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キッチンズ ~今日も台所は騒がしい~  作者: あずきまんま


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第2話 包丁とまな板

 朝から、包丁は機嫌がよかった。


 理由は単純だ。


 仕事がある。


 人間が台所へやってきて、冷蔵庫から野菜を取り出した。

 玉ねぎ。にんじん。じゃがいも。


 それらが調理台へ並べられた瞬間、包丁には今日の出番が分かった。


 人間がいる間、彼らは人の姿にはなれない。


 だから包丁は、ただ一本の包丁として人間の手に握られた。


 けれど、その刃には明らかにやる気が満ちていた。


 最初は玉ねぎ。


 とん、とん、とん、とん。


 一定の間隔で刃が落ちる。


 そのたびに、下ではまな板が受け止める。


 とん。


 とん。


 とん。


 とん。


 包丁は気持ちよく切っていた。


 まな板は黙って受けていた。


 次はにんじん。


 玉ねぎより硬い。


 人間の手に少し力が入る。


 ごん。


 刃が落ちる。


 まな板が受ける。


 ごん。


 また受ける。


 ごん。


 受ける。


 包丁は絶好調だった。


 まな板は黙っていた。


 次はじゃがいも。


 半分に切る。


 さらに切る。


 大きさを揃える。


 包丁は仕事に没頭している。


 そして、その全部を。


 まな板は真正面から受け止めていた。


 やがて下ごしらえが終わった。


 人間が切った野菜を鍋へ移していく。


 包丁は流しへ。


 まな板も流しへ。


 洗われる。


 水気を拭かれる。


 それぞれの定位置へ戻された。


 しばらくして、人間が台所からいなくなった。


 足音が遠ざかる。


 静かになる。


 その瞬間、包丁は人の姿になった。


「今日もいい仕事だった」


 第一声がそれだった。


 まな板も人の姿になる。


「そうだな」


「玉ねぎ、見たか?」


「見た」


「速かっただろ」


「俺の上で切ってたからな」


「にんじんもよかった」


「知ってる」


「じゃがいもの断面も綺麗だった」


「それも知ってる」


 包丁は満足そうに腕を組んだ。


 まな板はそんな相棒を横目に、自分の腕を眺めた。


 細かな傷がいくつも走っている。


 昨日今日についたものではない。


 長い間、包丁の仕事を受け続けてきた痕だ。


「やっぱり料理は下ごしらえで決まるな」


 包丁が言う。


「そうかもな」


「切り方一つで火の通りも変わる」


「そうだな」


「大きさを揃えるのも重要だ」


「そうだな」


「何だ、その返事」


「疲れてる」


 包丁がまな板を見る。


「何もしてないだろ」


 まな板は黙った。


「……何だ」


「今、何て言った?」


「何もしてないだろ」


「もう一回言ってみろ」


「何も――」


 まな板が立ち上がった。


 包丁は一歩下がった。


「何だよ」


「今日、お前は何回俺に叩きつけられたと思う?」


「叩きつけられた?」


「言い方が気に入らないか?」


「俺は食材を切っていただけだ」


「その刃を受けてたのは誰だ」


 包丁は少し考えた。


 そして、まな板を見た。


「お前だな」


「そうだよ」


「でも食材が間にあるだろ」


「だから何だ」


「直接じゃない」


「直接だったら俺は今ここにいねえよ」


 包丁は黙った。


 そこへ棚から鍋が顔を出した。


「朝から元気だな」


「元気じゃない」


 まな板が言う。


「こいつが俺は何もしてないって言うんだ」


 鍋は包丁を見る。


「言ったのか?」


「事実を言っただけだ」


「そうか」


 鍋はゆっくり頷いた。


「では、今度から調理台の上で直接切ってもらえばいい」


「それは駄目だ」


 包丁が即答した。


「なぜだ?」


「刃が傷む」


「なるほど」


「あと調理台も傷つく」


「なるほど」


「だからまな板が必要だ」


「なるほど」


 鍋はもう一度頷いた。


 包丁も頷く。


 まな板だけが頷かなかった。


「そこまで分かってて、何で俺は何もしてないことになるんだよ」


「……確かに」


「今気づいたのか」


 鍋は何も言わず棚へ戻っていった。


 巻き込まれる前に退避したらしい。


「まあいい」


 まな板はため息をついた。


「昔からそういうやつだしな」


「何だ、それ」


「褒めてない」


 包丁は納得していない顔をしながら、まな板の隣に腰を下ろした。


 しばらく二人とも黙っていた。


 包丁は仕事が好きだ。


 食材を切ることに誇りを持っている。


 薄く。  細く。  均等に。


 人間の手が正しく動けば、それに応える。


 切れ味がいい日は気分もいい。


 逆に、潰すような切り方になれば一日中機嫌が悪い。


 まな板は、それをずっと見てきた。


 というより。


 ずっと受けてきた。


「なあ」


 包丁が言った。


「何だ」


「お前、傷増えたな」


 まな板が止まった。


 包丁はまな板の腕を見ていた。


 表面に残った無数の細い傷。


 一本一本は小さい。


 だが、重なれば目立つ。


「……今さら気づいたのか」


「前からこんなだったか?」


「少しずつ増えてる」


「そうなのか」


「そうだよ」


 包丁はじっと傷を見る。


「大丈夫か?」


 まな板は少し意外そうな顔をした。


「まあな。これくらい普通だ」


「痛くないのか」


「仕事中は別に」


「終わったら?」


「多少は」


 包丁が眉を寄せた。


 まな板はその顔を見て、少しだけ笑った。


「何だよ」


「いや。お前でもそういう顔するんだなと思って」


「どういう意味だ」


「別に」


 包丁はもう一度、傷を見る。


 指を伸ばしかける。


 まな板がその手を払った。


「触るな」


「見るくらいいいだろ」


「見てるだけじゃなかっただろ」


「傷の深さを確認しようとした」


「職人か」


「職人だ」


「お前は刃物だ」


「同じようなものだ」


「違う」


 包丁は不満そうだった。


 それでも、さっきまでの得意げな様子は消えている。


「これ」


 包丁が傷を指す。


「俺がつけたのか?」


 まな板は包丁を見た。


「他に誰がいるんだ」


 包丁が固まった。


 数秒。


「全部?」


「ほぼ全部」


「……全部?」


「だから、ほぼ全部」


「この長いのも?」


「たぶんお前」


「こっちの深いのは?」


「お前」


「この辺の細かいやつは?」


「お前」


「これは?」


「お前」


「これも?」


「お前」


「お前しか言わないな」


「お前だからな」


 包丁は傷だらけのまな板を見つめた。


 そして、信じられないという顔で言った。


「お前、傷増えたな」


「誰のせいだ」


 まな板の返事は即座だった。


 台所の隅で、冷蔵庫の稼働音が響いている。


 しばらく沈黙があった。


 包丁が言う。


「でも、俺が切ったのは食材だぞ」


「まだ言うか」


「事実だ」


「結果として俺にも刃が当たってるんだよ」


「お前が下にいるからだろ」


「俺がいなかったら困るって、さっき自分で言ったよな?」


「それはそうだが」


「じゃあ受け止めてやってることに感謝しろ」


「感謝?」


「そうだ」


 包丁は考え込んだ。


 まな板は腕を組んで待った。


 やがて包丁が口を開く。


「いつも助かる」


 まな板が目を瞬いた。


 予想以上に素直だった。


「……おう」


「明日も頼む」


「ああ」


「できれば、もう少し硬く受けてくれると切りやすい」


「今の感謝返せ」


「なぜだ」


「お前は本当にそういうやつだな!」


 包丁は首を傾げた。


 まな板は頭を抱える。


 そこへ、棚からフライパンの笑い声が飛んできた。


「相変わらずだな、お前ら」


「聞いてたのか」


 まな板が睨む。


「聞こえるだろ、そりゃ」


「ならこいつに言ってやってくれ」


「何を?」


「まな板には感謝しろって」


 フライパンは少し考えた。


「俺、まな板使わねえしな」


「お前に聞いた俺が馬鹿だった」


「でも包丁よ」


 フライパンが言う。


「そいついなかったら、お前仕事できねえんだろ?」


「できなくはない」


「調理台で切ったら?」


「刃が傷む」


「皿の上は?」


「論外だ」


「じゃあ必要じゃねえか」


「必要だ」


「なら大事にしろよ」


 包丁はまな板を見る。


「大事にはしている」


「初耳だぞ」


 まな板が言った。


「毎日使っている」


「それは大事にしてるんじゃなくて酷使してるって言うんだ」


「そうなのか?」


「そうだよ」


 また鍋が棚から顔を出した。


「まだやっているのか」


「鍋、聞いてくれ」


「遠慮する」


 今度は即座に引っ込んだ。


 フライパンが笑う。


 まな板は深くため息をついた。


 包丁はそんな周囲を気にせず、自分の手を見る。


「しかし」


「何だ」


「明日も仕事はあるだろうか」


「あるんじゃないか」


「肉がいい」


「知らん」


「魚でもいい」


「人間に言え」


「聞こえない」


「知ってる」


「野菜でも構わない」


「結局何でもいいんじゃないか」


「切れればな」


 包丁は楽しそうだった。


 まな板は呆れながらも、少しだけ口元を緩める。


 こいつは昔から変わらない。


 切ることしか考えていない。


 自分の切れ味と、仕事の出来。


 そして、その仕事のたびに下にいる相棒のことは、普段ほとんど意識していない。


 だから腹が立つ。


 けれど。


 明日、人間が包丁を手に取れば。


 その下には、たぶんまた自分がいる。


「なあ」


 包丁が言った。


「今度は何だ」


「傷、本当に大丈夫なんだな?」


 まな板は少し黙った。


「ああ」


「そうか」


 包丁は安心したように頷いた。


「じゃあ明日も遠慮なくいけるな」


「少しは遠慮しろ」


「切れ味が鈍る」


「お前の都合しかないのか」


「仕事だからな」


「俺も仕事なんだよ!」


 台所にまな板の声が響いた。


 冷蔵庫が低い声で言う。


「静かにしろ」


「……悪い」


 まな板が謝る。


 包丁も小さく頭を下げた。


 少しして。


 包丁がまな板の隣に座り直す。


「明日も頼む」


 今度は余計な一言をつけなかった。


 まな板は横目で包丁を見る。


「おう」


 それだけ答えた。


 二人の間には、それで十分だった。


 少なくとも――


 翌朝、人間が包丁を握り、まな板の上で最初の一刀を振り下ろすまでは。


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