第十章 昼に向かない男
第十章 昼に向かない男
午後六時。
深雪が分電盤へ手を伸ばす前に、悠斗の部屋の扉が開いた。
「行ってくる」
悠斗は鞄を肩へかけ、母親の横を通り過ぎた。
深雪は分電盤の前で手を止める。
「まだ電気、消してないけど」
「毎回消されたら、パソコンが壊れる」
「今日は保育園へ行かないのかと思った」
「行くよ。内臓を守るために」
「そう」
「それだけだからな」
「何も聞いてないけど」
悠斗は靴を履き、玄関の戸を開けた。
「迎えはいらない。自転車で行くから」
「帰りは朝だよ」
「分かってる」
「起きていられる?」
「俺を誰だと思ってるんだ」
「六年間、昼夜逆転していた無職」
「夜勤の適性が高い人間と言え!」
玄関の戸を閉める。
家の中で、深雪が笑ったような気がした。
◇
八夜目。
宵待保育園へ着くと、小吉は保育室の中にいた。
母親の膝へ座り、昨日作りかけた積み木の家に手を伸ばしている。
「今日はもう入ってるのか」
「お母さんもいるから」
「昨日もいた」
「今日は最初から中にいる」
「そうか」
小吉は少し得意そうに、長い積み木を柱の上へ置いた。
「あとで、お母さんは外に行く」
「何分?」
「五分」
「昨日より一分増えたな」
「一分だけ」
「増えたことには変わらないだろ」
小吉は返事をせず、柱が倒れないよう両手で押さえた。
悠斗は保育室を見回す。
久太郎は池へ行く前に、自分でタオルと霧吹きを用意している。
めめは赤い眼鏡をかけ、色の違う積み木を二つ並べて見比べていた。
大河は段ボールの砦へ入らず、小さな声で歌っている。
こはくは悠斗へ変化し、鏡の前で片方の耳だけを消そうとしていた。
いわおは、床に貼った赤い印の位置を確かめている。
ことは丸い積み木を鼻先で転がしていた。
今のところ、誰も泣いていない。
何も燃えていない。
通路も塞がれていない。
「平和だ……」
悠斗がつぶやく。
夜久園長が、背後から言った。
「まだ始まって五分ですよ」
「五分も無事なら十分でしょう」
「十分ではありません」
「今日も全員生きて朝を迎えれば、八連勝です」
「保育に連勝記録はありません」
「俺にはあります」
悠斗は鞄から、これまでの記録を書いたノートを取り出した。
最初は一枚の紙だった。
書くことが増え、紙の裏まで埋まり、三夜目からは使っていなかったノートを持ってきた。
今では園児一人につき、数ページずつ記録がある。
「久太郎は昨日、両足で十五秒。今日は二十秒を目標にする」
「本人に確認しましたか?」
「昨日、自分で言ってました」
「めめちゃんは?」
「眼鏡を二十分。今日は疲れたら外す。無理に時間を延ばさない」
「大河くんは?」
「今日は段ボールの外で『ここにいる』を言う」
「よく覚えていますね」
「書いてあるからです」
夜久園長は、悠斗が持つノートを見る。
「以前から、記録をつける習慣があったんですか?」
「ゲームなら」
「ゲーム?」
「敵の出る場所とか、必要な道具とか、失敗した原因とか。覚えておくと、次は少し楽になるから」
「子どもたちも同じですか?」
「同じじゃないです。でも、何も覚えてないよりはましでしょう」
悠斗はノートを閉じた。
「俺は物覚えがいい方じゃないし」
「そうでしょうか」
「朝の予定は、だいたい忘れます」
「夜の予定は?」
「忘れません」
「やはり、夜に向いているんですね」
「昼に向いてないだけです」
悠斗は、それ以上話さなかった。
◇
高校を卒業した年。
悠斗は一度だけ、朝から働く倉庫のアルバイトをした。
勤務開始は午前八時。
初日は起きられた。
二日目も、ほとんど眠らずに出勤した。
三日目、目覚ましを止めた記憶がないまま寝過ごした。
四日目は間に合ったが、昼前には頭がぼんやりして、荷物の番号を何度も間違えた。
一週間目、責任者から言われた。
「やる気がないなら、来なくていい」
やる気がないわけではなかった。
そう説明しようとしたが、何を言っても言い訳に聞こえる気がした。
そのまま辞めた。
次に始めたのは、昼からの飲食店だった。
厨房は暑かった。
働き始めて二時間もすると身体がだるくなり、頭痛と吐き気がした。
「体力がなさすぎる」
店長に呆れられた。
自分でもそう思った。
三日で辞めた。
その次は、夕方からの品出し。
仕事には行けた。
だが、人に声をかけられるたびに身体が固くなり、何を答えればいいのか分からなくなった。
一か月で辞めた。
仕事を探すこと自体が怖くなった。
どうせ続かない。
また迷惑をかける。
辞めるくらいなら、最初から始めない方がいい。
そうして一年が過ぎた。
次の一年も、同じだった。
気づけば六年になっていた。
◇
「黒川さん」
夜久園長の声で、悠斗は顔を上げた。
「冷房が止まりました」
保育室の空調から、低い音がしている。
風は出ていない。
「壊れたんですか?」
「冷却用の札が切れたようです。予備を取ってきます」
「どこにあるんですか」
「屋根裏の倉庫です」
「どれくらいかかります?」
「十分ほどです」
夜久園長が保育室を出る。
夜とはいえ、まだ夏の暑さが残っていた。
窓を開けても、生ぬるい風しか入ってこない。
最初に変化が出たのは久太郎だった。
頭の皿が乾き始める。
「先生、水」
「自分で水差しを持つなよ」
「もう持たない」
「本当だな?」
「たぶん」
「信用できない」
悠斗は霧吹きで久太郎の皿を濡らした。
次に、めめが眼鏡を外す。
「疲れた?」
「暑い」
「ケースへ入れておけ。踏むなよ」
こはくの変化が解け、狐の姿へ戻る。
大河は畳んだタオルを枕にして、床へ横になった。
いわおは壁際へ身体をつけ、少しでも冷たい場所を探している。
ことは床へ腹をつけ、四本の脚を投げ出していた。
「暑いぃ」
「俺に言うな。園長先生が戻るまで我慢しろ」
悠斗も額の汗を拭った。
頭が重い。
胃の奥から、じわじわと吐き気が上がってくる。
「先生、顔が白い」
こはくが言う。
「元からだ」
「汗、いっぱい」
「暑いからな」
「先生も暑いの苦手?」
「六年間、冷房を一番低い温度にして、アイスを食べながらゲームしてたからな」
悠斗は壁へ背中を預け、そのまま床へ座り込んだ。
「俺の体力は、もうミジンコより少ない」
「みじんこ?」
久太郎が尋ねる。
「水の中にいる、小さいやつ」
「泳げる?」
「たぶん」
「じゃあ、僕よりすごい」
「そこで落ち込むな」
「アイスって何味?」
こはくが悠斗の前へしゃがんだ。
「何でも食べる。バニラとか、チョコとか」
「アイス、食べたい」
「僕も」
久太郎が言う。
「めめも食べたい」
眼鏡を外しためめが、声のする方へ顔を向ける。
「俺も」
大河が床へ寝たまま、小さな声を出した。
「ぼくも」
いわおの声が壁際から響く。
こともゆっくりと顔を上げた。
「あいすぅ」
「ない。これは保育園で、俺の部屋じゃない」
「先生の部屋にはあるの?」
「冷凍庫に入ってる」
「いっぱい?」
「母さんに見つからなければ、いっぱい」
「持ってきて」
「嫌だ。俺のだ」
「先生なのに?」
「先生は自分のアイスを園児へ配る仕事じゃない」
「けち」
「何とでも言え」
暑さのせいで、誰も動こうとしない。
保育室の床に、妖の子どもたちが転がっている。
その真ん中で、悠斗も膝を抱えて座っていた。
「十日くらいここで働けば、少しは体力が戻ると思ったんだけどな……」
「戻った?」
こはくが尋ねる。
「戻ってたら、こんなに気持ち悪くなってない」
「先生、吐くの?」
「その言い方をするな。余計に気持ち悪くなる」
悠斗は目を閉じた。
倉庫のアルバイトをしていた頃も、飲食店で働いた頃も、暑くなると同じように頭が痛くなった。
身体がだるくなり、考えることすら嫌になる。
六年間、冷房の効いた部屋から出なかったのだから当然だ。
自分では、そう思っていた。
「お待たせしました」
夜久園長が、新しい札を持って戻ってきた。
「全員、床に寝ていますね」
「暑いからです」
「黒川さんまで?」
「ミジンコより体力がないので」
「はい?」
「何でもありません。早く直してください」
夜久園長が空調へ新しい札を差し込む。
低い音がして、冷たい風が吹き出した。
「ああ……生き返る……」
悠斗は風の当たる場所へ顔を向けた。
久太郎も皿を風へ向ける。
こはくの耳が立ち、大河がゆっくりと身体を起こした。
めめは赤い眼鏡をかけ直す。
いわおも壁際から動き出した。
ことは冷たい風の真下へ移動し、また床へ腹をつけた。
「アイスは?」
久太郎が尋ねる。
「ない」
「冷たくなったら、アイス出るって思った」
「どんな仕組みだよ」
「明日は持ってきて」
「考えておく」
「持ってくる?」
「考えるだけだ」
冷たさが戻ると、悠斗の頭痛と吐き気も少しずつ消えていった。
やがて子どもたちは、何事もなかったように遊び始める。
悠斗もノートを取り出し、いつもの記録をつけた。
久太郎。両足を水へ二十秒。
めめ。眼鏡を二十五分装着。丸と四角を判別。
大河。段ボールの外から「ここにいる」と言えた。
こはく。片方の耳が五秒消えた。
いわお。二回続けて赤い印へ移動。
小吉。母親と離れて五分間、保育室で過ごした。
こと。「げ」と発言。予言には至らず。
その下へ、少し迷ってから書き足す。
悠斗。冷房が止まると、約五分で使い物にならなくなる。
「先生のことも書くの?」
いつの間にか、久太郎が隣にいた。
「同じことが起きたとき、困らないようにするためだ」
「次はどうするの?」
「冷房が止まる前に園長先生を呼ぶ」
「止まってからじゃないと分からないよ」
「じゃあ、予備の札を下へ置いておく」
「先生が直せるの?」
「園長先生に聞いておく」
「先生も少しずつできること増えてるね」
「お前に言われたくない」
久太郎は笑いながら、迎えに来た母親のところへ走っていった。
悠斗はノートを閉じる。
昼の仕事では、眠気も、暑さも、できない理由にしかならなかった。
夜の保育園では、同じ身体のままでも朝まで動くことができる。
向いているとは認めたくない。
それでも、今夜も全員生きている。
連勝記録は、八になった。




