第6話 ピーラーという男
昼前、人間が台所へ持ち込んだ一本のにんじんを見て、包丁は静かに気合を入れた。
にんじんは洗われ、まな板の上へ置かれる。包丁も引き出しから取り出された。
まな板は、いつもの流れを予想していた。端を落とし、必要なら皮を薄く削ぎ、料理に合わせて切り分ける。包丁にとって何の問題もない仕事だ。
人間が包丁の柄を握った。刃先がにんじんへ近づく。
そのとき、もう片方の手が別の引き出しを開けた。
取り出されたのは、金属の刃が横向きについた細身の道具だった。
ピーラー。
包丁も存在は知っている。同じ台所に以前からいたが、仕事が重なることが少なく、まともに話したことはほとんどなかった。
人間は包丁をまな板の上へ置いた。
代わりにピーラーを握る。
しゃっ。
にんじんの皮が一本、薄く剥がれ落ちる。
しゃっ、しゃっ、しゃっ。
速い。
にんじんが手の中で回転するたび、表面から皮だけが消えていく。
包丁はまな板の上に寝かされたまま、その光景を見ていた。
まな板には、相棒が何を考えているのか何となく分かった。
これはまずい。
切れ味で負けたわけではない。そもそも仕事の種類が違う。
それでも、「自分でもできる仕事を、目の前で別の刃物に任される」という状況を、包丁が素直に受け入れるとは思えなかった。
ピーラーはあっという間に一本を剥き終えた。
人間はピーラーを置き、再び包丁を手に取る。
とん。
にんじんの端が落ちた。
とん、とん、とん。
いつもどおり、よく切れる。
ただ今日は、刃の落ちる音がいつもより少し硬かった。
料理が終わり、人間が台所を離れた。
静けさが戻る。
包丁は人の姿になっても無言だった。
まな板も、あえて何も言わない。長い付き合いから得た判断である。
触れないほうがいい。
ところが。
「お疲れさまでした」
聞き慣れない声がした。
二人が振り返る。
そこには細身の男が立っていた。身のこなしが軽く、動きに無駄がない。表情には妙な気負いもなく、本人はいたって穏やかそうだった。
ピーラーだった。
「今日、初めてちゃんと一緒に仕事しましたね」
ピーラーは包丁へ向かって言った。
「ああ」
「さすがですね」
「何がだ」
「切るの、速かったです」
悪意はない。
本当に感心しているらしい。
だからこそ、まな板は余計に嫌な予感がした。
「お前も速かったな」
包丁が言う。
「ありがとうございます」
「皮を剥くのが」
「はい。それが仕事なので」
ピーラーはにこやかに答えた。
包丁は黙った。
片方は何も気にしていない。もう片方は、明らかに気にしている。
「包丁さんも皮、剥けますよね?」
「剥ける」
「ですよね」
「剥ける」
「はい」
「俺でも剥ける」
「分かってますよ」
ピーラーは首を傾げた。
「何で三回言った?」
まな板が小声で聞く。
「二回だ」
「最初の返事入れたら三回だろ」
「細かいな」
「今のお前に言われたくない」
ピーラーは二人を見比べ、ふっと笑った。
「仲いいんですね」
「よくない」
「よくない」
二人の声がぴたりと重なる。
ピーラーの笑みが深くなった。
包丁はそれが気に入らないのか、ますます難しい顔になった。
午後。
今度はじゃがいもが出てきた。
人間が先に手に取ったのは、またピーラーだった。
丸い形に沿って刃が滑る。皮だけが薄く削がれ、じゃがいもの白い身が現れていく。
包丁でも皮は剥ける。
しかし、人間の手元次第では身まで厚く削ってしまう。対してピーラーは、その構造そのものが「薄く皮を剥く」ことに特化している。
しゃっ。
しゃっ。
あっという間だった。
そのあと包丁が取り出される。
刃先で芽を取り、じゃがいもを半分に切る。
包丁の仕事はきちんと残っていた。
それでも、人間がいなくなったあと。
「なあ」
包丁はピーラーへ声をかけた。
「はい?」
「勝負するか」
まな板が額を押さえた。
「何でそうなるんだよ」
ピーラーも目を丸くする。
「勝負?」
「どちらが速く皮を剥けるか」
「僕と?」
「そうだ」
「包丁さんが?」
「そうだ」
ピーラーは困ったように笑った。
「それ、僕が有利じゃないですか?」
包丁の眉が動く。
「やってみなければ分からない」
「いや、たぶん分かりますよ」
「何だと」
「だって僕、皮を剥くための道具ですから」
ピーラーは自分の手を眺めた。
「僕が包丁さんと、どちらが肉をきれいに切れるか勝負しても意味ないでしょう?」
「それは俺が勝つ」
「でしょう?」
「だが皮剥きなら俺もできる」
「できますね」
「なら勝負になる」
「なるかなあ」
ピーラーは本気で考え始めた。
まな板は包丁の肩を掴んだ。
「やめとけ」
「なぜだ」
「専門職に専門分野で喧嘩売るな」
「俺も刃物だ」
「そういう問題じゃない」
そこへ、面白そうな顔をしたフライパンがやってきた。
「何だ、包丁。仕事取られたのか?」
「取られていない」
「皮剥き、あいつがやってたぞ」
「役割分担だ」
「へえ」
「何だ」
「いやあ?」
フライパンの口元は完全に笑っていた。
「お前、楽しんでるだろ」
「まさか」
「顔が笑っている」
「笑ってるぞ」
まな板が言った。
「お前はどっちの味方だ」
「誰の味方でもない。面白いほうを見てる」
フライパンは隠す気すらない。
鍋まで様子を見に来た。
「何の騒ぎだ」
「包丁がピーラーに仕事取られて拗ねてる」
「取られていない!」
包丁の声が響いた。
冷蔵庫のほうから低い声が飛んでくる。
「静かにしろ」
「……悪い」
鍋はピーラーへ視線を向けた。
「皮を剥いたのか」
「はい」
「包丁も使われたのだろう?」
「芽を取って、そのあと切ってました」
「なら何も問題はないな」
「そうですよね」
「問題はある」
包丁だけが認めない。
「何が不満なんだ」
「不満ではない」
「では何だ」
「確認だ」
「何の」
「俺でもできる仕事だということの」
まな板は深いため息をついた。
結局、そこだった。
翌日。
包丁に機会が来た。
人間が大根を取り出したのである。
大根がまな板へ置かれる。人間は少し迷ったあと、包丁を手に取った。
大根の端を落とす。
厚い皮へ刃を入れる。
大根を回しながら、慎重に皮を剥いていく。
包丁は集中した。
薄く。
できるだけ身を無駄にせず。
刃を滑らせる。
悪くない。
むしろ、かなりきれいだった。
包丁は内心で胸を張った。
ほら見ろ。
できる。
ピーラーでなくても。
皮を剥き終えると、そのまま大根を輪切りにする。
とん。
とん。
とん。
ここからは完全に包丁の領分だ。
迷いなく刃が落ちていく。
人間がいなくなったあと、包丁はピーラーのいるほうを見た。
「見たか?」
まな板は頭を抱えた。
「また始まった」
ピーラーは素直に頷く。
「見ましたよ」
「どうだった」
「きれいでした」
「そうだろ」
「やっぱり包丁さん、器用ですね」
包丁の機嫌が目に見えてよくなる。
「まあな」
「僕には輪切りはできませんし」
「そうだろう」
「肉も切れないし」
「そうだな」
「魚も捌けない」
「そうだ」
「千切りもできない」
「そうだ」
包丁は完全に立ち直っていた。
ピーラーは笑いながら続ける。
「だから、皮くらい僕に任せてくださいよ」
包丁の表情が止まった。
まな板が吹き出す。
遠くでフライパンまで笑っていた。
「何がおかしい」
「いや」
まな板は肩を揺らした。
「こいつのほうが一枚上手だなと思って」
「何がだ」
「何でもない」
ピーラーは変わらず穏やかだった。
「僕、包丁さんの仕事を取りたいわけじゃないですよ」
「分かっている」
「本当に?」
「分かっている」
「ならよかった」
ピーラーが自分の定位置へ戻ろうとする。
その背中へ、包丁が声をかけた。
「ピーラー」
「はい?」
包丁は少しだけ言葉を選んだ。
「……にんじんの皮は」
「はい」
「お前のほうが速い」
まな板が目を丸くした。
包丁が他人の仕事を素直に認めるのは珍しい。
ピーラーも一瞬驚き、それから笑った。
「ありがとうございます」
「ただし」
包丁が続ける。
「大根は俺でもいける」
「はいはい」
「じゃがいもの芽は俺だ」
「そこはお願いします」
「リンゴの皮なら――」
「まだ張り合うのかよ」
まな板が割って入った。
包丁は真顔だった。
「重要な確認だ」
「何が重要なんだ」
「仕事の範囲」
ピーラーが小さく笑う。
「じゃあ、こうしましょう」
「何だ」
「僕が得意なところは僕がやる。包丁さんが得意なところは包丁さんがやる」
「普通だな」
「普通ですよ」
「勝負は?」
「しません」
「なぜだ」
「仕事なので」
あまりにあっさりした答えだった。
包丁はしばらく黙った。
まな板は横で肩を揺らしている。
フライパンが遠くから言った。
「振られたな」
「勝負を断られただけだ」
「同じようなもんだろ」
「違う」
「じゃあ俺と勝負するか?」
「何でお前とだ」
「どっちが肉を旨くできるか」
「お前は切れないだろ」
「焼ける」
「話にならない」
「何だと!」
今度はフライパンが食いついた。
鍋がため息をつく。
冷蔵庫は騒ぎが大きくなる前に一言だけ言った。
「静かにしろ」
全員が少しだけ声を落とした。
翌朝。
人間がにんじんを取り出した。
まな板が置かれる。
人間の手は、まずピーラーへ伸びた。
しゃっ。
薄い皮が落ちる。
包丁は黙って見ていた。
昨日ほど不機嫌ではない。
まな板はそれに気づいたが、何も言わなかった。
皮が剥き終わる。
ピーラーが置かれる。
次に包丁が握られた。
とん、とん、とん。
切り分けられたにんじんが、まな板の上へ並んでいく。
仕事は滞りなく進んだ。
皮を剥く者。
切る者。
受け止める者。
誰か一人で全部やる必要はない。
少なくとも、ピーラーは最初からそう思っていた。
包丁がそれを完全に認めるまでには、もう少し時間がかかりそうだった。




