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宵待保育園  作者: もちむぎ


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第九章 お父さんみたい

第九章 お父さんみたい


 七夜目。


 子泣き爺の子は、母親の膝に座ったまま保育室の入口にいた。


 靴は自分で脱いだ。


 玄関から保育室までの廊下も、母親に抱かれず、自分の足で歩いた。


 ただし、保育室の中へは入らない。


「小吉」


 母親が声をかける。


 子どもには、小吉という名前があった。


「ここで見るだけでもいいんだよ」


「帰る」


「まだ来たばかりでしょう」


「もう帰る」


 小吉は母親の服を両手でつかんだ。


 泣いてはいない。


 身体も重くなっていない。


 それでも、保育室へ入る気はないらしい。


 悠斗は小吉の前へしゃがんだ。


「今日は保育室の入口まで来たのか」


「お母さんが行けって言ったから」


「自分で歩いたんだろ」


「歩けるもん」


「じゃあ、昨日より先まで来たな」


「明日は来ない」


「それは明日決めろ」


「もう決めた」


「明日のことを今決めるな。この園には、明日のことを言うと危ないやつがいるんだ」


 保育室の中で、ことが顔を上げた。


「あしたはぁ――」


 悠斗は振り返り、すぐにその口を塞いだ。


「呼んでない」


「んむぅ」


 小吉が、初めて少しだけ笑った。


「その子、牛なの?」


「件だ」


「くだん?」


「未来を言おうとする牛」


「牛なのに、人の顔」


「お前も子どもだけど、爺さんの顔だろ」


 小吉の笑顔が消えた。


 母親の服をつかむ手に力が入る。


 悠斗は、自分が何を言ったのか気づいた。


「あ」


「帰る!」


 小吉の目から涙があふれた。


「小吉、先生は悪い意味で言ったんじゃ――」


「みんな同じこと言う! 悪い意味じゃないって言って、僕の顔を見る!」


 小吉が泣き始める。


 小さな身体が一気に重くなり、母親の膝が床へ沈んだ。


「ちょっと待て。今のは俺が悪かった」


「帰る! ここ嫌い!」


 悠斗は小吉へ手を伸ばしかけ、やめた。


 無理に母親から離せば、さらに重くなる。


「分かった。帰っていい」


「黒川さん」


 夜久園長が止めようとする。


「今日は帰っていい。でも、その前に一つだけ教えてくれ」


 小吉は泣いたまま、悠斗を睨んだ。


「皆んな同じこと言うって、誰になんて言われたんだ?」


「言わない」


「そいつを怒るためじゃない。何があったのか知らないと、どうにもできない」


「何もできないもん」


「そうかもしれない。でも、知らないままよりはましだ」


 小吉は答えなかった。


 その視線が、保育室の奥へ向く。


 積み木で遊んでいた大河と目が合った。


 大河が身体を固くした。


「大河なのか?」


 悠斗が尋ねる。


 小吉は母親の胸へ顔を押しつけた。


「あの子が言った」


「何を?」


「お父さんみたいって」


 大河がうつむく。


「みんなも笑った。僕は子どもなのに。爺さんの顔だから、お父さんみたいって」


 保育室が静かになる。


 久太郎も、こはくも、いわおも、何も言わなかった。


 笑ったことを覚えているのかもしれない。


「大河」


 悠斗が呼ぶ。


 大河は小さな声で答えた。


「はい」


「お前、小吉に『お父さんみたい』って言ったのか?」


「言いました」


「どうして?」


 大河は何度も口を開こうとした。


 けれど、声が出ない。


 悠斗は急かさずに待った。


「……髭があったから」


 ようやく聞こえた声は、かすかに震えていた。


「俺の父さんにも、髭があるから」


「それで笑ったのか?」


「笑ってない」


「ほかの子は笑ったぞ」


「みんな、俺のお父さんを知ってるから」


 大河は小吉を見た。


「俺のお父さん、大きくて、強くて、髭がある。小吉くんも髭があったから、お父さんみたいで格好いいって思った」


 小吉が、母親の胸から少しだけ顔を上げる。


「格好いい?」


「うん」


「爺さんみたいって、笑ったんじゃないの?」


「違う」


 大河は自分の顎へ触れた。


「俺も、早く髭が生えたらいいなって思った」


「でも、みんな笑った」


 久太郎がおそるおそる手を上げる。


「大河くんのお父さんに似てるって思ったから」


 こはくもうなずいた。


「大河くんのお父さん、すごく大きいの。玄関に入ると、いっぱいになるから」


「声も大きい」


 めめが赤い眼鏡をかけたまま言った。


「顔は見えないけど、声ですぐ分かる」


「笑ったことは同じだろ」


 悠斗が言うと、子どもたちは黙った。


「悪口を言うつもりじゃなかった。それは分かった」


 悠斗は小吉を見る。


「でも、小吉は嫌だった。違うか?」


 小吉は小さくうなずいた。


「だったら、嫌だったことまで勘違いにはならない」


「でも、悪口じゃなかったんでしょう?」


「悪口じゃなければ、何を言っても傷つかないわけじゃない」


 悠斗は大河へ顔を向けた。


「大河も、格好いいと思ったなら、そこまで言わないと伝わらない」


「はい」


「『お父さんみたい』だけじゃ、小吉には別の意味に聞こえた」


 大河は保育室の入口まで歩いてきた。


 小吉の前で足を止める。


「嫌な気持ちにさせて、ごめんなさい」


 いつもの小さな声だった。


 それでも、小吉には届いていた。


「俺、小吉くんの髭、格好いいと思った。でも、もうお父さんみたいって言わない」


 小吉は自分の白い髭へ触れた。


「これ、格好いい?」


「うん」


「爺さんみたいじゃない?」


「小吉くんみたい」


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 小吉の涙が止まる。


 身体の重さも、少しずつ元へ戻っていった。


     ◇


「じゃあ、今日は帰ります」


 母親が小吉を抱き直す。


 小吉は保育室の中を見た。


 床には、途中まで作られた積み木の家がある。


「それ、小さい」


 小吉が言った。


 久太郎が積み木を抱えたまま振り返る。


「大きいよ」


「屋根が低い」


「これ以上高くしたら、倒れるもん」


「柱を二本にしたら倒れない」


「本当に?」


「僕、大きい家を作れる」


「じゃあ作って」


 小吉は母親の服をつかんだ。


 保育室を見る。


 母親を見る。


 もう一度、積み木を見る。


「……お母さんも一緒なら」


「もちろん」


 母親は小吉を抱いたまま、保育室へ入った。


 小吉は母親の膝から降りない。


 それでも久太郎へ向かって、積み木を置く場所を指示し始めた。


「そこじゃないよ。こっち」


「どっち?」


「右」


「こっち?」


「反対!」


 めめが赤い眼鏡をかけ、積み木を一つ持ち上げる。


「これは四角」


「それを柱にする」


「何色?」


「茶色」


「茶色……」


 めめは眼鏡の奥で目を細めた。


「暗い色なのは分かる」


「じゃあ、それでいい」


 こはくも積み木を運び始める。


 大河は小吉から少し離れた場所に座り、黙って家ができるのを見ていた。


 小吉が大河へ声をかける。


「そこの長いの取って」


「俺?」


「ほかに誰がいるの?」


 大河は長い積み木を取り、小吉へ渡した。


「これ?」


「うん」


 それだけだった。


 仲直りしたわけではない。


 友達になったわけでもない。


 ただ、同じ家を一緒に作り始めた。


     ◇


 約束の十分が過ぎた。


 母親が立ち上がろうとすると、小吉はすぐに服をつかんだ。


「どこ行くの?」


「玄関の外で待ってみようかな」


「駄目」


「十分だけ」


「嫌だ」


 身体が少し重くなる。


 悠斗は時計を見た。


「無理なら、今日はやめればいい」


 小吉が悠斗を見る。


「やらなくていいの?」


「自分で決めろ」


「……門の外?」


「園からはいなくならない」


「十分で戻る?」


 母親がうなずく。


「うん、絶対戻る」


 小吉は母親の服から、ゆっくりと手を離した。


「五分」


「分かった。五分にしよう」


「四分」


「また値切るのか」


「四分なら待てる」


 母親は保育室を出た。


 小吉の身体が固くなる。


 泣きそうな顔で、扉を見つめている。


「家の続きは?」


 悠斗が尋ねた。


「お母さんが戻ってきてから」


「戻ってきたら、今日は帰るんだろ。今やらなきゃ、もう作れないぞ」


 小吉は扉を見つめたまま動かない。


 それから迷うように、途中までできた積み木の家へ目を向けた。


 小吉は迷ったあと、積み木を一つ手に取った。


「久太郎。柱、もう一本」


「うん!」


 四分後。


 母親が保育室へ戻ってきた。


 小吉は泣いていなかった。


 母親の姿を見た途端に立ち上がり、抱きついたが、身体は重くならなかった。


「待てたね」


 母親が言う。


 小吉は返事をせず、母親の胸へ顔を隠した。


 その手には、積み木が一つ握られていた。


     ◇


 園児たちが眠ったあと、悠斗はその夜の記録を書いた。


 久太郎。両足を水へ十五秒。


 めめ。眼鏡を二十分装着。暗い色を判別。


 大河。小吉へ、自分の言葉で謝った。


 こはく。片方の耳が三秒だけ消えた。


 いわお。笛が鳴る前に赤い印へ移動。


 小吉。母親と離れて四分間、保育室で過ごした。


 こと。「ん」と発言。予言には至らず。


 悠斗は鉛筆を置いた。


 今日も全員、生きている。


 連勝記録は、七になった。

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