第二章 ダンジョンの待機所
第二章 ダンジョンの待機所
宵待保育園の玄関には、子ども用の小さな靴が並んでいた。
赤い靴。青い長靴。鼻緒のついた草履。
その端に、どう見ても人間の足では履けない形のものがある。丸く膨らんだ緑色の靴と、蹄に引っかけるような細い革紐。
悠斗は足を止めた。
「母さん」
「何?」
「あれ、靴?」
「そうじゃない?」
「誰が履くんだよ」
「入れば分かる」
「分かりたくないんだけど」
深雪は答えず、悠斗の背中を押した。
引き戸を開けると、正面に受付がある。
その奥から、紺色のエプロンをつけた男が現れた。
四十代ほどに見えるが、悠斗には年齢が分からなかった。髪を後ろできっちりとまとめ、細い銀縁の眼鏡をかけている。
「お待ちしていました。黒川悠斗さんですね」
「帰っていいですか?」
「駄目です」
男は即答した。
「園長の夜久です。今夜からよろしくお願いします」
「よろしくするとは、まだ――」
「悠斗」
背後から深雪の声がした。
悠斗が振り返ると、母親はすでに外へ出ていた。
「ちょっと待って。帰るの?」
「朝になったら迎えに来るから」
「俺は園児じゃないんだけど」
「分かってる。園児の方が聞き分けがいいから」
深雪は引き戸を閉めた。
「母さん!」
悠斗が戸を開けたときには、深雪はもう車へ向かっていた。
「せめて仕事内容くらい説明していけよ!」
「園長先生に聞いて!」
深雪は振り返りもせずに車へ乗り込んだ。
エンジンがかかる。
悠斗を置き去りにした軽自動車は、暗い道の向こうへ消えていった。
「本当に置いていきやがった……」
「では、こちらへどうぞ」
夜久園長は何事もなかったように言った。
「まだ働くとは言ってません」
「内臓を売る予定でしたら、お止めしませんが」
「聞いてるんですか」
「深雪さんから、だいたいの事情は」
「どこまで?」
「高校卒業後、一度も定職に就かず、夜通しゲームをして、夕方に起きる生活を六年間続けていると」
「全部じゃないですか」
「夜勤には最適ですね」
「そんな前向きな評価のされ方、初めてですよ」
夜久園長は、保育室へ続く扉に手をかけた。
「難しい仕事ではありません。子どもたちが安全に朝を迎えられるよう、見守ってください」
「子どもの世話をしたことなんてありません」
「大丈夫です」
「どうして言い切れるんですか」
「今夜は私もいますから」
「今夜は?」
夜久園長は答えず、扉を開けた。
悠斗は、その場で固まった。
保育室の床に、小さな子どもたちが座っている。
それだけなら、普通の保育園に見えたかもしれない。
一人の背中には、緑色の甲羅があった。
一人の額には、二本の角が生えている。
一人の顔や腕には、まばたきをする目がいくつも並んでいる。
別の子の後ろでは、二本の狐の尻尾が揺れていた。
部屋の隅には、手足の生えた四角い壁のようなものが座っている。
全員の視線が、一斉に悠斗へ向いた。
悠斗は口を半開きにしたまま動けなかった。
「……園長先生」
「はい」
「ここ、保育園じゃないですよね」
「保育園です」
「ダンジョンの待機所でしょう」
甲羅を背負った子が立ち上がった。
頭の上には、髪ではなく丸い皿がある。
その子は悠斗の前まで来ると、顔を見上げた。
「新しい先生?」
「しゃべった」
「河童だもん。しゃべるよ」
「河童はしゃべらないだろ」
「会ったことあるの?」
「ないけど」
「じゃあ、どうして分かるの?」
悠斗は答えられなかった。
河童の子は楽しそうに笑った。
「僕、久太郎。きゅうちゃんって呼んでいいよ」
「自分から愛称を指定するんだな」
「お母さんが、みんなにそう呼んでもらいなさいって」
「河童だから、きゅうちゃん?」
「うん」
「きゅうりからつけただろ」
「お母さんは違うって言ってた」
「じゃあ、何から?」
「きゅうり」
「合ってるじゃないか」
久太郎の後ろから、全身に目のある子が近づいてきた。
悠斗を見るため、顔だけではなく、腕や首にある目まで一斉にこちらを向く。
「めめ」
「何?」
「めめ」
「どの目だよ」
「名前。めめ」
「そのままじゃないか」
めめの隣へ、角の生えた大柄な子が立った。
「……大河です」
身体の大きさに似合わず、か細い声だった。
「鬼、火属性。河童、水属性。百目は索敵型……」
「属性?」
二本の尻尾を揺らす子狐が、悠斗の顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃん、何属性?」
「無職」
「むしょく?」
「何の役にも立たない属性だ」
子狐は目を丸くした。
夜久園長が咳払いをする。
「子どもたちを属性で呼ばないでください」
「まだ名前を知らないんですから、仕方ないでしょう」
「私は、こはく」
子狐は胸を張った。
部屋の隅にいた四角い子も、ゆっくりとこちらへ向きを変える。
「ぼくは、いわお」
「岩じゃなくて壁だろ」
「ぬりかべ」
「そのままじゃないか」
悠斗は、もう一度保育室を見回した。
目の前にいるものが本物の妖怪だとは、まだ認めたくなかった。
最近の子ども向け衣装はよくできている。
甲羅も角も目玉も、全部作り物に違いない。
そう考えた瞬間、大河が鼻をむずむずと動かした。
「……くしゅん」
小さなくしゃみと同時に、口から火の粉が飛び出した。
悠斗の前髪の先が、ちり、と焦げる。
保育室に、焼けた髪の匂いが漂った。
悠斗は自分の前髪を指でつまんだ。
「……本物?」
大河は申し訳なさそうにうつむいた。
「ごめんなさい」
「鬼、火属性。攻撃範囲は短距離。くしゃみで暴発あり」
「だから、属性で呼ばないでください」
「こうでも考えないと、頭が追いつかないんですよ!」
玄関の呼び鈴が鳴った。
夜久園長が保育室を出ていく。
間もなく、玄関から子どもの激しい泣き声が聞こえてきた。
「嫌だ! 行かない! 帰る!」
「お願い。今日は中へ入ってみよう?」
「嫌だぁ!」
若い母親が、小さな子どもを抱いて立っていた。
子どもの身体は幼いが、顔には深い皺があり、顎には白い髭が生えている。見た目だけなら、老人が子どもの服を着ているようだった。
子どもは母親の首へ両腕を回し、しがみついている。
「降りようね。お母さん、仕事に行かないと」
「嫌だ! みんな、僕を笑うもん!」
「誰も笑わないよ」
「嘘だ!」
子どもが泣くほど、母親の腕が下がっていく。
額には汗が浮かび、両足が震えていた。
「何をしてるんですか?」
悠斗が尋ねる。
夜久園長が小声で答えた。
「子泣き爺の子です。泣くと身体が重くなるんです」
「どれくらい?」
「今は百キロほどでしょうか」
「その小ささで?」
「さらに泣けば、もっと重くなります」
母親は懸命に子どもを支えていた。
「あ、あの……私、仕事が……」
声が震えている。
夜久園長が子どもへ手を伸ばすと、子どもは悲鳴を上げた。
「触らないで!」
母親の身体が大きく沈んだ。
それ以上、引き離すことはできなかった。
しばらくして、母親はうつむいた。
「すみません。今日は、仕事を休みます」
子どもを抱え直し、ゆっくりと玄関を出ていく。
背中を丸め、一歩ずつ暗い道を帰っていく姿を、夜久園長は黙って見送った。
「前にも来たことがあるんですか?」
悠斗が尋ねた。
「はい。少し嫌なことがあってから、登園できなくなりました」
「だったら、来なくていいんじゃないですか」
夜久園長が悠斗を見る。
「本人が嫌がってるんだし。一人減れば、世話も楽になるでしょう」
「そうですね」
園長はそれだけ言って、保育室へ戻った。
責められたわけではない。
それなのに悠斗は、なぜか落ち着かない気持ちになった。
保育室では、こはくが積み木を崩し、久太郎が床に水をこぼし、めめが何もない場所へ向かって話しかけていた。
「本当に何も見えてないんじゃないか?」
「見えてるもん」
「俺はこっちだ」
「分かってるもん」
先ほどから、めめの百個の目は一つも悠斗へ向いていなかった。
いわおが倒れた積み木に驚き、身体を大きな壁へ変える。
保育室の真ん中が完全に塞がれた。
「ちょっと待て! 通れない!」
「ごめんなさい」
「謝るなら戻ってくれ!」
「驚いたから、しばらく無理」
「ゲームなら完全に進行不能だぞ!」
「せんせぇ」
背後から、間延びした声が聞こえた。
振り返ると、小さな牛が立っていた。
柔らかな茶色の毛に覆われた、子牛ほどの身体。四本の脚の先には、小さな蹄がある。尻尾がゆっくりと左右へ揺れていた。
だが、首から上にあるのは牛の頭ではない。
幼い男の子の顔だった。
眠そうな目を半分だけ開き、口もわずかに開いている。悠斗と目が合っているのかどうかも分からない。
「……今度は牛?」
「こと」
「牛の鳴き声にしては変だな」
「名前ぇ。こと」
「ああ、名前か」
悠斗がしゃがむと、ことはぼんやりと顔を上げた。
「新しい、せんせぇ?」
「今日だけな」
「ふぅん」
興味があるのかないのか、ことの表情からは読み取れない。
ことは少し考えるように宙を見つめた。
「せんせぇ」
「何?」
「あしたはぁ――」
保育室の反対側で、久太郎が叫んだ。
「園長先生! ことちゃんが予言しようとしてる!」
それまで落ち着いていた夜久園長の顔色が変わった。
「黒川さん、その子の口を塞いで!」
「え?」
「早く!」
ことは眠そうな顔のまま、続きを口にしようとする。
「あしたはぁ、大きな――」
悠斗は言われるまま、目の前にある小さな口を片手で塞いだ。
「んむぅ」
保育室が静まり返った。
悠斗は、ことの口を塞いだまま夜久園長を見る。
「……何なんですか?」
「助かりました」
「何が?」
「もう少し遅ければ、大変なことになっていました」
「だから、何が?」
ことは特に驚いた様子もなく、牛の尻尾をのんびりと左右へ揺らしている。
「んー。んむぅ」
「お前も続きを言おうとするな」
悠斗が手を離しかけると、夜久園長と久太郎が同時に叫んだ。
「まだ駄目です!」
「離しちゃ駄目!」
「いつまで塞いでればいいんだよ!」
悠斗の手の中で、ことはゆっくりと一度まばたきをした。
雇用契約も、仕事の説明も、研修もない。
黒川悠斗の初仕事は、人の顔をした牛の口を塞ぐことだった。




