ヒトノモノ その19 快楽
十九
どんなに空想にふけろうとも、実物が放つ美には敵わなかった。たんに圧倒されるしかなかった。先生はいつものように僕の隣にいた。この視野に映る世界は現実だった。けれども、本当に現実なのかを疑いたくなった。現実である証拠にシャンプーの残り香がした。恍惚という言葉がふさわしかった。
香りと視野だけの恋。そこには、感触が欠けていた。先生の左腕に触れてみたい気がした。けれども、そんなことをしたら、今ある現実が音を立てて、崩れてしまう。それくらいの良識はあった。
「おーい。ボーとしてたでしょ」
「してないですよ」
「噓だ」
疑うような視線を先生は投げかけた。そうやって、自分を見てくれることが嬉しかった。けれども、その視線に深い意味がないことも分かった。妙に切なくなった。なんだか、寂しい気分になった。けれども、先生は僕が持っているような孤独の影がなかった。二人の間に分かちがたい壁があるような気がした。
感傷に浸るうちに、下半身がムクムクと大きくなった。自分は恥じらいを感じずにはいられなかった。痛くて突き抜けそうな気がした。快楽と罪深さが両立する不思議な感じ。僕は先生にそれを悟られないように努めた。必死で右手を動かして、問題を解いた。
「ちょいちょい間違っているよ」
「そうですか」
「こことか」
先生はテキストの該当箇所を指差した。
雪のように白い右手の人差し指を見た瞬間に、また大きくなった。自分の理性ではどうにもならない本能レベルの衝動が胸によぎった。自分がたんなる一匹の動物であることを理解すると同時に、自分は醜い存在だと感じた。僕はこの動物的な状態から人間に戻りたいと願った。けれども、動物としての悦楽を感じてみたいとさえ思ってしまった。それでも、強いて人間であろうとした。道徳的であろうとした。
細かい計算の間違いを修正した。そのうち、ケダモノのような衝動が落ち着いていった。僕は安堵した。
「合ってる。合ってる」
「よかったです」
こうして、一人の人間の生徒に戻ることができた。
ブーブー。先生のスマホが鳴った。先生はそれに気づきながらも、無視していた。
「電話に出なくていいんですか?」
「いいの」
先生は露骨に嫌そうな顔をした。僕は電話の相手が誰なのかが気になった。前に電話がきたとき、先生は楽しそうにしていた。電話の相手が前の人とは違うのかもしれない。電話はずっと鳴っていた。相手には大切な用事があるようだ。
「しつこいな」
先生はそう言って、電源を切った。




