第四章 泳げない河童
第四章 泳げない河童
午前五時。
東の空が白み始める頃、最後の園児が迎えに来た母親と帰っていった。
保育室には、玩具と積み木が散乱している。
床の一部はまだ湿っていた。壁には大河のくしゃみでついた黒い焦げ跡があり、部屋の隅では、いわおが壁の姿のまま眠っている。
ことは夜中に三度、予言をしようとした。
二度目からは、悠斗も「あしたはぁ」と聞こえた瞬間に口を塞げるようになった。
その結果、園児は全員生きている。
ことも生きている。
悠斗も、どうにか生きていた。
「勝った……」
悠斗は保育室の床へ仰向けに倒れた。
夜久園長が、散らばった積み木を拾いながらこちらを見る。
「何にですか?」
「初勤務に」
「床掃除が残っています」
「朝まで全員生存。それが勝利条件だったでしょう」
「黒川さんが勝手に決めた条件です」
「全員いるんだから、勝ちでいいじゃないですか」
悠斗は指を一本ずつ折りながら、園児の名前を数えた。
「久太郎、めめ、大河、こはく、いわお、こと。六人全員いる」
「いわおくんは、その壁です」
「分かってます」
「先ほど、壁を一人として数えていませんでしたよ」
「ちゃんと六人いました!」
「今、数え直しましたよね」
「確認です!」
玄関の戸が開いた。
深雪が眠そうな顔で入ってくる。
「おはよう」
「母さん」
「生きてた?」
「息子を何だと思ってるんだよ」
「初日で逃げ出すと思ってた」
「逃げたら腎臓を売るって伝言しただろ!」
「両方あるんだから、一つくらい大丈夫でしょう」
「何のために二つあると思ってるんだ!」
悠斗が立ち上がる。
身体のあちこちが痛い。ゲームをしていても、これほど全身を使うことはなかった。
「もう来ないからな」
「そう」
「絶対に来ない」
「分かった」
「何だよ、その余裕は」
「今夜七時に起こせばいいんでしょう?」
「話を聞け!」
深雪は夜久園長へ頭を下げた。
「それでは、今夜もお願いします」
「こちらこそ」
「勝手に決めるな!」
悠斗の抗議を無視して、二人は穏やかに挨拶を交わした。
◇
同日の午後六時。
部屋の電気が消えた。
ゲームの画面も、エアコンも、スマートフォンの充電も同時に止まる。
悠斗は椅子に座ったまま、しばらく暗い画面を見つめた。
「母さん」
扉の向こうから声が返ってくる。
「何?」
「毎回これをやるつもり?」
「自分で出てくるようになるまで」
「行かないって言っただろ」
「借用書」
「それ、俺は署名してないからな」
「内臓」
「行けばいいんだろ!」
二夜目も、悠斗の意思とは関係なく始まった。
◇
宵待保育園へ着くと、門の前に見覚えのある親子がいた。
母親の首へしがみつき、子泣き爺の子が泣いている。
「嫌だ! 帰る!」
「今日は、少しだけ中へ入ってみよう?」
「嫌だぁ!」
昨日と同じだった。
泣くたびに身体が重くなり、母親の腕が少しずつ下がっていく。
ただ、昨日とは違い、母親はまだ園から離れようとしていなかった。
子どもの背中を撫でながら、何度も声をかけている。
「お友達も、先生もいるよ」
「みんな、僕を笑うもん!」
「笑わないよ」
「嘘だ!」
悠斗は二人の横を通り過ぎようとした。
だが、母親の顔を見て足が止まった。
目の下に濃い隈がある。昨日、仕事を休んだせいかもしれない。
「今日も駄目そうですね」
悠斗が言うと、母親は困ったように笑った。
「すみません。すぐ帰りますから」
「別に謝らなくても」
悠斗は門を指した。
「昨日より、少し中に入ってますよ」
母親が振り返る。
いつの間にか、二人は門を一歩だけ越えていた。
子泣き爺の子も泣きながら、園庭を見ている。
滑り台の向こうから、久太郎が顔を出した。
「来ないの?」
「行かない!」
「そう」
久太郎は無理に誘わなかった。
「じゃあ、また明日」
それだけ言って、保育室へ戻っていく。
子泣き爺の子は、母親の肩越しに久太郎の背中を目で追っていた。
それでも母親から降りることはできなかった。
「……今日は帰ります」
母親が言った。
昨日と同じ言葉だったが、その表情は少しだけ違って見えた。
悠斗は二人の背中を見送った。
来なければ一人減る。
世話が楽になる。
その考えは昨日と変わっていないはずなのに、母親の疲れた背中が妙に頭へ残った。
◇
「今日は水遊びをします」
夜久園長が言った。
園庭の奥には、石で囲まれた大きな池がある。
人間の保育園にある水遊び場より広く、中央へ行くほど深くなっていた。水辺で暮らす妖の子どもたちのために作られたものだという。
園庭の明かりが水面へ映り、ゆらゆらと揺れている。
「夜に水遊び?」
「この子たちにとっては、今が昼間のようなものです」
「生活が完全に俺と同じだな」
「黒川さんも水着に着替えますか?」
「絶対に嫌です」
めめは水辺へ着く前に植木鉢へぶつかり、大河は慎重に水へ足を入れた。こはくは魚に化けようとして、狐の耳が生えた奇妙な魚になっている。
いわおは水へ入ると沈むため、池の縁に座っていた。
ことは水面へ映る月を見つめ、鼻先を近づけすぎて顔から水へ落ちた。
「何してるんだ!」
悠斗が慌てて抱き上げる。
ことは全身から水を滴らせながら、ゆっくりとまばたきをした。
「おつきさま、にげたぁ」
「お前が水面を揺らしたからだ!」
その間に、ほかの子どもたちは次々と水へ入っていく。
ただ一人、久太郎だけが池から離れた場所に立っていた。
「河童は入らないのか?」
「今から入る」
そう答えたが、動かない。
頭の皿が乾かないよう、水の入った小さな霧吹きを自分で吹きかけている。
「水遊びのために生まれたような見た目なのに」
「あとで入る」
「みんな先に入ってるぞ」
「分かってる」
「河童、水属性。水中で能力補正ありじゃないのか」
「知らない」
「泳げば一番速そうなのに」
「泳がない」
久太郎の声が低くなった。
悠斗はようやく、その顔を見る。
いつもよく動く口が、きつく結ばれている。頭の皿を押さえる手にも力が入っていた。
「もしかして、泳げないのか?」
「泳げる」
「じゃあ入ればいいだろ」
「今日は泳がないだけ」
「それを泳げないって言うんじゃないのか」
「違う!」
久太郎が叫んだ。
池の中にいた子どもたちが振り返る。
久太郎は顔を伏せ、園舎の方へ走っていった。
「何なんだよ」
悠斗がつぶやく。
夜久園長が、隣へ立った。
「久太郎くんは、以前、川で流されたことがあるんです」
「河童が?」
「河童でも、流れの速い川では溺れます」
「でも、ここは池でしょう」
「怖いものは、場所が変われば平気になるわけではありません」
悠斗は、久太郎が消えた園舎の入口を見る。
「先に言ってくださいよ」
「本人が話してほしくないと言っていましたから」
「俺は思い切り泳げないって言いましたけど」
「そうですね」
「止めてくださいよ!」
「止める前に、黒川さんが全部言いました」
「俺が悪いみたいに言わないでください!」
「違うんですか?」
悠斗は答えられなかった。
◇
久太郎は、保育室の隅にある机の下へ隠れていた。
甲羅が引っかかり、身体の半分ほどが外へ出ている。
「全然隠れられてないぞ」
「見ないで」
「見えてるから仕方ないだろ」
「向こう行って」
「俺もそうしたいけど、園長先生が話してこいって」
「先生じゃないくせに」
「俺もそう思う」
悠斗は机の前へ座った。
久太郎は奥へ入ろうとしたが、甲羅が机の脚にぶつかるだけだった。
「無理に泳げとは言わない」
「泳げるもん」
「分かった。泳げるけど、今日は泳がない」
「明日も泳がない」
「じゃあ、明後日」
「泳がない」
「一生?」
久太郎は答えなかった。
「別に泳がなくても死なないなら、それでいいんじゃないか」
久太郎が机の下から顔を出した。
「河童なのに?」
「河童でも人間でも、できないものはあるだろ」
「先生は何ができないの?」
「働くこと」
「今、働いてる」
「母親に脅されてるだけだ」
「ほかには?」
「朝起きること。人と話すこと。部屋を片づけること。将来を考えること」
「いっぱいあるね」
「だから、河童が一つくらい泳げなくても驚かない」
久太郎は少し考えた。
「でも、みんな泳げる」
「ほかの河童が?」
「お父さんも、お母さんも。小さい子も」
「お前はお前だろ」
「泳げるようになりたい」
小さな声だった。
悠斗は頭をかいた。
「だったら、いきなり泳ごうとしなければいい」
「どうするの?」
「ゲームでも、最初から強い敵とは戦わない。できるところから一つずつ進める」
悠斗は紙と鉛筆を持ってくると、床へ簡単な表を書いた。
一、池の近くまで行く。
二、池の縁に座る。
三、足を水へ入れる。
四、立って入る。
五、浮いてみる。
六、泳ぐ。
「今日はどこまでできそうだ?」
久太郎は紙を見つめた。
「……一」
「池の近くまで?」
「うん」
「じゃあ、そこまでで終わり」
「泳がなくていいの?」
「今日はな」
◇
悠斗と久太郎は園庭へ戻った。
池の中では、こはくがまだ狐耳の生えた魚の姿で泳いでいる。めめは水のない方向へ手を伸ばし、何かをすくおうとしていた。
久太郎は、池から三歩離れたところで止まった。
「ここまで」
「分かった」
悠斗は表の一番へ丸をつけた。
「終わり」
「本当に?」
「今日はここまでって言っただろ」
久太郎は池を見た。
水面では、園庭の明かりが揺れている。
一歩だけ進んだ。
「二も、する」
「池の縁に座るだけだぞ」
「うん」
久太郎はゆっくりと池へ近づいた。
縁へ腰を下ろす。
水には触れない。
それでも両手は、膝の上で強く握られていた。
悠斗は二の横にも丸をつける。
「二つも進んだな」
「三もできるかも」
「調子に乗るな。今日は終わり」
「どうして?」
「無理して明日来られなくなったら、一の丸まで無駄になるだろ」
久太郎は不満そうに口を尖らせた。
しばらくして、そっと片足を水面へ近づける。
だが、水へ触れる直前で引っ込めた。
悠斗は何も言わなかった。
「今、怖かった」
久太郎が言った。
「見れば分かる」
「笑わないの?」
「何が面白いんだよ」
「河童なのに水が怖いから」
「俺だって人間なのに働くのが怖い」
「それはちょっと違うと思う」
「急にまともなことを言うな」
久太郎が小さく笑った。
水へは入れなかった。
泳ぐこともできなかった。
それでも昨日まで近づかなかった池の縁へ、自分の足で座ることはできた。
「先生」
「何?」
「明日は三までやる」
「先生じゃない。今日だけの手伝いだ」
「昨日も言ってた」
久太郎は池を見たまま言った。
「明日も来るんでしょう?」
悠斗は答えなかった。
ただ、紙に書いた二つの丸を消さずに、そのままポケットへ入れた。




