第八章 壁になっていい場所
第八章 壁になっていい場所
六夜目。
子泣き爺の子は、母親と一緒に玄関へ座っていた。
靴は下駄箱に入っている。
母親の膝からは降りていないが、今日は園舎の中で五分過ごす約束らしい。
悠斗が横を通ると、子どもは壁の時計を指した。
「あと三分」
「昨日は玄関まで来ただけだろ。今日は三分も中にいるじゃないか」
「五分いる」
「じゃあ、あと三分で合ってる」
子どもは何度も時計を見る。
保育室からは、久太郎たちの笑い声が聞こえていた。
「今日は何してるの?」
「積み木」
「僕はしない」
「誰もやれとは言ってない」
「積み木、好きじゃない」
「そうか」
「大きい家なら作れるけど」
「好きなんじゃないか」
子どもは黙った。
やがて約束の五分が過ぎ、母親と一緒に帰っていった。
保育室へは入らなかった。
それでも帰り際、一度だけ中を覗いた。
◇
保育室では、大きな積み木の家が完成しかけていた。
久太郎が壁を積み、こはくが屋根を作っている。
赤い眼鏡をかけためめは、二人へ積み木を手渡す係だった。
「赤いの」
久太郎が言う。
めめは箱の中へ顔を近づける。
「これ?」
「それは青」
「じゃあ、こっち」
「黄色」
「全部同じに見える」
「昨日より形は見えてるだろ」
悠斗が言うと、めめは積み木を持ち上げた。
「四角」
「正解」
「でも、赤くない」
「色はまた今度だ」
少し離れた場所で、大河が小さな声で歌を歌っている。
昨日より、ほんの少しだけ聞こえた。
こはくは時々、悠斗の姿へ変化して積み木を運んだ。耳と二本の尻尾は残っている。
ことは丸い積み木を鼻先で転がし、家とは反対方向へ運んでいた。
「こと、それはこっち」
「おさんぽしてるぅ」
「積み木は散歩しない」
「いきたいってぇ」
「昨日も聞いた、その話」
いわおは、積み木の家のそばへ座っていた。
四角い身体を小さく縮め、ほかの子が作る様子を黙って見ている。
「いわおくんも作ろうよ」
久太郎が積み木を差し出した。
「ぼくはいい」
「どうして?」
「壊しちゃうから」
「壊さないよ」
「驚いたら、大きくなるから」
「驚かなければいいじゃん」
久太郎がそう言った直後、大河がくしゃみをした。
「……くしゅん」
小さな火の粉が飛ぶ。
いわおの身体がびくりと震えた。
「あ」
四角い身体が、一気に横へ広がる。
積み上げた家を押し倒し、そのまま保育室の中央を塞いだ。
積み木が大きな音を立てて崩れる。
「僕の家!」
久太郎が叫んだ。
「ごめんなさい」
「もう少しで完成だったのに!」
「ごめんなさい」
「いわおくん、邪魔!」
久太郎に悪気はなかった。
倒れた積み木を見て、思ったことをそのまま口にしただけだった。
しかし、いわおの身体はさらに大きくなった。
天井近くまで伸び、保育室を完全に二つへ分ける。
「久太郎」
悠斗が呼ぶ。
「何?」
「今の言い方は良くない」
「だって、家が壊れた」
「壊したくて壊したわけじゃないだろ」
「でも壊れたもん」
「それと、いわおが邪魔かどうかは別の話だ」
壁の向こうから、小さな声がした。
「ぼく、邪魔だよ」
悠斗はいわおの前へ立つ。
「勝手に決めるな」
「いつも道を塞ぐ」
「驚くと壁になるんだから、仕方ないだろ」
「みんな通れなくなる」
「だったら、通れなくならない場所で壁になればいい」
保育室が静かになる。
「そんな場所、あるの?」
「今から探す」
◇
悠斗は紙へ、園内の見取り図を描いた。
保育室。
玄関。
廊下。
調理室。
寝室。
園庭へ続く扉。
夜久園長が、後ろから紙を覗き込む。
「上手ですね」
「ゲームで地図を描くことがあるので」
「ここは調理室ではなく、倉庫です」
「鍋がありましたけど」
「鍋をしまってある倉庫です」
「じゃあ、調理室は?」
「こちらです」
「先に言ってください」
「聞かれませんでしたから」
悠斗は地図を書き直した。
「いわお。壁になる前に、何か分かることはないのか?」
「分かること?」
「急に全部固くなるのか?」
元の大きさへ戻ったいわおは、地図の横に座っている。
「最初に、足が重くなる」
「それから?」
「お腹が固くなって、大きくなる」
「足が重くなってから、壁になるまでどれくらいだ?」
「少し」
「少しじゃ分からない」
「一、二、三くらい」
「三秒か」
悠斗は保育室の壁際に、三か所の丸を描いた。
一つは窓の横。
一つは玩具棚の前。
もう一つは、園庭へ出る扉から離れた隅。
「足が重くなったら、このどれかへ行け」
「どうして?」
「ここなら大きくなっても、出入口を塞がない」
「壁になってもいいの?」
「なるものは仕方ないだろ。その代わり、なる場所を選べ」
悠斗は実際の保育室にも、赤い布を小さく切って貼った。
「この印があるところが、壁になっていい場所」
いわおは赤い印の上へ立った。
「ここ?」
「そう」
「大きくなっても、怒らない?」
「通路を塞がなければ怒らない」
「驚いて間に合わなかったら?」
「そのときは次に間に合わせろ」
いわおは床の赤い印を見つめた。
「ぼく、ここなら邪魔じゃない?」
「壁は場所を間違えれば邪魔だけど、必要な場所にあれば役に立つ」
「役に立つ?」
「風も、火も、飛んでくるものも止められるだろ」
いわおは、自分の四角い身体を見下ろした。
悠斗は攻略情報の紙へ書き足す。
いわお。ぬりかべ。
壁になる前に足が重くなる。
赤い印へ移動。
◇
「せっかくなので、避難訓練をしてみましょう」
夜久園長が言った。
「今から?」
「何か起きてからでは遅いでしょう」
「この保育園の場合、何か起きない日の方が少ないですけど」
「だからこそです」
避難先は園庭。
夜久園長が笛を鳴らしたら、全員が保育室から出る。
それだけの訓練だった。
「簡単ですね」
悠斗が言う。
「そうですね」
夜久園長が笛を口へくわえた。
「では、始めます」
甲高い音が保育室へ響いた。
いわおが驚いた。
「あ」
身体が一気に広がり、園庭へ続く扉を塞いだ。
「そこは赤い印じゃない!」
「急だったから!」
「訓練なんだから急に決まってるだろ!」
久太郎が反対側の廊下へ走っていく。
「どこへ行く!」
「きゅうり忘れた!」
「きゅうりは避難させなくていい!」
「乾いたら困る!」
「お前の皿じゃないだろ!」
めめは眼鏡を外し、丁寧にケースへしまおうとしていた。
「今はしまわなくていい!」
「踏まれたら壊れるもん!」
「かけたまま逃げろ!」
大河は何かを言っているが、笛の音と騒ぎに消されて聞こえない。
「大河、もっと聞こえるように!」
「ことちゃんが!」
大河が、少しだけ声を大きくした。
悠斗が振り返る。
ことが、保育室の真ん中で遠い目をしていた。
「あしたはぁ――」
「今やるな!」
悠斗は積み木を飛び越え、ことのところまで走った。
続きを言う直前で口を塞ぐ。
「んむぅ」
その横では、こはくが白い煙に包まれていた。
煙が消えると、悠斗の姿が二人になっている。
「どうして今、俺に化けた!」
「びっくりしたから!」
「元へ戻れ!」
「戻れない!」
「耳と尻尾がある方がこはくだ! 間違えるな!」
「誰に言ってるの?」
「全員だ!」
避難訓練開始から三分。
園庭へ避難できた者は、一人もいなかった。
◇
訓練が終わったあと、全員が保育室の床へ座った。
いわおは元の大きさへ戻り、しょんぼりとうつむいている。
「ごめんなさい」
「謝るのはあとだ」
悠斗は、園内の地図を広げた。
「まず、失敗したところを確認する」
「失敗ばっかりだった」
久太郎が言う。
「だから確認するんだろ」
悠斗は地図へ順番に書き込んでいく。
いわお。笛で驚く。訓練前に赤い印へ移動させる。
久太郎。きゅうりを取りに戻る。持ち物は先にまとめる。
めめ。眼鏡ケースは持ち出し袋へ入れる。
大河。騒音の中では声が届かない。練習が必要。
こはく。驚くと変化する。耳と尻尾で見分ける。
こと。避難前に最優先で位置を確認する。
「先生は?」
こはくが尋ねる。
「俺?」
「ことちゃんの口を塞いで、避難するの忘れてた」
「……ことを生存させる方が先だろ」
「先生も失敗?」
悠斗は少し迷ったあと、紙へ書き足した。
悠斗。ことだけを見て、ほかを見失う。
「これでいいか?」
「うん」
「次は、今日よりましにする」
「またやるの?」
久太郎が嫌そうな顔をする。
「当たり前だ。今日のままだったら、何か起きたとき全滅だぞ」
「きゅうりは?」
「置いていけ」
「嫌だ」
「最初に持っておけ!」
いわおが、地図に描かれた赤い丸を指す。
「次は、ここに行けばいい?」
「足が重くなったらな」
「間に合わなかったら?」
「その次に間に合わせろ」
「その次も駄目だったら?」
「できるまでやる」
いわおは、赤い印へ移動した。
自分からその上へ立つ。
「もう一回、笛を鳴らして」
「今日はやめておけ」
「やってみたい」
夜久園長が、悠斗を見る。
悠斗はことを抱き上げ、自分の腕の中へ収めた。
「一回だけです」
「分かりました」
夜久園長が、もう一度笛を鳴らす。
いわおの足が重くなる。
一秒。
二秒。
三秒。
赤い印の上で、その身体が大きな壁へ変わった。
出入口は塞がれていない。
「できた」
壁になったいわおの声が、低く響く。
「今回はな」
悠斗は地図の赤い丸へ、一つだけ丸印をつけた。
「次もできたら、二回成功だ」
いわおは壁のまま、少しだけ胸を張ったように見えた。




