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キッチンズ ~今日も台所は騒がしい~  作者: あずきまんま


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第1話 冷蔵庫の扉を閉めろ

 扉が開いた。


 冷蔵庫は何も言わなかった。


 白い光が台所へ漏れ、代わりに外のぬるい空気が庫内へ入り込んでくる。


 人間が棚の前で何かを探している。


 牛乳を持ち上げる。  戻す。  卵を見る。  戻す。  奥を覗く。


 まだ閉めない。


 冷蔵庫は黙っていた。


 コンプレッサーの低い唸りだけが、いつもより少し強くなる。


「長くないか?」


 調理台の上で、フライパンが言った。


 人間には聞こえない。  人間が台所にいる間、彼らはただの道具だ。


 それでも、互いの声だけは届く。


「長いな」


 鍋が落ち着いた声で答えた。


「何探してんだ、あいつ」


「さあ。本人も分かっていないんじゃないか」


「だったら閉めりゃいいだろ」


 もっともな意見だった。


 だが、それを言っているフライパン自身は、何一つ困っていない。


 冷蔵庫は黙っている。


 扉の向こうでは、人間が今度は調味料の瓶を一本取り出した。


 ラベルを見る。


 戻した。


「おい」


 フライパンが呆れた。


「今の絶対いらなかっただろ」


「確認したかったんだろう」


「何を」


「知らん」


 鍋にも分からなかった。


 人間は再び冷蔵庫の奥を覗き込んだ。


 冷気が逃げる。


 冷蔵庫の沈黙が、少しずつ重くなっていく。


 まな板が小声で言った。


「……怒ってるな」


「分かるのか?」


 その隣の包丁が聞いた。


「分かるだろ」


「いつもと同じ顔だぞ」


「顔じゃない」


「じゃあ何だ」


「音」


 包丁は耳を澄ませた。


 低い稼働音。


 いつも聞こえている音だった。


「同じじゃないか」


「お前、そういうところあるよな」


「どういうところだ」


「分からないならいい」


 まな板は話を切った。


 包丁は納得していない顔をしたが、それ以上追及しなかった。


 その間にも、扉は開いている。


「なあ」


 フライパンが冷蔵庫へ呼びかけた。


「怒鳴ればいいだろ」


 返事はない。


「聞こえてんだろ?」


「聞こえている」


 ようやく冷蔵庫が答えた。


 声は平坦だった。


 だからこそ、まな板は余計に怖かった。


「じゃあ言えよ。閉めろって」


「聞こえない」


「でかい声ならいけるんじゃないか?」


「いかない」


「試したのか?」


「何年ここにいると思っている」


 フライパンが黙った。


 冷蔵庫はこの台所で一番長く働いている。


 朝も。  昼も。  夜も。


 料理が終わって包丁が引き出しへ戻っても、鍋が棚で休んでも、フライパンが火から下ろされても。


 冷蔵庫だけは止まらない。


 その本人が「無理だ」と言うなら、たぶん無理なのだ。


「まあまあ」


 鍋がなだめるように言った。


「いつものことだ。じきに閉める」


「お前は気楽でいいな」


 冷蔵庫が言った。


「別にそういうつもりでは」


「お前の蓋を開けたまま、一時間煮込まれてみろ」


「それは困るな」


「そういうことだ」


 鍋は素直に引き下がった。


「でもよ」


 フライパンはまだ納得していない。


「そんなに冷気って逃げるもんなのか?」


 冷蔵庫は答えなかった。


 代わりにまな板が言った。


「お前、火にかけられてる途中で人間がどっか行ったらどう思う?」


「火力上げろって思う」


「聞いた俺が悪かった」


「何だよ」


 そのとき、人間の手が伸びた。


 冷蔵庫の中から、ようやく一つの容器を取り出す。


 作り置きの惣菜だった。


「見つかったか」


 鍋が言う。


 全員の視線が扉へ集まった。


 人間が一歩下がる。


 扉に手をかける。


 冷蔵庫は何も言わない。


 あと少し。


 あと少しで閉まる。


 ――しかし。


 人間が止まった。


「あ」


 何かを思い出したらしい。


 再び扉を大きく開けた。


 台所が静まり返った。


 フライパンでさえ、何も言わなかった。


 包丁が小さく尋ねる。


「……今のは?」


「まずい」


 まな板が答えた。


「何がだ」


「冷蔵庫が」


 冷蔵庫は無言だった。


 人間は気づかない。


 冷蔵室の下段を探り、野菜室を開ける。


 閉める。


 また冷蔵室を覗く。


「何を探しているんだろうな」


 鍋が慎重に言った。


「今それ言わないほうがいいぞ」


 フライパンが止めた。


「お前が言うのか」


「俺だって空気くらい読む」


「初耳だな」


「喧嘩売ってんのか?」


「二人とも静かにしろ」


 冷蔵庫の一言で、二人は黙った。


 低い声だった。


 包丁がまな板へ顔を寄せる。


「怒ってるな」


「だからさっきからそう言ってる」


「今のは分かった」


「遅い」


 冷蔵庫が言った。


 包丁が固まった。


「俺に言ったか?」


「違う」


「じゃあ誰に」


 その瞬間。


 ぱたん。


 扉が閉じた。


 白い光が消える。


 外気の流入が止まり、台所にいつもの静けさが戻った。


 誰もしゃべらなかった。


 冷蔵庫の稼働音だけが響いている。


 人間は取り出した惣菜を持って台所を離れていった。


 足音が遠ざかる。


 完全に気配が消える。


 その瞬間、台所用品たちは人の姿を取った。


 包丁は調理台に腰掛け、まな板は自分の表面についた細かな傷を指でなぞる。フライパンは肩を回し、鍋は棚からゆっくり降りてきた。


 冷蔵庫だけは、その場から動かない。


 大きな身体で壁際に立ち、腕を組んでいる。


 全員がなんとなく彼を見る。


 フライパンが口を開いた。


「……まあ、閉まったんだからいいじゃねえか」


 冷蔵庫が見る。


「何だよ」


「お前は今日、火にかかっていないな」


「おう」


「仕事をしていないな」


「言い方」


「なのに一番うるさかったな」


「応援してたんだよ」


「何をだ」


「お前を」


「いらん」


 即答だった。


 鍋が苦笑する。


「しかし、本当に毎回大変だな」


「毎回?」


 冷蔵庫が鍋を見る。


「いや」


 鍋は言い直した。


「いつも、お疲れさま」


「そう思うなら、人間が扉を開けたときに代わりに閉めてくれ」


「無茶を言うな」


「なら黙っていろ」


「はい」


 まな板がため息をつく。


「今日は特に長かったな」


「長かった」


 冷蔵庫が答えた。


「どれくらいだ?」


 包丁が聞く。


 冷蔵庫は包丁を見た。


「知りたいか」


「いや」


 まな板が即座に割って入った。


「聞かないほうがいい」


「なぜだ」


「こいつ、たぶん全部覚えてるぞ。今日だけじゃなくて」


 冷蔵庫は否定しなかった。


 フライパンが半笑いになる。


「まさか、毎回数えてんのか?」


「数えてはいない」


「じゃあ何だよ」


「分かる」


「何が」


「長いか、長くないかだ」


 妙に断定的だった。


「お前は切れ味が落ちたら気にするだろう」


「気にする」


「フライパンは火力を気にする」


「するな」


「鍋は煮込み時間を気にする」


「まあな」


「まな板は衛生状態を気にする」


「それは大事だ」


「俺は温度を気にする。それだけだ」


 誰も反論できなかった。


 冷蔵庫は腕を組んだまま、静かになった庫内へ意識を向ける。


 逃げた冷気を取り戻さなければならない。


 温度を戻す。  食材を守る。  明日も、その次の日も。


 それが仕事だ。


 包丁がふと呟いた。


「でも、二分十三秒くらいなら――」


 まな板が包丁の肩を掴んだ。


「やめとけ」


「まだ何も言ってない」


「最後まで言うな」


「なぜだ」


「長く付き合いたいからだよ」


「誰と?」


「お前と」


「?」


 包丁は意味が分からないという顔をした。


 フライパンが吹き出す。


 鍋も口元を緩めた。


 冷蔵庫だけは笑わなかった。


 やがて台所は、いつもの夜へ戻っていく。


 包丁とまな板は明日の仕事の話を始め、フライパンと鍋は夕食の調理法についてまた言い争い始めた。


「今日の肉、焼きが甘かっただろ」


「十分だった」


「もっと強火でいけた」


「お前は何でも強火にすればいいと思っている」


「旨けりゃいいだろ」


「焦げても同じことを言えるか?」


「焦げじゃねえ。香ばしさだ」


「便利な言葉だな」


「お前ら」


 冷蔵庫が低く言った。


 二人が止まる。


「うるさい」


「はい」


「悪かった」


 再び静かになる。


 冷蔵庫は目を閉じた。


 今日も一日が終わる。


 とはいえ、彼の仕事は終わらない。


 誰もいなくなった台所で、低い稼働音だけが夜通し続く。


 そして冷蔵庫は、閉じた扉を見ながら、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「……遅い」

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