第一章 内臓か、就職か!
第一章 内臓か、就職か!
黒川悠斗、二十四歳。
職業、なし。
彼の一日は、世間一般の人々が一日を終える頃に始まる。
午後六時。
遮光カーテンの隙間から夕日が差し込み、暗い部屋の床を細長く照らしていた。
ベッドの上には脱ぎ捨てた服。枕元には空のペットボトル。机には菓子の袋と、飲み終えたエナジードリンクの缶が並んでいる。
その真ん中で、悠斗はヘッドセットをつけ、パソコンの画面を睨んでいた。
「左、左! そっちじゃない! 回復役、何してるんだよ!」
画面の中では、巨大な魔物が炎を吐いている。
悠斗の操作する剣士は、その足元をすり抜け、背後へ回り込んだ。赤く光る弱点へ攻撃を叩き込む。
「よし! あと一割!」
そのとき、部屋の扉が開いた。
「悠斗」
「今は無理」
「あんた、昨日もそう言ったよね」
「これは昨日の続きだから」
「だったら、昨日からずっと無理なの?」
母、深雪の声だった。
悠斗は振り返らない。
「ちょっと待って。もう終わる。五分」
「その五分、何年続いてるの?」
「今、大事なところなんだよ!」
直後、画面が真っ暗になった。
パソコンだけではない。部屋の照明も、エアコンも、充電中だったスマートフォンも、すべて一斉に電源が落ちた。
「は?」
悠斗はようやく振り返った。
開いた扉の前に、深雪が立っている。
五十を過ぎているはずだが、年齢より若く見える。肩までの黒髪を後ろでまとめ、白いブラウスに細身のパンツ。片手には、家の分電盤から抜いてきたらしい小さな部品を持っていた。
「母さん! 何してるんだよ!」
「話し合い」
「電気を止めて始めるものじゃないだろ!」
「止めなかったら、こっちを見ないでしょう」
その通りだった。
悠斗は舌打ちしながらヘッドセットを外した。
「それで、何?」
「仕事、決まったから」
「誰の?」
「あんたの」
悠斗は数秒、母親の顔を見つめた。
それから、再びパソコンへ向き直る。電源が落ちているため、画面には不機嫌そうな自分の顔が映っていた。
「聞かなかったことにする」
「明日から、あんたの夕飯はないからね」
「ちょうどダイエットしようと思ってた」
「Wi-Fiも解約する」
悠斗は振り返った。
「人の生活基盤を人質にするなよ」
「生活基盤は衣食住。Wi-Fiは入ってない」
「現代人には入ってる!」
深雪は答えず、持っていた封筒から数枚の紙を取り出した。
「高校を卒業してから六年。あんたにかかった費用を計算してみたの」
「どうして?」
「暇だったから」
差し出された紙を、悠斗は受け取らなかった。
深雪は構わず、机の菓子袋の上へ置く。
そこには細かな文字と数字が、びっしり並んでいた。
食費。
光熱費。
通信費。
国民年金。
健康保険。
衣類。
日用品。
ゲーム用パソコン購入補助。
壊された椅子、一脚。
夜中に作らされた焼きそば、二百十八食。
「待って。焼きそば一食が千円になってる」
「深夜料金」
「ぼったくりじゃないか!」
「嫌なら自分で作ればよかったでしょう」
さらに、見覚えのない項目もあった。
「精神的負担、月十万円……何だよ、これ」
「毎日あんたの顔を見て、母さんが受けた損害」
「一緒に住んでるだけで請求されるの?」
「親子でも礼儀は必要でしょう」
「というか、合計がおかしいだろ!」
最下部に、太い赤字で金額が書かれていた。
総額、三千万円。
「家が一軒買えるじゃないか!」
「安い家ならね」
「俺一人に六年で、こんなにかかるわけないだろ!」
「利息」
「闇金よりひどい!」
深雪はもう一枚、紙を取り出した。
一番上に大きく、こう書かれている。
――借用書。
「いや、借りた覚えないし」
「今から署名すればいいでしょう」
「するわけないだろ!」
「だったら、働いて返すか、内臓を売るか。選んで」
悠斗は笑った。
母親なりの冗談だと思った。
だが、深雪は笑っていない。
「……俺の内臓、三千万円もしないだろ」
「足りない分は生命保険で払えばいいから」
「殺す気じゃないか」
「安心して。母さんが責任を持って、使えるものは全部きれいに売ってあげる」
「何をどう安心すればいいんだよ!」
深雪の顔は本気だった。
子どもの頃から、悠斗は母親が怒るところを何度も見ている。
テストで赤点を取ったとき。
学校をさぼったとき。
高校卒業後、一年だけと言って家に引きこもり、その一年が六年になったとき。
しかし今日の深雪は、これまでとは何かが違う。
妙に静かだった。
部屋の温度まで、少し下がったような気がする。
「仕事って、何?」
悠斗が尋ねると、深雪はわずかに口元を緩めた。
「保育園」
「無理」
即答だった。
「子どもは嫌いだから」
「会ったこともない子を嫌わないの」
「うるさいし、泣くし、何をするか分からないし」
「あんたもそうだった」
「俺はもう泣かない」
「お金がなくなると泣くでしょう」
「泣いてない。交渉してるだけだ」
「働けば、お金をもらえるよ」
「はあ? ニートは働いたら負け――」
深雪が借用書を持ち上げた。
紙が、悠斗の目の前でぺらぺらと揺れる。
「だったら、内臓を売る?」
「……働かせていただきます」
悠斗は敗北した。
◇
午後七時。
悠斗は母親の運転する軽自動車の助手席に座っていた。
外はすでに暗い。
住宅街を抜け、川沿いの道を走り、車は少しずつ街灯の少ない方へ向かっていく。
「普通、保育園って朝からじゃないの?」
「そこは夜だけ」
「夜間保育?」
「そんなもの」
「俺、資格ないけど」
「大丈夫」
「何が?」
「人がいないから」
「一番駄目な理由だろ」
スマートフォンで場所を調べようとしたが、深雪は保育園の名前を教えなかった。
やがて車は、古い木造の建物の前で止まった。
二階建ての園舎。広い庭。色あせた遊具。
門の脇には、木でできた看板が立っている。
月明かりの下で、彫られた文字が白く浮かび上がっていた。
――宵待保育園
その下には、小さく開園時間が書かれている。
開園、日没。
閉園、日の出前。
「……ねえ、母さん」
「何?」
「ここ、本当に保育園?」
「そう言ったでしょう」
園舎の奥から、子どもの笑い声が聞こえた。
続いて、何か重いものが床を這うような音。
ずるり。
ずるり。
悠斗は車から降りるのをやめた。
「帰ろう」
「行きなさい」
「明日からにしない? 今日は見学ということで」
「今日から勤務だから」
「心の準備が――」
深雪は車を降りると助手席側へ回り、扉を開けた。
悠斗の服の襟をつかむ。
「ちょっと待て! 自分で降りる! 首が締まる!」
「六年待った。もう待たない」
そのまま引きずり出され、悠斗は宵待保育園の門をくぐった。
背後で、鉄の門が閉まる。
がしゃん。
やけに大きな音が、夜の闇へ響いた。




