ヒトノモノ その63 歓談
六十三
スミレさんに会えるだろうか。僕は本を読むために、喫茶店に行っていたはずだったのにもかかわらず、次第にスミレさんに会いたくて仕方がないという心持ちになりました。
しかし、毎度スミレさんがいるわけではありません。僕とスミレさんは約束など結ぶことなく、たまたま会っていただけなのです。僕は彼女に会うつもりで、喫茶店に行っていました。しかし、彼女からしたら、僕はたまに会う常連にすぎないのです。
僕はいかにも読書をしに来たように装いながら、カウンターに座りました。カランカランと喫茶店のベルが音を鳴らすごとに、顔を上げて、ドアを見ました。見慣れない客が来るだけです。スミレさんは来てくれないのです。
カウンターの上にある時計を見ても、全く時間が進んでいませんでした。どれくらい待ったら、スミレさんは来てくれるだろうか。待ったところで来ないだろうか。僕はどちらとも言えない問いを頭の中で反芻しました。
そのうち、悲観的な予想が頭に染み付いてしまいました。こないだ、スミレさんの話を真面目に聞くことができなかったせいで、彼女にそっぽを向かれたのかもしれない。僕は彼女の期待に応えることができなかったのかもしれない。彼女が来てくれないだけで、ネガティブな気分になります。
いつもなら、僕の右隣に彼女がいるはずなのです。そして、仲睦まじく語り合うのです。その時間は僕にとって、かけがえのないものなのです。
カランカラン。
「藤原くん」
「スミレさん」
スミレさんが僕の右隣に座りました。
「何を読んでいたの?」
「モームです」
「『月と六ペンス』?」
「『人間の絆』です」
「モームの自伝みたいな小説だっけ」
「分かるんですか?」
「読んだことある。昔に」
「本当にいろいろ読んでいるんですね」
「けっこう、読書家なの」
「スミレさんって、月にどれくらい読むんですか?」
「10冊くらい。藤原くんは?」
「僕も同じくらいです」
今日は前とは違って、スミレさんと普通に話すことができました。これこそ、僕が望む二人の関係でした。
「そうだ。ウェーバー読んだ?」
「読みましたよ。資本主義の成立には禁欲というプロテスタンティズムの倫理が関わっているという話ですよね?」
「そうそう。すごい。自分の読んだ本を読んでくれた人がいると嬉しいんだよね」
「最後の鉄の檻っていう表現がいいですよね」
「ウェーバーは、資本主義がもたらす弊害を鉄の檻って言っていた件ね」
「今、スミレさんは何を読んでいるんですか?」
「『職業としての政治』っていう本。ウェーバーのね」
「そんなにウェーバーが好きなんですか?」
「なんか、好きなの。というか、ウェーバーは社会学の基本なの」
「僕も読んでみます」
こうして、僕はより一層、スミレさんと一緒にいたいと思うようになりました。




