第4話 研がれた
その夜、包丁は人間に連れていかれた。
料理はもう終わっていた。
まな板は洗われ、壁際の定位置で乾かされている。鍋もフライパンも仕事を終え、台所には食後特有の気の抜けた静けさが戻りつつあった。
だから、人間が再び包丁を取り出したとき、まな板は少しだけ不思議に思った。
食材はない。
包丁だけが調理台へ置かれる。
次に出てきたものを見て、まな板は納得した。
砥石だった。
水を含ませた砥石が調理台に据えられる。
包丁はまだ人の姿にはなれない。
それでも、まな板には分かった。
たぶん今、ものすごく喜んでいる。
人間が包丁の柄を握った。
刃を砥石へ当てる。
しゃっ。
乾いたような、それでいて水気を含んだ音が台所へ走った。
しゃっ。
しゃっ。
一定の角度を保ちながら、刃が砥石の上を滑る。
包丁にとって、研がれるという行為は単なる手入れではない。
毎日の仕事で少しずつ鈍った刃を整えられ、本来の自分へ戻っていく時間だった。
目に見えるほど大きく変わるわけではない。
けれど、一往復するたび。
もう一往復するたび。
刃先の感覚が澄んでいく。
余計な引っかかりが消えていく。
まな板は少し離れたところから、その様子を見ていた。
「明日、面倒くさそうだな」
もちろん今は口にできない。
ただのまな板として壁際に立ちながら、そう思った。
包丁はもともと、自分の切れ味にうるさい。
それが研がれた翌日ともなれば、どうなるか。
長年一緒にいるまな板には、だいたい想像がついていた。
翌朝。
冷蔵庫の扉が開いた。
人間がトマトを一つ取り出す。
次にきゅうり。
朝食の付け合わせらしい。
包丁が引き出しから取り出された。
まな板も調理台へ置かれる。
包丁の刃が、トマトへ触れた。
すっ。
ほとんど抵抗がなかった。
潰れやすい実に刃が吸い込まれ、薄い一枚が切り離される。
次。
すっ。
また一枚。
切断面は滑らかで、種も果肉もほとんど崩れていない。
まな板は下から刃を受けながら、内心でため息をついた。
これは駄目だ。
今日のこいつは、絶対にうるさい。
きゅうりも同じだった。
とん、とん、とん、とん。
昨日までより、音まで軽い。
人間が余計な力を入れなくても、刃が素直に落ちてくる。
仕事を終えた包丁は洗われ、元の場所へ戻された。
人間が朝食を持って台所を出ていく。
気配が消える。
包丁が人の姿になった。
そして。
「見たか?」
第一声がそれだった。
まな板は人の姿になりながら、顔すら向けなかった。
「見た」
「今のトマト」
「見た」
「潰れてなかった」
「そうだな」
「刃を置いただけだぞ」
「そうだな」
包丁は自分の手を眺める。
昨夜までと同じ手だ。
けれど本人にとっては、何もかも違っているらしい。
指先を軽く動かしながら、満足そうに息を吐く。
「切れる」
「よかったな」
「切れるぞ」
「聞いた」
「ものすごく切れる」
「分かった」
包丁はまな板のほうを向いた。
「反応が薄くないか?」
「昨日の夜からこうなると思ってた」
「何がだ」
「お前が」
包丁は意味が分からないという顔をした。
まな板はそれ以上説明しなかった。
研がれた直後の包丁に何を言っても、今日はたぶん切れ味の話に戻ってくる。
昼。
また出番が来た。
今度は長ねぎだった。
人間が包丁を握る。
まな板の上に長ねぎが置かれる。
とんとんとんとんとん。
細かな輪切りが、ほとんど同じ幅で連なっていく。
刃の落ちる速度が速い。
まな板は少し怖くなった。
包丁が怖いのではない。
正確には、包丁が調子に乗っていることが怖かった。
人間が台所を離れる。
案の定、包丁はすぐに言った。
「見たか?」
「見た」
「速かっただろ」
「速かった」
「全部ほぼ同じ幅だった」
「そうだな」
「途中、俺がどこにいるか分からなかっただろ」
「それは危ないから分かっててくれ」
「比喩だ」
「お前が比喩を使うとは思わなかった」
包丁は機嫌がいい。
いつもなら、まな板の軽口に一言くらい返すところだが、今日は何を言われても気にならないらしい。
自分の切れ味が、それほど嬉しいのだ。
そこへフライパンがやってきた。
「何だこいつ。朝からずっとこんななのか?」
「昨夜研がれた」
「ああ」
それだけでフライパンは理解した。
「なるほどな」
「何がなるほどだ」
包丁が聞く。
「別に」
「俺の切れ味を見たか?」
「見てねえ」
「見たほうがいい」
「何でだよ」
「切れるからだ」
「包丁なんだから切れるだろ」
包丁の表情が止まった。
まな板はフライパンを見た。
フライパンは、自分が何を言ったのか分かっていない。
「……何だよ」
包丁が静かに言った。
「何が」
「今の言い方」
「包丁なんだから切れるって?」
「切れるにも程度がある」
「そうなのか?」
「ある」
「へえ」
「昨日の俺と今日の俺は違う」
「同じに見えるけどな」
「違う」
包丁の声に、妙な圧が混じった。
フライパンはまな板を見る。
「何か面倒くさいな」
「今日は触らないほうがいい」
「お前ら、聞こえてるぞ」
「聞かせてる」
まな板は平然と答えた。
包丁は少し不満そうだったが、すぐにまた自分の刃の話へ意識を戻した。
午後になっても、包丁の機嫌は続いた。
人間がリンゴを切れば。
「見たか?」
玉ねぎを切れば。
「今の見たか?」
キャベツの千切りを始めれば。
「見てろ」
誰も頼んでいない。
それでも包丁は、使われるたびに自信を深めていった。
切る。
切れる。
もっと切れる。
まな板にとっては、普段より忙しい一日だった。
包丁の切れ味が良ければ、人間も気持ちよく使う。
気持ちよく使えば、作業も進む。
作業が進めば。
その下で受け止める回数も増える。
「なあ」
夕方、人間がいなくなった隙に、まな板が自分の腕を見ながら言った。
「何だ」
「今日、ちょっと遠慮してくれないか」
「なぜだ」
「お前、朝から飛ばしすぎだ」
「俺は人間に使われているだけだ」
「分かってるけど」
「手を抜くことはできない」
「そうじゃなくて、気持ちの問題だよ」
「仕事に気持ちを持ち込むな」
「昨日まで切れ味に一喜一憂してたやつが言うな」
包丁は黙った。
図星だったらしい。
まな板は小さく笑う。
「まあ、嬉しいのは分かるけどな」
「嬉しい?」
「研がれたこと」
「別に」
「朝から何回『見たか』って聞いた?」
包丁が視線を逸らした。
「数えてない」
「冷蔵庫に聞くか?」
「やめろ」
少し離れたところで、冷蔵庫の稼働音が続いている。
聞こえているのかいないのか、何も言わない。
まな板は包丁の横顔を見た。
普段は職人気質を気取っているくせに、研がれた翌日だけは分かりやすい。
長い付き合いだからこそ知っている一面だった。
そして夕食。
今日最後の大仕事が始まった。
人間が取り出したのは鶏肉だった。
まな板の上へ置かれる。
包丁が握られる。
刃が落ちる。
すっ。
肉が切れる。
また。
すっ。
余計な力はいらない。
皮ごと、きれいに断ち切っていく。
包丁は絶好調だった。
まな板は、その刃を受けながら思う。
確かにすごい。
昨日とは違う。
刃が食材へ入り込む感覚も、落ちてくる速さも、音も違う。
包丁があれだけ浮かれる理由も、分からなくはなかった。
人間の料理が終わる。
包丁とまな板は洗われる。
しばらくして台所が静かになった。
二人は人の姿へ戻る。
包丁は、何も言わなかった。
まな板は少し待った。
まだ言わない。
「……何だよ」
包丁が聞く。
「いや」
「何だ」
「今日は言わないんだなと思って」
「何を」
「『見たか?』」
包丁は少し黙った。
「見たか?」
「言わせたみたいになっただろ」
「お前が言えと言った」
「言ってない」
包丁は不満そうに眉を寄せる。
まな板は笑った。
「でもまあ」
自分の腕に増えた細かな傷を眺めてから、まな板は続ける。
「今日は確かによく切れてたよ」
包丁の表情が変わった。
ほんの少し。
けれど、長年隣にいるまな板には分かる。
「そうか」
「ああ」
「どれが一番よかった?」
「そこまで聞くのかよ」
「トマトか?」
「知らん」
「長ねぎもよかった」
「自分で言うな」
「鶏肉も」
「はいはい」
「キャベツも――」
「もういい」
まな板が手を振った。
それでも包丁は満足そうだった。
しばらくして、鍋とフライパンも仕事を終えて戻ってくる。
包丁は二人を見る。
「今日の鶏肉、見たか?」
「まだやってんのか」
フライパンが呆れる。
「よく切れていたな」
鍋は素直に認めた。
包丁の背筋がわずかに伸びた。
「そうだろ」
「ただし」
鍋が続ける。
「切っただけでは料理にはならない」
「何だと」
「煮る工程も重要だ」
「焼くだろ!」
フライパンまで加わった。
「今日の鶏は焼いたから旨くなったんだ!」
「煮ても旨い」
「今その話してねえだろ!」
また別の争いが始まりそうになる。
まな板は頭を抱えた。
冷蔵庫が低く言う。
「静かにしろ」
全員が黙った。
数秒。
包丁が、まな板にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「明日も切れるぞ」
まな板は横目で見る。
包丁は得意げだった。
研がれたばかりの刃と同じくらい、顔まで輝いている。
「はいはい」
まな板はため息交じりに答えた。
明日もまた、自分はその刃を真正面から受け止めるのだろう。
少し怖い。
けれど。
機嫌の悪い包丁よりは、たぶんこっちのほうがいい。
――たぶん。




