしまったような虚無感があります。その穴からスミレさんと過ごした日々で得た数々の癒しや思い出が流れ出ました。
それと同時に、小学生の時の苦い記憶が頭の中で想起されました。「どっか、行って」というあの言葉とスミレさんの「友達」という言葉が結びついたのです。
僕はスミレさんにとって、用済みの人間なのだ。僕は捨てられたのだ。恋するに値しない人間なのだ。たんなる友達なのだ。自己否定の言葉の嵐が脳の中で続々と生じてきました。こうして、久々に孤独というものに直面したのです。
しかし、僕はずっと自己否定をし続けているわけでもありませんでした。憎悪が芽生えてきたのです。
人の心はままならない。だとしたら、洗脳してしまえばいいのだ。思い通りにコントロールすればいいのだ。そうすれば、スミレさんが男を捨てて、僕に振り向いてくれるはずだ。「大好きだよ」と優しい言葉をかけてくれるはずだ。
もっとうまくいけば、僕の醜い身体を受け入れてくれるはずだ。そして、二人を隔てる距離が次第になくなって、孤独から救われるはずだ。そうなったら、情欲を抱いていることなどに苦しむ必要がなくなる。友達に欲情してはならないが、洗脳して恋人にしてしまえば、欲情したっていいはずだ。
こんなわがままな論理を組み立てては自らを正当化しようとしていました。しかし、僕は自分の論理を否定できるくらいの反省能力を有していました。洗脳などという反倫理的な手法を社会が許すはずもない。社会どころか、自分の良心が許すはずがない。
結局のところ、僕は失恋という結末でよかったような気がしたのです。こうして、何事も起こらなかったわけですから。仮に僕たちが結ばれても、望むような結末が待っていないように思われたのです。そう考えると、あらゆることが解決したような安心感を得ることができたのです。
しかし、僕はここから何かを学んだわけではないのです。むしろ、僕はスミレさんの影をずっと追いかけるようになるのです。今でも、スミレさんのことが好きです。




