第七章 鬼なのに声が小さい
第七章 鬼なのに声が小さい
五夜目。
悠斗が宵待保育園へ着くと、玄関に子泣き爺の親子がいた。
今日は、子どもの両足から靴が脱げている。
母親に抱かれたままだが、玄関の内側へ入ることもできていた。
「帰る」
「うん。時計の長い針が、ここまで来たら帰ろうね」
母親が壁の時計を指す。
約束の時間は五分後だった。
子どもは母親の首へしがみつきながら、何度も時計を見ている。泣いてはいない。その代わり、全身へ強く力を入れていた。
「今日は中にいるんだな」
悠斗が言うと、子どもは顔を伏せた。
「帰るもん」
「五分後にな」
「三分後」
「母親と五分って決めただろ」
「四分」
「値切るな」
母親が小さく笑った。
子どもは笑わなかったが、身体はそれ以上重くならなかった。
悠斗が保育室へ向かおうとしたとき、玄関の戸が勢いよく開いた。
「こんばんは!」
園舎全体が揺れたような大声だった。
戸口に、二本の太い角を生やした赤鬼が立っている。肩幅は玄関の半分ほどもあり、仕事着らしいつなぎを着ていた。
その後ろから、大河が小さく顔を出す。
「こんばんは……」
「大河!」
赤鬼の声が再び玄関へ響く。
「挨拶は腹から声を出せ!」
大河の肩が跳ねた。
「……こんばんは」
「聞こえん!」
「こんばんは」
「もっと大きく! 鬼だろう!」
大河はうつむいた。
身体は父親に似て大きく、角も立派に生えている。それなのに、口から出る声は最初よりも小さくなっていた。
「すみません、先生。この子は何度言っても声が小さくて」
赤鬼は困ったように頭をかいた。
「俺たちの仕事場は、重い機械も車も動くんです。危ないときに声が出せなきゃ、命に関わる。今のうちに腹から声を出せるようになってほしいんですが」
「まだ子どもでしょう」
悠斗が言う。
赤鬼は悠斗を見下ろした。
「新しい先生ですか?」
「今日だけの手伝いです」
「五日いる」
玄関にいた子泣き爺の子が、小さな声で言った。
「数えるな」
「五日もいれば、もう先生ですよ!」
赤鬼は豪快に笑い、悠斗の肩を叩いた。
一度叩かれただけで、膝が折れそうになる。
「大河をよろしくお願いします! 鬼らしい声が出るまで、厳しく鍛えてやってください!」
「俺に頼まれても――」
「それでは!」
赤鬼は大きく手を振り、夜の仕事へ向かっていった。
玄関が静かになる。
大河は、父親の背中が見えなくなるまで俯いていた。
「父親の方は、少し声を小さくした方がいいな」
悠斗が肩をさすりながら言う。
大河の口元が、ほんの少し緩んだ。
◇
その夜、保育室では輪になって歌を歌うことになった。
夜久園長が小さな鍵盤楽器を弾き、子どもたちが声を合わせる。
久太郎は音程を気にせず歌い、こはくは隣の子の声を真似する。
めめは赤い眼鏡をかけていた。
歌詞を書いた大きな紙はまだ読めない。それでも、昨日より少し長く眼鏡をかけていられるようになっている。
いわおは歌うたび、身体全体が低く振動した。
ことは牛の身体を床へ伏せ、半分眠りながら口だけを動かしている。
大河の声は、聞こえなかった。
「歌ってるのか?」
悠斗が尋ねる。
大河はうなずいた。
「聞こえない」
「歌ってます」
「口が動いてるだけに見える」
「歌ってます」
悠斗は大河のすぐ横へ耳を近づけた。
かすかな息の音に混じって、ようやく歌声が聞こえる。
「本当に歌ってた」
「だから言ったでしょう」
「それだけ近づかないと聞こえないなら、歌ってないのと同じだ」
大河の口が閉じた。
夜久園長が演奏を止める。
「黒川さん」
「何ですか」
「言い方を考えてください」
「事実でしょう」
「もう歌いません」
大河は輪から離れ、部屋の隅へ行ってしまった。
「ほら」
夜久園長に睨まれ、悠斗は顔をそらした。
「俺のせいですか?」
「ほかに誰がいるんですか」
「父親に大声を出せと言われたときから、落ち込んでました」
「そこへ黒川さんが追い打ちをかけました」
「……話してくればいいんでしょう」
悠斗は立ち上がった。
◇
大河は、玩具棚と壁の間に身体を押し込んでいた。
大きな身体を小さく丸め、膝へ顔を埋めている。
「そこ、狭いだろ」
返事はない。
「角が棚に当たってるぞ」
「……放っておいて」
「園長先生が話してこいって」
「先生は、言われないと来ないの?」
「来ない」
「正直だね」
「嘘をついても仕方ないだろ」
悠斗は大河の前へ座った。
「大きな声、出せないのか?」
「出せます」
「じゃあ出してみろ」
「嫌です」
「出せないんじゃないか」
「出せるけど、出したくないんです」
「どうして?」
大河は黙った。
悠斗は急かさずに待った。
しばらくして、大河が顔を上げる。
「前に、大きな声を出したら、みんなが泣いたから」
「誰が?」
「小さい子たち」
大河は自分の喉へ手を当てた。
「鬼の声は、大きいから。窓も揺れた。ことちゃんも驚いて、ずっと震えてた」
「それから声を出さなくなったのか」
「大きな声は怖いんです」
「お前が怖い?」
「みんなが、僕を怖がるのが怖い」
父親は、大河の声が小さいことを心配している。
危険なときに声を出せなければ、命に関わる。
その心配も間違いではない。
けれど大河は大河で、自分の声が誰かを怖がらせることを知っていた。
「じゃあ、普段は小さいままでいいんじゃないか」
大河が悠斗を見る。
「でも、お父さんが」
「父親は大きな声が好きなんだろ。お前まで同じになる必要はない」
「鬼なのに?」
「鬼は全員、同じ声じゃないと駄目なのか?」
「分からない」
「俺も分からない。だから、好きにすればいい」
「練習しなくていい?」
「普段の声はな」
悠斗は紙と鉛筆を持ってきた。
大河の前へ三つの言葉を書く。
――助けて。
――危ない。
――ここにいる。
「これは、聞こえるように言えた方がいい」
「三つだけ?」
「まずは三つ。必要になったとき、誰かに届けばいい」
「歌は?」
「歌は好きな大きさで歌え」
「挨拶は?」
「相手に聞こえればいい」
「鬼らしい声は?」
「知らない。鬼に聞け」
「僕も鬼です」
「じゃあ、自分で決めろ」
大河は紙を見つめた。
「どうやって練習するの?」
「誰にも見られない場所でやる」
◇
悠斗は大きな段ボール箱を二つつなぎ、簡単な小屋を作った。
入口へ毛布をかけ、中が見えないようにする。
「何これ?」
久太郎が覗き込んだ。
「大河の砦」
「僕も入る」
「駄目だ」
「どうして?」
「一人用だから」
「ことちゃんは?」
「牛の身体が入らない」
「いわおくんは?」
「小屋ごと壊れる」
いわおが悲しそうに壁へ寄った。
「悪い意味じゃない」
「分かってる」
大河が段ボールの中へ入る。
悠斗は入口の毛布を閉じた。
「誰も見てないぞ」
「先生は?」
「外にいる」
「聞いてる?」
「聞いてる」
「見てないだけ?」
「そうだ」
暗い段ボールの中から、小さな声がする。
「……助けて」
「聞こえない」
「助けて」
「まだ小さい」
「助けて」
少しだけ声が大きくなる。
久太郎が近づこうとしたため、悠斗は頭の皿を押さえて止めた。
「今は見るな」
「聞こえるのに?」
「見られると出なくなる」
段ボールの中から、もう一度声がした。
「助けて」
今度は、少し離れた久太郎にも届いた。
「聞こえた」
久太郎が言う。
段ボールの中が静かになる。
「きゅうちゃん、いるの?」
「いるよ」
「聞こえた?」
「聞こえた」
毛布の隙間から、大河の顔が少しだけ出た。
「怖くなかった?」
「全然」
「本当に?」
「もっと大きくても平気」
「それは今日はやらなくていい」
悠斗が言うと、大河は安心したように毛布の中へ戻った。
次は「危ない」。
その次は「ここにいる」。
どれも保育室の端まで届くような声ではない。
それでも、段ボールのすぐ外にいる悠斗と久太郎には聞こえた。
◇
水遊びの時間。
久太郎は池の縁へ座り、両足を水へ入れていた。
まだ泳げない。
足が水へ入っている間も、両手は池の縁を強くつかんでいる。
「今日は十秒」
久太郎が言う。
「自分で数えろ」
「先生が数えて」
「自分の練習だろ」
「一人だと速く数えちゃうもん」
「仕方ないな」
悠斗が数え始める。
「一、二、三――」
池の反対側で、こはくが悠斗の姿へ変化した。
まだ狐の耳と二本の尻尾が残っている。
眼鏡をかけためめが、その姿を見つめていた。
「先生が、二人いる」
悠斗が数えるのを止めた。
「見えるのか?」
「顔は分からない。でも、同じ色の人が二人いる」
「昨日より増えたな」
「うん」
「先生、止まってる!」
久太郎が叫ぶ。
「ああ、悪い。四、五――」
そのとき、ことが池の縁へ鼻先を近づけた。
水面へ映った月を見ようとして、前脚を滑らせる。
身体が前へ傾いた。
段ボールの小屋から、大河が顔を出した。
「危ない!」
保育室で練習していたときより、少しだけ大きな声だった。
悠斗が振り返り、ことの身体を抱き止める。
「何をしてるんだ!」
「おつきさま、いたぁ」
「月は空にいる!」
ことは悠斗に抱えられたまま、のんびりと水面を見ている。
大河は、自分の口を両手で押さえていた。
久太郎が振り返る。
「今の、大河くん?」
大河はうなずく。
「ちゃんと聞こえた」
めめも赤い眼鏡の奥で、百個の目を大河のいる方向へ向けた。
「めめにも聞こえた」
誰も泣いていない。
誰も大河を怖がっていない。
大河は、ゆっくりと口から手を離した。
「……よかった」
その声は、いつもの小さな声へ戻っていた。
悠斗はことを池から離し、攻略情報の紙を取り出す。
大河。鬼。普段の声は小さい。
必要なときは、少し届く。
そう書き足した。
大声が出せるようになったわけではない。
鬼らしくなったわけでもない。
ただ、大切な一言を一度だけ、必要な相手へ届けることができた。




