20 《精霊王》
「もう大丈夫だ」
そう、続けていた。
色のない瞳で、子供をなだめるように。抱きしめるように。
「魔族を滅ぼす気もない。人間を見捨てる気もない。全部全部、もう大丈夫だ」
そう告げた。超回復するとはいえ、苦痛はその何倍、何十倍と感じる。だがそれすらも、エルソルは顔色一つ変えずにただ彼女の攻撃を受け切っていた。
終わりが近い。
エルソルが魔力を放った。今度は明確に解るほどに、無色透明であろうと、そこには彼の本心からの魔力が放たれていた。すべてを包み込むような優しい魔力、呪いの魔力ではない、慈悲に溢れた魔力を。それに触れて、みるみるその魔力の質を落としてくアルラスの魔力。世界と同化した彼女の魔力が、みるみるしぼんでいき、彼女の姿が徐々に彼の前に現れていった。
「お前は本当に――」
「もう終わりだ」
そして彼女を抱きしめた。
「もう……――」
優しく抱きしめた。彼女は反抗することもなく、彼のなされるがままに彼の魔力に触れ、涙を流し、そして少しずつ消えていく。彼女の魔力が無くなっていく、消えていく。彼女の存在そのものが、失われていく――。
すべてが終わったとき、浮遊していた玉座の間、と言うよりも床が、地面が、ガラガラと崩れていく音と共に、エルソルも力なく落ちていった。
彼を抱き止め、満足そうに、幸せそうな死に顔を見せる彼に、私の頬から涙が流れ落ちていいた
「馬鹿だなあ、お前は」
ゆっくりと下りていき、瓦礫の上で私は彼の頭を膝の上に乗せた。綺麗な死に顔だった。守り切った。世界を、人類を守り切った。《世界》の干渉はない。彼は、まさしく世界を救ったのだ。
「…………はは」
彼の死を目の前にして、ようやく気付くとは。「
「エルソル……」
確かこのようなことが前にもあったはずだ。その時も勇者だった。エルソルという名前ではなく、別の呼び名。エルフの大地へきては我々に支援を求めて来たな。
たしかその時は一人で魔王を打倒していたな。エルフの力を用いて、世界を、人類を救っていたはずだ。
「忘れていた。こんな大切なことをこんな簡単に」
《世界》の干渉のせいだ。誰もエルソルの以前を知らない。かくいう私もまた、お前の死に顔を見て、この結末を見て、ようやく思い出した。私はお前の旅にいつも同行していた。それも毎回毎回お前の無謀さに呆れ、そして結局は手を貸していた。そのせいでお前は傷つき、それでいて成長していたはずだ。
「お前はまた死ぬのだな。魔王を斃し、その役目を終えた途端にいつもいつもそうやって満足そうに死んでいくのだな……」
ほんの数週間の濃厚な旅であったにもかかわらず、《世界》の干渉によってすでに記憶が薄れ始めている。
また百年後か、千年後か――誰にも気づかれることなく、また同じことが繰り返される。そしてまたお前は魔王と戦うのだろう。自分の役割に沿った勇者を繰り返して、人間と、亜人と、そして魔族が続いていくのだろう。
「嫌だなあ。そんなの嫌だ。私はずっとずっとずっと、お前に会ったときから、お前と出会う前からずっとお前のことが好きだったんだ。大好きだったのだ。いつもお前と一緒に旅をしていたのは、お前の隣に立つことが、一緒にいることが私にとっての役割だったとしても、私はお前のことを愛している」
記憶が薄れ、エルソルの顔を、エルソルと認識できないほどにまで薄れていき、何時この目の前の少年を、誰とも知れない人間だと決めつけてエルフの大地に戻るのだ。
そうしてまた私は、お前が来るのを待っていて、だが今回はもう――。
もう時間が無い。
もう時間が無い。
あと一分、あと十数秒――その猶予はどれだけ残されているかは解らない。けれど、絶対に、今回は絶対に。この記憶を、忘れてなるものか。
《警告――お前がしようとしていることは世界の理に反することである。それ以上の事象を引き起こそうものなら相当の罰を暗いことになるぞ》
声が聞こえた。
それも頭に直接聞えるように語りかけてくるもの。
精霊王。私の師匠であり、私の親代わりでもあった、私の――。
「ああ、いいんだ。私は私のためにこれをやる。私は私として、彼を、この少年を救いたいのだ」
《馬鹿馬鹿しい――お前は精霊王になるのだぞ。この世界を収める精霊の王としてこの世に存在し続けられる瞬間が、あと九十九年と少しで訪れるというのに、その人間の為に自分の未来を棒に振るというのか》
「ごめんなさい、お義父さん。この人は人々のために何度も何度もこの世界を救ってきた。けれど彼は一度も救われていない。彼は勇者として、人間としていつもその役割を全うしてきたが、いつもいつもこうして命を落としている。私はそれが歯がゆくて仕方がない」
《それがどうした――彼は彼の運命を全うしている。お前も自分の運命を全うするのだ》
「ならない。私は過去にこの人から告げられている。好きだと、愛していると。けれど、私は拒絶した。怖かったからだ。今でも後悔している」
《お前が精霊王になったとき――この者を支援すればいいだけだ。早まるな》
「そうなればもう彼とは結ばれない。終わってしまうのだ」
そう言って、私は自身の胸を貫いて、エルフの魔石を取り出した。《世界》から干渉を受けるが、それが途中で止まる。
《我が娘ながら――何とも肝の座った解答なことだ》
「お義父さんこそ、こんなことしてタダで済むとは思えなけど」
《娘のお前が――命を懸けると言っているのだ。親として手助けするのは当然だろう》
「お義父さんは頑固ね」
《――お前には負けるさ》
そう言って笑い合った。
魔石を、エルフの命を、《世界》の理を否定して、私は彼に命を注ぎ込んだ。私の残りの人生を、この先の人生を全て譲り渡すつもりで、私は彼に私の全てを注ぎ込んだ。傷ついた胸の傷が言えていき、彼の中に魔力が灯っていく。
代わりに私の中からみるみる魔力が消費されていき、いや生命力そのものが無くなっていき、エルフとしての、生物としての役割が、生が失われていく。
――ああ、これが死。
たしかにこんなにも絶望的で、こんなにも悲しい、無慈悲な感覚になるのは恐ろしい。
身体が朽ちていく。崩れ落ちていく。
私の身体だったものが、まるで土くれになっていく。
私の身体が、もう私のものではなく、誰のものでもない《世界》のものに。
ああ、これでようやく彼を救える。この誰かを、愛していたはずの誰かを。
「私、行くならお義父さんと同じところに行きたいわね」
《――私もだ、シエルーー》
お義父さんの言葉が途中で掻き消えた。精霊王としての格が消え、私との繋がりが消えたお義父さんを、私はもう捉えることができない。もうお義父さんに会えないかもしれない。永久に出会えないかもしれない。
もしかしたら、この人にも会えないのかもしれない。
「ねえ人間」
名前も知らない誰かを、けれどどうしてか魔石を失った胸の奥で熱く燃え上がるこの感覚を、この人間に抱いてしまうのは何故か解らないけれど、私はこの人間を誰よりも。
「私、またあなたとどこかで出会えるのかしら」
頭ではそうはならないことを解っているけれど、それでも私は、熱くなる目元から流れる涙を抑えることが出来なかった。
「誰かも知らない誰かを、助けるために何でこんなことをしているのか解らないけれど、でも私、貴女に出会えてよかった。出来ることなら、死んでもまたあなたに逢いたいわ」
身体が崩れ落ち、私はこの人間にもたれるように倒れ込んでしまった。もう体の言うことは聞かない。文字通り指一本動かせない。
それでも私は今、彼の胸の中でこうして、彼の心臓の音を耳にしている。私が望んだ、彼の人生の続きを、こうして聞けている。私は今、初めて心の底から満たされている。
「ああ、せっかくなら、貴方と一緒にこの世界を見て回って、おじいちゃんになったあなたとバカ話をして花を咲かせて、一緒にまたどこかに行こうねって、それで……それで……」
瞼が重い。人間の心臓の鼓動もよく聞き取れない。もっと聞いていたい。安心するこの音を、私はもっと……。
「お休みなさい……人間の誰かさん」
首元まで来ていた瓦解が頭にまで来て、私の意識を何処かへと連れ去った。もう誰の声も聞こえない。誰のことも、想い、出せ……無い。




