第五章 百個の目と、ひとつの眼鏡
第五章 百個の目と、ひとつの眼鏡
三夜目。
悠斗が宵待保育園へ着くと、門の前から泣き声が聞こえていた。
「嫌だ! 入らない!」
子泣き爺の子が、今日も母親の首へしがみついている。
泣くたびに身体が重くなり、母親の腕は少しずつ下がっていた。
「今日は帰る!」
「玄関まで行ってみよう? 中へ入らなくてもいいから」
「嫌だぁ!」
悠斗は二人の横を通り、門をくぐった。
しかし数歩進んだところで足を止める。
「中へ入れようとするから嫌がるんじゃないですか」
母親が顔を上げた。
「でも、保育園に来たら、中へ入らないと……」
「別に門のところにいたって、保育園には来たことになるでしょう」
悠斗は玄関前の段差へ腰を下ろした。
「今日はここで終わりにすればいいんじゃないですか」
子泣き爺の子が、母親の肩越しに悠斗を見る。
「中へ入らなくていいの?」
「俺は入れとは言ってない」
「帰っていい?」
「それは母親に聞け」
母親は、腕の中の子どもを見る。
「じゃあ、玄関まで行けたら帰ろうか」
泣き声が少し小さくなった。
母親は重い身体を抱えたまま、一歩ずつ門を進む。
玄関前まで来るのに、五分以上かかった。
「着いた」
母親が息を切らしながら言った。
「帰る」
「うん。今日は帰ろうね」
二人は園舎へ入らず、来た道を戻っていく。
結局、今日も母親は仕事へ行けない。
それでも昨日より、玄関一つ分だけ先へ進んだ。
悠斗は立ち上がる。
「黒川さん」
いつの間にか、夜久園長が玄関に立っていた。
「何ですか」
「いえ、別に」
「言いたいことがあるなら言ってください」
「今日だけの手伝いにしては、熱心だと思いまして」
「毎晩、門の前で泣かれるとうるさいからです」
「泣いているのは、黒川さんが来る前からですよ」
「だったら、もっと早く何とかしてください」
悠斗は靴を脱ぎ、保育室へ向かった。
◇
保育室へ入ってすぐ、めめが悠斗の脚へぶつかった。
「痛い!」
「ごめんなさい」
「どうして正面から来てぶつかるんだよ。目が百個もあるだろ」
「見えてたもん」
「見えてたなら避けろ」
「先生が急に動いたから」
「俺は立ってただけだ!」
めめは悠斗から顔をそらした。
顔や腕にある目も、一斉に別の方向を向く。
そのまま歩き出し、今度は床に置かれた玩具箱へ足を引っかけた。
箱が倒れ、中身が散らばる。
「ほら、見えてないじゃないか」
「見えてる!」
「じゃあ、これは何本?」
悠斗は指を二本立てた。
「五本」
「全然違う!」
「今のは顔の目に聞いたんでしょう。腕の目なら分かるもん」
めめは右腕に並んだ目を悠斗へ向けた。
「何本?」
「……三本」
「増えたけど違う!」
首の目。
手の甲の目。
額の目。
悠斗は順番に同じ質問をした。
答えは一、三、五、八と、見事にばらばらだった。
「百個全部、見えてないんじゃないか?」
「見えてるもん!」
「どの目なら見えるんだよ」
「全部!」
「じゃあ、扉にぶつかるな!」
「先生の意地悪!」
めめは百個の目に涙を浮かべ、悠斗に背を向けた。
そのまま走り出し、閉まっている扉へ正面からぶつかる。
鈍い音が保育室へ響いた。
「……今のは扉が悪い」
「扉は動いてないぞ」
「意地悪!」
めめは額を押さえながら、部屋の隅へ行ってしまった。
「黒川さん」
夜久園長が、呆れた顔で立っている。
「何ですか」
「もう少し言い方があるでしょう」
「見えてないのに、見えてると言うから」
「本人も気にしているんです」
「だったら、眼鏡をかければいいでしょう」
「眼鏡は用意しました」
「もう?」
「昨夜、めめちゃんのお母さんへお伝えして、妖の眼科で診てもらいました」
夜久園長は、机の上に置かれた細長い箱を手に取った。
「強い遠視と乱視があり、百個の目すべての視力が、まだ十分に育っていないそうです」
「百個全部?」
「全部です」
「一個くらい無事な目はなかったんですか」
「なかったそうです」
「百個もあるのに」
「百個あるから、一つくらい見えるだろうと思っていました」
「園長先生も、めめと同じことを言ってますよ」
「そうですね」
「今まで本当に気づいてなかったんですね」
夜久園長は、何も答えなかった。
◇
細長い箱の中には、赤い縁の丸眼鏡が入っていた。
左右のレンズの周囲には、小さな文字のような模様が刻まれている。
「普通の眼鏡に見えますけど」
「百目用の治療眼鏡です。顔の二つの目にかけると、術式でほかの目にも同じ補正が働きます」
「かけたら見えるようになるんですか?」
「すぐに何でも見えるわけではありません」
夜久園長は眼鏡を持ったまま、めめを見る。
「今まで、百個の目へはっきりした像が届いていませんでした。眼鏡をかけて見ることを続け、少しずつ視力を育てる必要があるそうです」
「どれくらいで見えるようになるんですか?」
「分かりません。時間がかかるかもしれませんし、すべての目が同じように見えるようになるとも限りません」
「眼鏡をかけても、見えないかもしれないんですか」
「今すぐには」
部屋の隅にいためめが、小さな声を出した。
「だったら、いらない」
夜久園長が、めめのそばへしゃがむ。
「かけ続ければ、少しずつ見えるようになるかもしれません」
「かけても見えなかったら?」
「それは――」
「眼鏡をかけても見えなかったら、めめは本当に見えない子になる」
めめは両腕で顔を隠した。
腕に並んだ目も、すべて固く閉じられている。
眼鏡をかけなければ、見えないのは眼鏡がないせいにできる。
眼鏡をかけて、それでも見えなかったら。
もう言い訳はできない。
悠斗には、めめが怖がっているものが少しだけ分かった。
「かけたくないなら、かけなくてもいいんじゃないですか」
「黒川さん」
「ただし、見えてないのに走るな。危ないから、ずっと座ってろ」
「嫌!」
「だったら眼鏡をかけろ」
「それも嫌!」
「面倒くさいな!」
「黒川さん、相手は子どもです」
「分かってますよ!」
悠斗は自分の鞄を開けた。
母親に連れてこられる直前まで遊んでいた携帯ゲーム機が入っている。
今夜は、隙を見て続きをするつもりだった。
悠斗はゲーム機の電源を入れ、めめの前へ置く。
小さな画面に、森の景色が映った。
「この中に銀色の鍵が落ちてる。見つけられるか?」
「見つけられるもん」
めめは画面へ顔を近づけた。
百個の目が、それぞれ別の角度からゲーム機を覗き込む。
「どこ?」
「自分で探せ」
「木しかない」
「鍵は木の根元にある」
「ない」
「ある」
「ない!」
めめは画面へ鼻が触れそうなほど近づいた。
それでも鍵は見つからない。
悠斗は赤い眼鏡を取った。
「十秒だけかけてみろ。それでも何も変わらなければ、すぐ外していい」
「見えなかったら?」
「今と同じだ」
「今と同じ?」
「かける前より悪くなるわけじゃない。だったら試すだけ試せばいいだろ」
「笑わない?」
「眼鏡をかけただけで、何が面白いんだよ」
「変じゃない?」
「見た目より性能だ。効果がある装備なら、使った方がいい」
「そうび?」
「できることを増やすための道具」
めめは眼鏡を見つめた。
しばらく迷ったあと、ゆっくりと受け取る。
赤い眼鏡を、顔の二つの目にかけた。
百個の目が一斉に閉じる。
次の瞬間、すべての目がゆっくりと開いた。
めめはゲーム機の画面を見つめる。
「……見えない」
小さな声だった。
夜久園長が何か言おうとする。
悠斗はそれを手で止めた。
「本当に何も変わらないのか?」
めめは、もう一度画面へ顔を近づけた。
「木がある」
「それはさっきも分かってただろ」
「さっきより、木と地面が違うって分かる」
「ほかには?」
めめは目を凝らした。
百個の目が少しずつ同じ方向を向いていく。
「木の下に、光ってるものがある」
「形は?」
「分からない」
「色は?」
「白い。ちょっと銀色」
「それが鍵だ」
「でも、鍵には見えない」
「さっきは、光ってることも分からなかったんだろ」
「うん」
「だったら、装備の効果は出てる。今日はそれでいい」
「今日だけ?」
「明日もかければ、今日より見えるかもしれない」
「見えないかもしれない?」
「そのときは、また次の日だ」
めめは画面を見つめたまま、眼鏡の縁へ触れた。
「十秒、過ぎた?」
「とっくに」
「外した方がいい?」
「自分で決めろ」
めめは眼鏡を外さなかった。
「もう少しかける」
「そうか」
「この光ってるの、本当に鍵?」
「本当に鍵だ」
「いつか、めめにも鍵に見える?」
「眼鏡屋じゃないから知らない」
「先生なのに?」
「先生でもない」
「何にも知らないね」
「うるさい」
めめは少しだけ笑った。
百個の目で同じものを見るのは、まだ難しい。
眼鏡をかけても、物の形までは分からない。
それでも、ぼんやりと混ざっていた木と地面の境目が見えた。
そこに銀色の光があることも分かった。
その夜、めめが新しく見つけたものは、それだけだった。
◇
水遊びの時間。
久太郎は昨日と同じように、池の縁へ座った。
悠斗はポケットから、二つの丸がついた紙を取り出す。
「今日は三までやるんだろ」
「うん」
久太郎は水面を見つめた。
片足をゆっくりと下ろす。
水へ触れる直前で、また止まった。
悠斗は何も言わずに待った。
久太郎の足先が、水へ入る。
すぐに引き上げた。
「入った!」
「一秒だけな」
「入ったもん!」
「じゃあ、丸だ」
悠斗は三の横へ丸をつけた。
久太郎はもう一度、足先を水へ入れる。
今度は二秒。
その次は三秒。
泳げるようになったわけではない。
それでも、水へ入れた時間は少しずつ長くなっていた。
「せんせぇ」
背後から、ことの間延びした声が聞こえた。
「あしたはぁ――」
悠斗は振り返らずに腕を伸ばした。
手のひらが、ことの口を正確に塞ぐ。
「んむぅ」
「危ないだろ。急に始めるな」
悠斗は久太郎の紙へ丸をつけたまま、ことの口を押さえていた。
「先生、後ろを見てないのに止めた」
久太郎が驚いたように言う。
「何回やったと思ってるんだ」
ことの尻尾が、悠斗の背後でのんびりと揺れている。
少し離れたところでは、赤い眼鏡をかけためめが、池の水面を見つめていた。
「何か見えるか?」
悠斗が尋ねる。
「光ってる」
「ほかには?」
「まだ、分からない」
「じゃあ今日は、それでいい」
昨日まで触れられなかった水へ、足を入れられた子。
眼鏡をかけても、まだ光しか見えない子。
門の外から、玄関まで来られた子。
悠斗はまだ、それを成長とは呼ばなかった。
ただ、攻略情報を書いた紙へ、できたことを一つずつ書き足していった。




