ヒトノモノ その69 拒絶
六十九
これといった美術展をしていない美術館というものは、全く人がいません。僕とスミレさんだけがそこにいました。
僕はなんとかスミレさんを誘うことができたのです。喫茶店以外でスミレさんと会うことができた僕は自分の悲願が叶ったような心持ちでした。
しかし、それだけでは満たされないのです。折角、ここまできたのだから、恋人同士のように巡覧したい。僕はそういう自分勝手なことを考えていました。
「生で初めてみた。シャガールだよね。こんな知っている画家の絵が間近で見られるなんて」
スミレさんは、前方にあったシャガールの絵に心を奪われていました。彼女は僕を置き去りにして、シャガールの絵に近づいていました。僕はシャガールの絵よりも、その絵の前にいるスミレさんの方に目を奪われました。
僕は彼女の左隣りにいました。僕の右手は彼女の左手に伸ばそうとしました。どうしたら、自然にこの手を握ることができるのだろうか。そんな僕をよそに彼女はシャガールについて話しだしました。
僕は寂しくなりながら、聞き流しました。僕にとって、絵画はどうでもいいものでした。
「藤原くん、モネの睡蓮だよ」
彼女は絵を見ては声を出し、楽しそうに僕を見つめるのでした。どんなに彼女が僕を見つめようとも、彼女の眼中にあるのは絵画だけでした。僕はたんなる付き人にすぎなかったのです。
確かに彼女は僕のことなど興味ない。しかし、男がいるはずのスミレさんとこうして二人でいることが無性に喜ばしいのです。まるで、男からスミレさんを奪ったような錯覚が生じたのです。
順路に従って、全ての絵画を見終え、美術館を出ました。このままでは、折角の二人の時間が終わってしまいます。
「じゃあね、付き合ってくれて、ありがとう」
彼女は右手を小さく出して、僕に挨拶をしました。そのあと、彼女は振り返ることなく、ゆっくりと歩いていきました。
「待ってください」
僕は右手を伸ばして、スミレさんの左手を握りました。
振り返って、僕を一瞥した瞬間、彼女は手を振り払いました。
「なに?」
彼女は怪訝そうな表情を浮かべていました。
僕は何も言い返すことができませんでした。しかし、僕の右手にはスミレさんの温もりが残っていました。




