第十一章 親たちの夜
第十一章 親たちの夜
九夜目。
小吉の母親は、保育園の門の前で立ち止まっていた。
「今日は、外ではなく、少しだけ仕事へ行ってみようと思います」
小吉が母親の服を強くつかむ。
「聞いてない」
「今、言ったから」
「外で待つって言った」
「今日は、一時間だけ。終わったらすぐ戻ってくるよ」
「嫌だ」
小さな身体が、少しずつ重くなっていく。
母親は膝をつき、小吉と目線を合わせた。
「ずっと仕事を休んでいたら、お母さんも困るの」
「僕は困らない」
「ご飯を買えなくなったら、小吉も困るよ」
「嫌だ」
「うん。嫌だよね」
母親は否定しなかった。
「でも、お母さんも仕事へ行かないといけないの」
小吉の目に涙が浮かんだ。
悠斗は二人のそばへ座る。
「一時間は長すぎる」
「黒川さん」
母親が困った顔をする。
「いきなり五分から一時間は無理でしょう。今日は十五分にしてください」
「でも、職場まで行くだけでも――」
「十五分で戻れるところまで行って、戻ってくればいい」
「仕事になりません」
「今日は仕事をする練習です」
悠斗は小吉を見る。
「お前も、母親が仕事へ行く練習をしろ」
「行かなくていい」
「それを決めるのはお前じゃない」
「先生の意地悪」
「今さらだろ」
小吉は泣きながら、保育室を見る。
昨日の積み木の家が、棚の上に残されている。
「十五分で戻る?」
母親がうなずいた。
「必ず戻る」
「十四分」
「また値切るのか」
「十四分なら待てる」
母親は小吉を抱きしめたあと、服をつかんでいる指を一本ずつ離した。
小吉は泣いている。
それでも身体は、抱き上げられないほど重くはならなかった。
「行ってらっしゃい」
夜久園長が声をかける。
母親は何度も振り返りながら、園を出ていった。
小吉はその姿が見えなくなるまで、門の前に立っていた。
「十四分」
「分かってる。俺が数える」
悠斗はスマートフォンの時計を確認した。
「一秒でも遅れたら?」
「俺が迎えに行く」
「先生が?」
「場所は知らないけどな」
「駄目じゃん」
「だったら、園長先生が行く」
「勝手に決めないでください」
夜久園長が言った。
「じゃあ、久太郎」
「僕、行く!」
「きゅうちゃんは駄目!」
小吉が、すぐに止めた。
久太郎は不満そうに頬を膨らませる。
「どうして?」
「途中に川があるかもしれないから」
久太郎が黙る。
「小吉」
悠斗が言った。
「言い方は悪いけど、心配してることは伝わった」
「悪いの?」
「本人の前で言うな」
「でも、きゅうちゃんは泳げない」
「今、両足を水へ入れる練習中だ」
「二十五秒できる」
久太郎が言い直した。
「じゃあ、二十五秒以上かかる川は無理」
「川を時間で測るな」
小吉は涙を拭った。
久太郎と話している間に、一分が過ぎていた。
◇
小吉の母親は、約束どおり十四分で戻ってきた。
職場までは行けなかった。
途中の公衆電話から、上司へ事情を説明しただけだった。
それでも、母親が園の外へ出ている間、小吉は保育室で待つことができた。
「明日は、もう少し遠くまで行ってみるね」
「十五分?」
「そうだね」
「十四分」
「一分くらい増やしてやれ」
悠斗が言うと、小吉は母親の服を握りながら考え込んだ。
「十四分半」
「細かい!」
母親は笑った。
その目には、少しだけ涙が浮かんでいた。
◇
午前四時半。
保護者の迎えが始まる時間になった。
最初に迎えに来たのは、こはくの母親だった。
上品な着物姿だが、袖からは油と甘い醤油の匂いがする。
「今夜もありがとうございました」
「何の仕事をしてるんですか?」
悠斗が尋ねる。
「夜店です。人間のお祭りへ紛れて、焼き団子を売っています」
「人間に見つからないんですか?」
「このくらいなら」
こはくの母親の姿が、白い煙に包まれる。
煙が消えると、買い物袋を持った普通の女が立っていた。狐の耳も尻尾もない。
「お母さん、上手でしょう」
こはくが誇らしそうに言う。
「そうだな」
「私は?」
「昨日、片方の耳が五秒消えた」
「今日は十秒にする」
「最初から倍を狙うな。七秒にしておけ」
こはくは母親と手をつなぎ、朝市へ寄って帰ると言って園を出た。
次に、大河の父親が迎えに来た。
反射材のついた作業着は土で汚れ、額には汗が浮かんでいる。
「遅くなってすみません!」
相変わらず、声が大きい。
「道路工事ですか?」
「はい! 人間が寝ている間に、傷んだ道を直しています!」
「もう少し声を小さくしてください」
「すみません!」
謝罪まで大きかった。
大河が父親のそばへ行く。
「お父さん」
「何だ!」
「ここにいる、って言えるようになった」
「そうか! もっと大きな声で言ってみろ!」
大河の肩が縮む。
悠斗が口を挟んだ。
「届けばいいんです。大きさは本人に決めさせてください」
赤鬼は驚いたように悠斗を見る。
しばらくして、大河の前へしゃがんだ。
「先生には届いたのか?」
大河がうなずく。
「久太郎くんにも」
「そうか」
父親は少し考えたあと、大河の頭を撫でた。
「じゃあ、今日はそれでいい」
「うん」
二人は並んで玄関を出ていった。
父親の声は大きいままだったが、帰り際の「ありがとうございました」は、ほんの少しだけ小さかった。
◇
午前五時。
迎えに来る予定の親が、まだ三人来ていなかった。
久太郎。
めめ。
こと。
「遅くないですか?」
悠斗は時計を見る。
「予定より二十分遅れていますね」
「電話は?」
「久太郎くんとめめちゃんの家からは連絡がありました。仕事が長引いているそうです」
「毎日、子どもを預けておいて、迎えまで遅れるんですか」
夜久園長が悠斗を見る。
「夜の仕事は、時間どおりに終わらないこともあります」
「こっちだって朝まで仕事なんですよ」
「黒川さんは、残業が嫌ですか?」
「好きな人がいるんですか?」
「いないでしょうね」
「だったら早く帰りたいです」
久太郎は、椅子に座って足をぶらつかせている。
めめは眼鏡を外し、ケースを両手で抱えていた。
ことは床へ伏せ、眠っている。
子どもたちは、何も言わずに親を待っていた。
さらに十五分が過ぎた頃、玄関の戸が開いた。
「すみません!」
久太郎の母親が、息を切らして入ってくる。
全身ずぶ濡れだった。
髪から水が滴り、頭の皿には川草が絡みついている。
「どうしたんですか?」
悠斗が尋ねる。
「上流で、人が流されました」
「え?」
「夜釣りをしていた人が足を滑らせて。仲間と捜していたんです」
「見つかったの?」
久太郎が駆け寄る。
「見つかったよ。岸まで運んだから、もう大丈夫」
「お母さんが泳いだの?」
「うん」
久太郎は、母親の濡れた身体へ抱きついた。
「すごい」
「久太郎も、今日は水へ入れた?」
「二十五秒」
「昨日より長いね」
母親は笑った。
悠斗は何も言えなかった。
迎えへ来るのが遅れたのは、遊んでいたからではない。
人間を一人、川から助けていた。
久太郎の母親は、何度も頭を下げてから、息子と一緒に帰っていった。
◇
めめの母親が来たのは、その十分後だった。
黒い制服を着て、帽子をかぶっている。
顔や首、腕にある無数の目は、どれも赤く充血していた。
「遅くなって申し訳ありません」
「警備の仕事ですか?」
「はい。人間の倉庫を見回っています」
「目がたくさんあると、便利そうですね」
「百の映像を同時に見るので、疲れますけどね」
母親は目薬を差しながら笑った。
「めめ、眼鏡はかけられた?」
「今日は二十五分」
「何が見えた?」
「丸と四角」
「そう。頑張ったね」
「まだ色は分からない」
「急がなくていいよ。お母さんも、小さい頃はほとんど見えなかったから」
めめが顔を上げる。
「お母さんも?」
「眼鏡をかけて、毎日少しずつ見る練習をしたの」
「今は全部見える?」
「全部ではないよ。でも、仕事ができるくらいには」
めめは眼鏡の入ったケースを、大切そうに抱えた。
母親と手をつなぎ、悠斗へ頭を下げる。
「先生、また明日」
「今日だけの手伝いだ」
「明日もいるよ」
「勝手に決めるな」
めめは笑いながら帰っていった。
◇
最後に残ったのは、ことだった。
午前五時半。
夜が明け始めている。
ことは目を覚まし、ぼんやりと玄関を見ていた。
「お母さん、遅いな」
悠斗が言う。
「うん」
「寂しくないのか?」
「おしごと」
「何の仕事をしてるんだ?」
「わざわい、さがすぅ」
「災い?」
ことはそれ以上、説明しなかった。
しばらくして、玄関の戸が開く。
ことと同じく、人の顔と牛の身体を持つ女が入ってきた。
「遅くなって申し訳ありません」
母親の人の顔には、深い疲れが浮かんでいる。
「北の町で、よくない兆しがありました。ほかの件たちと確認していたんです」
「予言したんですか?」
悠斗は思わず尋ねた。
母親は、静かに首を横へ振る。
「言葉にはしていません。見ただけです」
「誰かへ知らせなくていいんですか?」
「知らせる方法を探しています。命を失わずに伝える方法を」
母親はことへ近づき、頬を寄せた。
「待たせてごめんね」
「だいじょうぶぅ」
「予言しなかった?」
「ちょっとだけぇ」
悠斗はノートを開く。
「今夜は『つ』と言いました。一文字だけです」
ことの母親は、わずかに目を見開いた。
しかし、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。
「そうですか」
「何か意味があるんですか?」
「さあ。まだ幼い子ですから」
母親はそれ以上何も言わなかった。
ことを連れ、白み始めた空の下へ帰っていく。
◇
全員を見送ったあと、悠斗は時計を見た。
予定より、一時間近く遅い。
「残業ですよ」
「そうですね」
「手当は出ますか?」
「確認しておきます」
「絶対に出してください」
悠斗は文句を言いながら、散らばった玩具を片づけた。
川で人を助ける河童。
人間の倉庫を守る百目。
人が眠っている間に道を直す鬼。
夜店で働く狐。
まだ起きていない災いを探す件。
人間が眠っている夜も、世界は止まらない。
その間にも働く者がいて、その者たちにも子どもがいる。
宵待保育園がなければ、親たちは仕事へ行けない。
小吉の母親が毎晩困っていた理由も、今なら少し分かった。
「先生」
帰ったはずの久太郎の声がした気がして、悠斗は振り返った。
誰もいない。
「……疲れてるな」
悠斗はノートを開き、その夜の最後の記録を書いた。
こと。「つ」と発言。予言には至らず。
保護者三名、仕事により迎え遅延。
園児、全員無事に降園。
連勝記録、九。
悠斗はノートを閉じる。
「残業した分、この一勝は高いからな」
誰もいない保育室で、一人つぶやいた。




