第3話 焼くか、煮るか
昼前の台所に、冷蔵庫の扉が開く音がした。
冷えた空気が床へこぼれ、人間の腕が庫内へ伸びる。取り出されたのは玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、それから肉だった。どれも珍しい食材ではない。けれど調理台の上にその顔ぶれが揃った途端、台所用品たちの間には、これから始まる仕事を予感する空気が流れた。
包丁は真っ先に出番を得た。
人間の手に握られ、まな板の上へ刃を落とす。
とん、とん、とん。
玉ねぎが細かくなり、にんじんがころりと転がる。じゃがいもを断つときには少し重い音がした。最後に肉を一口大に切り分ける。
包丁にとっては気分のいい時間だった。刃が食材へ素直に入り、余計な力をかけずに仕事が進む。対して、そのすべてを下から受け止めているまな板には、また細かな傷が増えていた。
それでも今日は揉めない。
二人の仕事が終わったあと、人間の手が棚へ向かったからだ。
棚には、フライパンと鍋が並んでいる。
人間の指先が近づいてくる。
フライパンは動けない身体のまま、内心で身を乗り出した。
肉がある。 玉ねぎがある。 にんじんも、じゃがいももある。
焼ける。
全部、焼ける。
少なくともフライパンにとっては、そういう食材だった。
人間の手がフライパンの取っ手へ近づいた。
来た。
そう確信した次の瞬間、その手はわずかに横へずれた。
持ち上げられたのは鍋だった。
フライパンは棚に残された。
鍋がコンロへ置かれる。油が注がれ、火がついた。やがて切り分けた肉が鍋底へ落ちる。
じゅうっ、と威勢のいい音がした。
その音を聞いた瞬間、棚の上のフライパンは、自分でも説明できないほど腹が立った。
鍋で肉を焼いている。
鍋で。
肉を。
焼いている。
人間がいる以上、文句を言うこともできない。ただのフライパンとして棚に収まりながら、目の前で自分の得意分野を奪われる時間を耐えるしかなかった。
料理が終わり、人間が台所から離れた。
足音が遠ざかり、完全に気配が消える。
その瞬間、棚から人の姿になったフライパンが飛び降りた。
「待て」
床へ着地するなり、フライパンは鍋を指差した。
洗われたばかりの鍋は、自分の身体についた水気を拭うように袖を払っている。その動きには、後ろめたさなど欠片もなかった。
「何だ」
「今の何だ」
「何がだ」
「肉焼いたよな?」
鍋は少し考えるように視線を上げた。
「焼いたな」
「お前が」
「そうだな」
「鍋のくせに」
その一言で、鍋の眉がわずかに動いた。
声を荒らげるほどではない。だが、聞き流すつもりもないらしい。
「鍋でも肉くらい焼く」
「焼くなよ」
「なぜだ」
「俺の仕事だろうが!」
フライパンの声が台所に響いた。
調理台では、人の姿になった包丁とまな板が並んでその様子を眺めている。まな板は「ああ、始まった」という顔をしていた。
「何だ?」
包丁が小声で尋ねる。
「いつものだよ」
「いつもの?」
「見てれば分かる」
まな板の言葉どおり、二人の間にはすでに、他人が入り込みにくい空気が出来上がっていた。
フライパンは腕をまくるような仕草をして鍋へ詰め寄る。
「そもそもな、肉ってのは焼いて旨くなるんだよ」
「そうか」
「強い火で一気にいく。表面を焼いて、香ばしくする。そういう仕事は俺の領分だろ」
「ものによる」
「何がだよ」
「料理がだ」
鍋は相変わらず落ち着いていた。
その態度が、火力を上げるようにフライパンを苛立たせる。
「煮込み料理でも、最初に肉を焼くことはある」
「だったら最初だけ俺を使え!」
「それは人間に言え」
「聞こえねえだろ!」
「なら仕方ない」
「その顔が腹立つんだよ!」
鍋はため息をついた。
フライパンは火にかけられていないのに、今にも湯気でも立ちそうな勢いだった。
「焼くこと自体を否定しているわけではない」
鍋は諭すように続けた。
「ただ、焼けば料理が完成するとは限らないと言っている」
「完成する」
「しないものもある」
「する」
「頑固だな」
「お前に言われたくねえ」
鍋の目が少し細くなる。
「では聞くが。大根は?」
「焼く」
「里芋」
「焼く」
「白菜」
「焼く」
「豆腐」
「焼く」
「魚」
「焼く」
「卵」
「焼く」
「米」
「焼く」
「ちょっと待て」
それまで黙っていたまな板が、とうとう口を挟んだ。
「最後のは一回考えろ」
「焼きおにぎりがある」
フライパンは間髪入れずに返した。
包丁が感心したように頷く。
「強いな」
「感心するところじゃない」
まな板は額を押さえた。
鍋は腕を組み、呆れ半分、感心半分という顔でフライパンを見る。
「つまり、お前は何でも焼けばいいと思っているわけだ」
「違う」
「違うのか?」
「旨く焼けばいいと思ってる」
「同じだ」
「全然違う。気持ちが」
「料理は気持ちだけではどうにもならない」
「お前はそうやって理屈が多いんだよ」
「理屈ではない。手順だ」
「時間かけてぐつぐつやってりゃ偉いと思ってんだろ」
「思っていない」
「思ってる顔だ」
「どんな顔だ、それは」
包丁は二人を見比べてから、まな板へ顔を寄せた。
「どっちが正しい?」
「料理による」
「なるほど」
「お前まで『切るのが一番大事だ』とか言い出すなよ」
「切るのは重要だ」
「ほら始まった」
まな板は深く息を吐いた。
冷蔵庫だけは、少し離れた場所で低い稼働音を響かせながら、騒ぎに加わろうとしなかった。こういう争いが始まったとき、下手に口を挟めば長引くことを知っている。
しかし、フライパンと鍋の声量は少しずつ上がっていった。
「焼いたほうが旨い!」
「煮たほうが旨い料理もある」
「火力だ!」
「時間だ」
「強火!」
「弱火」
「短時間!」
「じっくり」
「勢い!」
「待つことも必要だ」
「お前とは一生分かり合えねえ!」
「その点だけは同意する」
「お前ら」
冷蔵庫の低い声が割って入った。
フライパンと鍋が同時に口を閉じる。
「うるさい」
「……悪い」
「すまん」
台所に、束の間の静けさが戻った。
もっとも、フライパンの腹の中まで静かになったわけではない。
少しすると、彼は冷蔵庫のほうを振り向いた。
「なあ、冷蔵庫」
「何だ」
「お前はどっちだ」
「何が」
「焼くか、煮るか」
冷蔵庫はしばらくフライパンを見た。
庫内の食材事情なら、この台所で彼以上に詳しい者はいない。何が入っていて、何が減り、何がそろそろ使われるべきか。すべて把握している。
だからこそフライパンは、判定役として申し分ないと思ったらしい。
「俺に聞くな」
「食材全部見てるだろ」
「だから何だ」
「どっちが旨い」
「知らん」
「逃げたな」
「俺は冷やすのが仕事だ」
冷蔵庫はそれだけ言って黙った。
フライパンが小さく舌打ちする。
「使えねえな」
「聞こえているぞ」
「何でもない」
さっきより素早く引き下がった。
鍋はその様子を見て、わずかに口元を緩める。
「そもそも、優劣を決める必要があるのか?」
「ある」
「なぜ」
「俺が勝ちたい」
あまりにも迷いのない答えだった。
鍋は一瞬黙り、それから肩を落とした。
「正直だな」
「お前だって負けたくねえだろ」
「別に」
「じゃあ俺の勝ちでいいな」
「それは違う」
フライパンの目が輝いた。
「ほら!」
勝ち誇ったように鍋を指差す。
「お前も勝ちたいんじゃねえか!」
「お前に勝ちを譲る理由がないだけだ」
「同じだ!」
その日の午後、二人は勝負を決めることになった。
次に人間が作る料理で、フライパンが使われれば「焼く」の勝ち。鍋が使われれば「煮る」の勝ち。両方なら引き分け。
電子レンジだけなら無効。 炊飯器だけでも無効。包丁だけなら――と包丁本人が口を挟んだところで、まな板が止めた。
条件を決めれば決めるほど、何の勝負なのか分からなくなっていったが、当人たちは真剣だった。
夕方。
玄関の向こうから、人間が帰ってくる気配がした。
その瞬間、台所用品たちは元の姿へ戻る。
やがて冷蔵庫の扉が開いた。
フライパンと鍋は棚の中から、取り出されていく食材を見守る。
玉ねぎ。
にんじん。
じゃがいも。
肉。
昼とよく似た顔ぶれだった。
フライパンには、それらすべてが「焼け」と言っているように見えた。
鍋には、それらすべてが「煮込め」と言っているように見えた。
もちろん食材は何も言っていない。
人間が包丁を手に取った。
とん、とん、とん。
包丁は勝負など気にせず、自分の仕事に没頭する。まな板はその刃を受けながら、棚の二人のほうが気になって仕方がなかった。
やがて下ごしらえが終わる。
人間の手が棚へ伸びた。
フライパンの取っ手へ近づく。
今度こそ。
手が取っ手を掴んだ。
フライパンが棚から下ろされる。
コンロへ置かれた。
油が注がれる。
火がつく。
肉が落ちる。
じゅうっ。
食欲を刺激する音とともに、肉の表面が焼けていく。
続いて玉ねぎ。
にんじん。
じゃがいも。
フライパンの中で油をまとい、火にあおられ、次々と転がる。
もし人の姿でいられたなら、フライパンは間違いなく鍋のほうを見て笑っていただろう。
これだ。
料理は火力だ。
焼いてこそ旨くなる。
勝った。
完全にそう思っていた。
人間が火を止めるまでは。
次に取り出されたのは鍋だった。
フライパンの中の食材が、まとめて鍋へ移される。
水が注がれた。
火にかけられる。
しばらくすると、鍋の中から、ぐつぐつという穏やかな音が聞こえ始めた。
今度は鍋の時間だった。
強い火で一気に変化させるフライパンとは違う。
鍋の中では、時間をかけて熱が食材の奥へ入っていく。硬かったじゃがいもが柔らかくなり、にんじんにも火が通り、肉と玉ねぎの味が煮汁へ溶け出していく。
フライパンはすでに洗われ、棚へ戻されていた。
そこから鍋を見下ろすしかない。
やがて人間が小さな箱を取り出した。
茶色い固形のルウが鍋へ落ちる。
ゆっくり溶けていく。
白かった湯が、とろみのある茶色へ変わる。
香辛料の匂いが台所いっぱいに広がった。
カレーだった。
夕食が終わったあと。
人間が台所を離れるのを待って、道具たちは再び人の姿になった。
フライパンと鍋は、しばらく無言で向かい合った。
先に口を開いたのはフライパンだった。
「俺の勝ちだな」
「なぜだ」
「最初に俺を使った」
「最後は私だった」
「肉を焼いた」
「その肉を煮込んだ」
「玉ねぎも炒めた」
「じゃがいももにんじんも煮た」
「焼いたから旨くなった」
「煮たからカレーになった」
二人の間に、昼間とまったく同じ空気が戻ってくる。
フライパンが一歩出れば、鍋も引かない。
「俺がいなきゃ始まらなかった」
「私がいなければ完成しなかった」
「俺の勝ちだ」
「私の勝ちだ」
「引き分けって言ってただろ」
まな板が横から言った。
二人が同時に振り返る。
「言ってない」
「言っていない」
「言ってたよ!」
まな板の声が響いた。
包丁が少し考えてから手を挙げる。
「俺も使われたぞ」
「今は黙ってろ」
「なぜだ」
「余計ややこしくなる」
フライパンと鍋は再び睨み合う。
昼から何一つ進歩していなかった。
「焼きだ」
「煮込みだ」
「焼き!」
「煮込み」
「強火!」
「時間だ」
冷蔵庫はそのやり取りを聞きながら、今日使われた食材の残りを頭の中で確認していた。
玉ねぎはまだある。 にんじんも少し。 肉は減った。じゃがいもも残っている。
明日また何か作るかもしれない。
そのとき、この二人はまた同じことを始めるのだろう。
「カレーは旨かったのか」
冷蔵庫が言った。
二人の声が止まる。
フライパンは少しだけ考えた。
「……たぶんな」
「人間はおかわりしていた」
鍋が答える。
「なら、それでいいだろ」
冷蔵庫にとっては、それで話は終わりだった。
しかし。
「いや」
フライパンが言った。
「よくねえ」
「同感だ」
鍋も静かに頷いた。
「決着は必要だ」
「次だな」
「ああ」
「次こそ焼きが勝つ」
「煮る料理なら私の勝ちだ」
「だからそれを決めるんだろうが!」
また声が大きくなる。
まな板は深いため息をついた。
包丁はどこか楽しそうに二人を眺めている。
冷蔵庫は何も言わず、いつもの低い稼働音を響かせた。
焼くのが上か。
煮るのが上か。
その日の台所では、結局決着がつかなかった。
おそらく、次の料理でも。
その次の料理でも。
二人が同じ台所にいる限り、この勝負に終わりは来ない。
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