第5話 台所会議
その日の夜、台所には妙な緊張感が漂っていた。
夕食はとっくに終わっている。包丁もまな板も洗われ、鍋とフライパンもそれぞれの定位置へ戻されていた。人間の気配はもうない。
いつもなら、ここからが台所用品たちの自由時間だ。
ところが今夜は違った。
冷蔵庫が、全員を呼び集めたのである。
「会議をする」
低い声が台所に響いた。
包丁は調理台の端に腰掛け、まな板はその隣に立っている。フライパンは面倒そうに棚へ背中を預け、鍋だけが比較的まじめな顔で冷蔵庫のほうを向いていた。
「会議?」
フライパンが眉をひそめる。
「何の」
「議題がある」
「明日じゃ駄目か?」
「駄目だ」
「急ぎ?」
「急ぎだ」
冷蔵庫の返事に迷いはなかった。
フライパンは肩をすくめた。
「じゃあ早くしてくれ。俺、今日疲れてんだよ」
冷蔵庫がゆっくりとフライパンを見る。
「疲れた?」
空気が変わった。
まな板は目を閉じた。
鍋も「ああ」と小さく息を漏らした。
フライパンだけが気づいていない。
「おう。今日は二回も使われたからな」
「そうか」
「昼も夜も火にかけられた。さすがに疲れる」
「そうか」
「何だよ」
「俺は今日も朝から今まで一度も止まっていない」
フライパンが黙った。
冷蔵庫の背後では、低い稼働音が絶えず続いている。
「……そういう意味の疲れじゃねえよ」
「では、どういう意味だ」
「何かこう……気分的な」
「俺にも気分はある」
「分かった。俺が悪かった」
フライパンは早々に降参した。
まな板が小声で言う。
「だから冷蔵庫の前で疲れたって言うなって」
「先に言えよ」
「何回目だよ」
冷蔵庫が二人を見た。
「始めるぞ」
全員が口を閉じた。
冷蔵庫は少し間を置いてから、会議の議題を告げた。
「最近、人間の料理が雑すぎる」
静寂。
包丁が首を傾げた。
「雑?」
「そうだ」
冷蔵庫は腕を組んだ。
「まず、扉を開けたまま献立を考える」
「それ料理の話か?」
フライパンが言う。
「料理以前の問題だ」
「いつもの不満じゃねえか」
「黙れ」
「はい」
冷蔵庫は続ける。
「必要な食材を決めてから開ければいい。なのに開けてから考える。奥を覗く。戻す。別のものを取る。また戻す」
声は平坦だったが、全員には分かった。
相当たまっている。
「昨日など、卵を取ったあと一度戻した」
冷蔵庫の声が少し低くなる。
「そのあと、また卵を取った」
「気が変わったんだろ」
鍋が穏やかに言う。
「扉を閉めてから変えろ」
「それはそうだな」
鍋は素直に認めた。
「それだけではない」
冷蔵庫が言う。
「食材を入れる場所も最近ひどい。空いているところへ何でも押し込む。奥には古いものが残る。新しいものが手前へ来る」
「人間ってそんなもんじゃねえの?」
「そんなもので済ませるな」
「俺に怒るなよ」
フライパンが少し身を引いた。
まな板は話を聞きながら、何となく嫌な予感がしていた。
この会議。
たぶん、冷蔵庫の愚痴だけでは終わらない。
案の定だった。
「雑なのは冷蔵庫だけじゃない」
包丁が言った。
まな板が横を見る。
包丁は真剣な顔をしている。
「切り方も雑だ」
「お前まで始めるのか」
「重要な問題だ」
包丁は立ち上がった。
「最近、人間は急いでいる」
「まあ、急いでる日もあるな」
「急いでいるからといって、刃を押しつければいいわけじゃない」
包丁は自分の手を刃に見立てるように動かした。
「切るときは、きちんと引く。あるいは押す。食材に合わせて刃を使う。力任せに上から潰すものではない」
「誰に説明してるんだ?」
フライパンが聞く。
「全員だ」
「俺らが聞いてどうすんだよ」
「知識として持っておけ」
「いらねえよ」
「それから」
包丁は止まらない。
「切った食材の大きさが揃っていない。火の通りに差が出る」
「それは確かに困る」
鍋が頷いた。
「だろう」
「特に煮込みでは大きさを揃えてほしい」
「焼くときもだ」
フライパンまで加わる。
包丁は満足そうに二人を見る。
「つまり俺の仕事が重要だということだ」
「何でそうなる」
まな板が言った。
包丁は当然のように答える。
「下ごしらえだからだ」
「その下ごしらえを毎日受け止めてる俺の話もしていいか?」
「何だ」
「最近、力強すぎる」
まな板は自分の腕を見せた。
細かな傷がいくつも走っている。
「特に硬いものを切るとき。勢いでいくのやめてほしいんだよ。お前の刃が最後にどこへ来ると思ってる」
包丁が答える。
「お前」
「そうだよ」
「だが俺のせいではない」
「半分くらいお前のせいみたいなもんだろ」
「俺は握られているだけだ」
「都合いいときだけ道具に戻るな」
「事実だ」
「研がれたときはあんなに自分の実力みたいな顔してたじゃねえか!」
包丁が黙った。
フライパンが吹き出した。
「それは確かに」
「笑うな」
包丁が睨む。
「いや、お前この前すごかったからな。『見たか?』『見たか?』って」
「もういい」
「俺にも聞いてきたぞ」
「忘れろ」
「無理だろ」
「忘れろ」
包丁の機嫌が目に見えて悪くなる。
冷蔵庫が低く言った。
「話が逸れている」
「最初から愚痴大会みたいなもんだろ」
フライパンが言った。
「会議だ」
「じゃあ俺も議題ある」
フライパンが勢いよく手を挙げた。
「火力」
鍋が目を閉じた。
「またか」
「何だよ」
「どうせ強火にしろと言うんだろう」
「違う」
「違うのか?」
「必要なときは強火にしろ、だ」
「ほぼ同じだ」
フライパンは鍋を無視して続けた。
「人間、最近びびりすぎなんだよ。肉を入れた途端に火を弱める。野菜入れて温度が下がってるのにそのまま。もっといける。俺はいける」
「食材がいけない場合がある」
鍋が言う。
「お前は黙ってろ」
「焦がすよりいい」
「焦げじゃねえ。香ばしさだ」
「その言葉は便利だな」
「またそれ言うのか!」
フライパンが鍋へ詰め寄る。
鍋は少しも動じなかった。
「私からも一つある」
「何だよ」
「煮込み中に何度も蓋を開けるのをやめてほしい」
「ほら、お前も不満あるじゃねえか」
「確認は必要だ。だが、あまり頻繁では意味がない」
鍋は静かに腕を組んだ。
「時間をかける料理には、待つことも必要だ」
「待ってたら焦げるかもしれねえだろ」
「だから火加減を見る」
「だったら蓋開けるだろ」
「毎分開ける必要はない」
「毎分なのか?」
「感覚の話だ」
「冷蔵庫みたいになってきたな」
冷蔵庫が見る。
「何か言ったか」
「何でもない」
まな板はとうとう笑いをこらえきれなくなった。
最初は冷蔵庫が招集した会議だった。
議題は「最近、人間の料理が雑すぎる」。
それが今では。
冷蔵庫は扉の開閉。 包丁は切り方。 まな板は刃の受け方。フライパンは火力。 鍋は煮込み時間。
全員が、自分の仕事に関する不満をぶつけている。
そして誰一人、人間に伝える手段を持っていない。
「なあ」
まな板が言った。
「これ、話し合って意味あるのか?」
全員が止まった。
冷蔵庫が答える。
「ある」
「どんな?」
「問題を共有できる」
「共有したあとどうするんだ?」
沈黙。
フライパンが腕を組む。
「……耐える?」
「いつも通りだな」
鍋が言った。
包丁も考える。
「人間が自分で気づく可能性はある」
「いつ?」
「分からない」
「じゃあ結局、待つだけじゃねえか」
「待つのは重要だ」
鍋が言う。
フライパンがすぐに振り向いた。
「今それ関係ねえだろ!」
また二人が始める。
まな板は肩を落とした。
冷蔵庫は眉間を押さえるような仕草をした。
会議を開いたことを、少し後悔しているようにも見えた。
そのとき。
廊下の向こうから足音が聞こえた。
全員が一斉に元の姿へ戻る。
台所へ人間が入ってきた。
夜食でも探しに来たらしい。
冷蔵庫の扉が開く。
冷蔵庫の空気が一瞬で張りつめた。
人間は中を覗く。
しばらく考える。
まだ考える。
冷蔵庫は動けない。
声も出せない。
ただ冷気だけが逃げていく。
棚のフライパンも、鍋も。
引き出しの包丁も。
壁際のまな板も。
何となく冷蔵庫のほうを見ていた。
人間はヨーグルトを取った。
扉を閉める。
――と思った。
もう一度開けた。
スプーンを探しているらしい。
冷蔵庫の中にはない。
当然だ。
それでも人間はなぜか一度、庫内を見回した。
冷蔵庫の稼働音が強くなる。
やがて人間は、スプーンが引き出しにあることを思い出した。
扉が閉まる。
スプーンを取り、人間は台所を出ていった。
静けさが戻る。
数秒後。
全員が人の姿へ戻った。
誰もすぐには口を開かなかった。
冷蔵庫は閉じた扉を見つめている。
フライパンが恐る恐る言った。
「……今の、議題に追加する?」
「必要ない」
冷蔵庫が答えた。
「すでに最重要項目だ」
「そうか」
まな板は笑いをこらえながら、調理台へ腰掛けた。
「で、会議続けるのか?」
冷蔵庫は全員を見回した。
包丁はまだ何か言いたそうだ。
フライパンも不満が残っている。
鍋は話し合いを続けても構わないという顔をしている。
このまま続ければ、夜が明けても終わらないだろう。
「今日は終わりだ」
冷蔵庫が言った。
「結論は?」
包丁が尋ねる。
冷蔵庫は少し考えた。
「人間の料理は雑だ」
「それ最初から分かってたことじゃねえか」
フライパンが言う。
「そして」
冷蔵庫は続けた。
「お前らは不満が多い」
「お前が言うなよ」
フライパンの言葉に、今度は鍋まで笑った。
まな板も吹き出す。
包丁だけは、何がおかしいのか分からないらしい。
冷蔵庫はしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。
「解散」
その一言で、最初の台所会議は終わった。
何一つ解決しなかった。
人間の料理が明日から丁寧になるわけでもない。
冷蔵庫の扉が素早く閉められる保証もない。
包丁はまた力任せに使われるかもしれないし、まな板にはまた傷が増える。
フライパンは火力に文句を言い、鍋は待つことの大切さを説くだろう。
それでも翌日になれば、全員また同じ台所で仕事をする。
文句を言いながら。
張り合いながら。
ときどき助け合いながら。
冷蔵庫の低い稼働音が、いつものように夜の台所へ響いていた。




