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宵待保育園  作者: もちむぎ


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第六章 尻尾の生えた先生

第六章 尻尾の生えた先生


 四夜目。


 子泣き爺の子は、母親に抱かれたまま玄関まで来た。


 泣いてはいるが、昨日より声は小さい。


「今日は、靴を脱ぐところまでにしようか」


 母親が声をかけると、子どもは首を横に振った。


「帰る」


「靴を脱いだら帰っていいよ」


「本当に?」


「本当」


 母親が膝をつき、子どもの靴へ手をかける。


 子どもの身体が少しずつ重くなり、母親の腕が震え始めた。


 悠斗は下駄箱の前へ座り込んだ。


「自分で脱げるだろ」


「無理」


「昨日は玄関まで自分で来た」


「お母さんが抱っこした」


「じゃあ、今日は靴だけ自分で脱げ」


「嫌だ」


「右と左、どっちから脱ぐ?」


「脱がない!」


「右だな」


「どうして!」


「早く帰りたいなら、早く脱げ」


 子どもは悠斗を睨んだ。


 深い皺のある顔で睨まれると、かなり迫力がある。


 それでも身体は母親の腕に収まるほど小さい。


「……左」


「何?」


「左から脱ぐ」


「最初からそう言えばいいだろ」


 子どもは母親の首から片腕を離した。


 自分の左足へ手を伸ばし、靴を脱ぐ。


 それから右の靴も脱いだ。


「脱いだ」


「じゃあ、今日の分は終わり」


「中へ入らなくていい?」


「約束は靴までだろ」


 母親が、ほっと息を吐いた。


「ありがとうございます」


「俺は何もしてません」


 子どもはすぐに靴を履き直した。


 結局、園舎へは入らない。


 母親も仕事には行けない。


 それでも、自分の手で靴を脱ぐことはできた。


 帰っていく二人を、悠斗は下駄箱の前から見送った。


「先生」


 保育室から久太郎が顔を出した。


「あの子、明日は中に入れるかな」


「知らない」


「入れたら、一緒に遊べる?」


「本人が遊びたければな」


「僕、きゅうり分けてあげる」


「最初から食べ物で釣るな」


     ◇


 その夜、夜久園長は保育室の中央へ姿見を置いた。


「今日は、変化の練習をします」


「誰が?」


 悠斗が尋ねると、こはくが静かに顔をそらした。


 二本の尻尾が、身体の後ろへ隠れる。


「私はやらない」


「こはくちゃん」


「変化しなくても困らないもん」


「前は、練習したいと言っていたでしょう」


「もういいの」


 こはくは積み木を手に取り、夜久園長へ背を向けた。


 悠斗は紙に書いた攻略情報を見る。


 こはく。子狐。変化能力あり。


 今のところ、悠斗の姿へ化けたのを一度見ただけだ。


「化けられるのに、どうして練習するんですか?」


「耳と尻尾が消せないんです」


 夜久園長が小声で答える。


「それくらい、別にいいでしょう」


「人の暮らす場所へ出るときは、完全に隠せる必要があります」


「帽子と長い服で隠せばいい」


「本人は、きちんと変化できるようになりたいんです」


「やりたくないって言ってますけど」


「失敗するところを見られたくないのでしょう」


 こはくの耳が、ぴくりと動いた。


 聞こえているらしい。


「失敗するなら、やらない方がいいもん」


 こはくが言った。


「できないって思われるくらいなら、最初からやらない」


 悠斗は、こはくを見た。


 聞き覚えのある言葉だった。


 学校を卒業した直後は、悠斗も何社か求人を見た。


 応募資格、経験者優遇、明るく元気な方。


 面接で何を聞かれるのか考えただけで、応募画面を閉じた。


 落とされるくらいなら、最初から受けない方がいい。


 働いて続かなかったら、何もしないより格好が悪い。


 そうして後回しにしているうちに、六年が過ぎた。


「じゃあ、やらなくていいんじゃないか」


 悠斗が言うと、こはくが振り返った。


「いいの?」


「失敗したくないなら、何もしなければ失敗しない」


 夜久園長が悠斗を見る。


「黒川さん」


「その代わり、成功もしないけどな」


 こはくの二本の尻尾が、不満そうに床を叩いた。


「先生だって、何もしてなかったくせに」


「そうだな」


「ずっと失敗しなかった?」


「失敗してない」


「じゃあ、いいじゃない」


「良くはない。何もできるようになってないから」


 悠斗は、姿見の前へ座った。


「一回だけやってみろ」


「嫌」


「失敗したら、俺のせいにしていい」


「どうして?」


「俺がやれって言ったから」


「笑わない?」


「何に化けるかによる」


「笑うんじゃない!」


「じゃあ俺に化けろ。それなら笑っても、笑われるのは俺の顔だ」


 こはくは少し考えた。


 ゆっくりと立ち上がり、姿見の前へ移動する。


 目を閉じた。


 小さな身体の輪郭が、白い煙に包まれる。


 煙が消えたあと、そこには灰色のスウェットを着た悠斗が立っていた。


 伸びた黒い髪。


 眠そうな目。


 猫背気味の立ち姿。


 よく似ている。


 ただし、頭には狐の耳があり、尻から二本の尻尾が生えていた。


 悠斗は吹き出した。


「やっぱり笑った!」


「違う。俺が二人いるのが気持ち悪かっただけだ」


「耳と尻尾を見た!」


「そこより先に、自分の姿を外から見た衝撃の方が大きい。俺、こんなに姿勢が悪いのか?」


「もうやらない!」


 こはくは元の姿へ戻ろうとした。


「待て。顔はできてる」


「耳があるもん!」


「髪も服も、声もできてる」


「尻尾もある!」


「全部失敗したみたいに言うな。十個のうち八個できたなら、八割成功だろ」


「全部できなきゃ、変化できたって言わないもん」


「誰が決めたんだよ」


「お母さんは全部できる」


「お前の母親は大人だろ」


「小さいときから上手だったって」


「母親の話は、半分くらいに聞いておけ」


「どうして?」


「親は自分の昔話を少し格好よく話すからだ」


 夜久園長が口元を押さえた。


「何がおかしいんですか」


「いえ。深雪さんも、よく昔の話をするのかと思いまして」


「あの人は失敗した話まで武勇伝みたいに話します」


 こはくが、姿見の中の自分を見る。


 悠斗の顔に、狐の耳と二本の尻尾。


「八個は、できてる?」


「少なくとも、俺より俺らしい顔をしてる」


「それは褒めてる?」


「たぶん」


 こはくは耳を両手で押さえた。


 耳は消えない。


「どうしたら、なくなるの?」


「俺が知るわけないだろ」


「先生なのに?」


「今日だけの手伝いだ」


「四日いる」


「数えるな」


 悠斗は紙と鉛筆を取った。


 人の身体の絵を、簡単に描く。


 頭。


 顔。


 髪。


 声。


 服。


 手。


 足。


 耳。


 尻尾。


「一度に全部やろうとするから、何ができてないのか分からなくなる。今日は一つずつ確認する」


「また攻略情報?」


「文句があるなら自分で考えろ」


 こはくは、悠斗の姿のまま鏡へ向き直った。


 まずは髪。


 長さを少し変え、戻す。


 次は眉。


 太くしすぎて、悠斗よりずっと険しい顔になる。


「俺を怒らせたいのか?」


「先生、いつもこんな顔だよ」


「こんなに太くない!」


 鼻を大きくすると、大河が小さく笑った。


 口をへの字に曲げると、久太郎が言った。


「それ、先生に似てる」


「俺はそんな顔してない!」


「してる」


 眼鏡をかけためめも、ぼんやりと悠斗の方を見ながらうなずいた。


「顔は分からないけど、声が同じ」


「見えてないのに参加するな!」


 保育室に、狐耳の悠斗が何人もいるような声が響いた。


 こはくが変化を解き、また悠斗になる。


 今度は背が低すぎる。


 次は腕だけ狐の毛が残る。


 その次は、顔は悠斗なのに服がこはくのままだった。


 何度やっても、耳と尻尾は消えない。


 それでも、こはくは練習をやめなかった。


     ◇


「せんせぇ」


 保育室の端から、ことの声が聞こえた。


 悠斗は、こはくの変化を書き留めていた手を止める。


「あしたはぁ――」


 ことは少し離れた場所にいる。


 悠斗は立ち上がり、床に散らばった積み木を避けながら駆け寄った。


 続きを言う直前で、その口を塞ぐ。


「んむぅ」


「今日は遠いんだから、せめて近くで始めろ!」


 ことは眠そうな目で、ゆっくりとまばたきをした。


「予言する場所の問題じゃありません」


 夜久園長が言う。


「分かってますよ!」


 その声に驚いたいわおの身体が、少しだけ横へ広がった。


「大きくなるな! 今は通路を塞ぐな!」


「ごめんなさい」


 こはくが笑った。


 悠斗は、ことの口を塞いだまま振り返る。


「何がおかしいんだよ」


「先生、走るの速いね」


「こいつが死んだら、俺の初日からの勝利記録が途切れるだろ」


「四日目だよ」


「だから数えるな!」


     ◇


 夜が更ける頃、こはくは最後にもう一度だけ変化した。


 白い煙の中から、悠斗が現れる。


 顔も、髪も、服も、声も本物そっくりだった。


 頭には狐の耳がある。


 尻からは二本の尻尾が生えている。


 完璧ではない。


 それでも、こはくはすぐには元へ戻らなかった。


「今日のは何個?」


「九個」


「さっきは八個だった」


「手の毛が残らなくなったから、一個増えた」


「耳と尻尾は?」


「また今度だ」


「次は消えるかな」


「知らない」


「先生、何にも知らないね」


「お前たちのことは、覚えてる途中なんだよ」


 悠斗は自分で言った言葉に気づき、口を閉じた。


 こはくは何も言わず、二本の尻尾を大きく振った。


 その夜、耳と尻尾は最後まで消えなかった。


 けれど、こはくは失敗したからといって、途中で練習をやめなかった。


 悠斗は攻略情報の紙へ書き足す。


 こはく。子狐。変化能力あり。


 十個のうち、九個成功。


 残り二つ。


 数が合わないことには、書き終えてから気づいた。

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