第十九章 雪女の息子
第十九章 雪女の息子
炎の熱が、悠斗の頬へ届いた。
切れた電線が、濡れた地面の上で火花を散らしている。
倒れた木の枝へ移った火が、風にあおられて広がった。
神社の拝殿へ続く石段は、その向こうにある。
後ろの道は落石で塞がれていた。
前には、炎と電線。
園児たちが悠斗を見ている。
「悠斗先生」
小吉が震える声で呼んだ。
「おかあさん、来る?」
「来る」
悠斗は答えた。
「でも、お前がここで待っていたら来られない。先に安全なところまで行くぞ」
「どうやって?」
「今考えてる」
「まだ?」
「急かすな」
「火、来てる」
「分かってる!」
悠斗は周囲を見た。
右は斜面。
左は増水した水路。
正面の石段へ行くには、燃えている木のそばを通らなければならない。
「夜久園長、ほかに道は?」
「拝殿の裏へ回る道があります」
「どこから?」
「あの火の向こうです」
「同じじゃねえか!」
「申し訳ありません」
「今謝られても困る!」
風向きが変わった。
炎が大きく揺れ、園児たちの方へ倒れ込む。
「下がれ!」
悠斗は、ことを夜久園長へ渡した。
両腕を広げ、園児たちの前へ立つ。
熱い。
それなのに、体の奥は妙に冷えていた。
心臓の辺りから、冷たいものが全身へ広がっていく。
指先が痛い。
吐いた息が、白くなった。
「悠斗君」
夜久園長の声がした。
「何ですか」
「足元を」
悠斗は下を見た。
靴の周りに、薄い霜が広がっていた。
「は?」
濡れて黒くなっていた石が、白く凍っている。
霜は悠斗の足元から、細い筋となって伸びていた。
「何だ、これ」
「悠斗先生、白い」
めめが言った。
「見れば分かる」
「冷たい」
きゅうが霜を触ろうとする。
「触るな!」
「何で?」
「俺にも分からないからだよ!」
炎が、また大きく揺れた。
火の粉が飛んでくる。
悠斗は反射的に手を上げた。
「来るな!」
冷たい風が吹いた。
悠斗の手のひらからではない。
足元から広がった霜が、地面を走る。
濡れた石を凍らせ、倒れた木の幹を白く覆っていく。
燃えていた枝に霜がついた。
炎が小さくなる。
さらに白い氷が重なり、火を包み込んだ。
一瞬前まで赤く燃えていた枝が、白い塊へ変わった。
辺りが静かになった。
「消えた」
こはくが呟いた。
悠斗は自分の手を見た。
「俺が?」
「ほかに誰がいるの?」
きゅうが答えた。
「知らねえよ」
「悠斗先生、氷出した」
「出してない」
「出たよ」
「勝手に出たんだよ!」
「同じじゃない?」
「全然違う!」
切れた電線は、まだ地面で火花を散らしている。
夜久園長が声を上げた。
「火が消えても、電線へは近づかないでください!」
「道は?」
「左端を通れば、距離を取れます」
めめが眼鏡を押し上げた。
全身にある百の目で、暗い道を確かめる。
「左、通れる。電線から離れてる」
「地面は?」
「濡れてる」
悠斗は左側の地面へ手を向けた。
もう一度できるかは分からない。
さっき、どうやったのかも分からない。
「凍れ」
何も起きなかった。
「言葉で出すものではないと思います」
夜久園長が言った。
「じゃあ、どうやるんですか!」
「悠斗君の力ですから、私にも」
「役に立たねえな!」
「よく言われます」
炎の熱を思い出す。
後ろで自分を見ていた園児たちを思い出す。
小吉の「おかあさん、来る?」という声。
ここを通れなければ、全員が危ない。
悠斗は息を吐いた。
白い息が、長く伸びる。
足元から、再び霜が走った。
濡れた道の左側だけが白く凍り、細い道ができる。
「できた」
悠斗自身が、一番驚いた。
「悠斗先生、すごい!」
こはくが言った。
「今は褒めなくていい!」
「何で?」
「あとで自分が何者なのか考える時間が必要なんだよ!」
悠斗は凍った道へ足を置いた。
滑らない。
表面はざらついている。
「一人ずつ来い。電線には絶対近づくな」
最初に、めめ。
めめは眼鏡をかけたまま、足元と電線の位置を確かめて進む。
次に、大河。
こはくは、小吉の手を握っている。
「怖い」
小吉が言った。
「俺が先にいる」
悠斗は手を伸ばした。
「こはくも後ろにいる。三歩だけ来い」
「三歩?」
「三歩来たら、また三歩だ」
「ずっと三歩?」
「そうだ」
小吉は一歩進んだ。
二歩。
三歩。
悠斗の手をつかむ。
「来た」
「ああ。次の三歩」
小吉は悠斗の手を握ったまま、凍った道を渡り切った。
こはくが続く。
耳と尻尾は出たままだが、まだ悠斗の姿を保っている。
「悠斗先生が二人」
小吉が少し笑った。
「偽物の方が耳つきだ」
「偽物じゃないよ」
「今はどっちでもいい。次!」
いわおが通る。
きゅうは夜久園長の背中から下り、自分で歩いた。
「滑る?」
「ざらざらしてるから大丈夫だ」
「河童は氷も泳げる?」
「泳ぐな。歩け」
最後に、夜久園長がことを抱いて渡る。
悠斗は全員が通り終えるまで、その場に残った。
氷の道のすぐ横では、切れた電線が火花を散らしている。
「悠斗君!」
夜久園長が呼ぶ。
「今行きます!」
悠斗も氷の上を走った。
渡り切った瞬間、背後で氷が割れた。
悠斗は振り返らなかった。
「石段を上がれ!」
全員で拝殿へ向かう。
そのとき、上から誰かが下りてきた。
白い息を吐きながら、長い髪を後ろへ束ねた女が、石段の途中に立っている。
深雪だった。
「悠斗」
「母さん?」
深雪は園児たちを見た。
悠斗の足元から続く霜を見る。
凍った木と、白くなった道を見る。
「やっと出たのね」
「説明することあるだろ!」
「遅いわよ。二十年以上かかったじゃない」
「俺が妖怪だって二十年以上黙ってたことを怒ってるんだよ!」
「今はそれどころじゃないでしょう」
「誰のせいだ!」
「帰ってから話すわ。今は子どもを運びなさい」
深雪は、夜久園長からことを受け取った。
「ことちゃん、寒くない?」
「ちょっとぉ」
深雪がことを抱き直す。
ことの濡れた毛から、白い湯気が上がった。
「母さんが抱いたら余計寒いだろ」
「加減くらいできるわよ」
「俺はできないんだけど!」
「練習しなさい」
「今!?」
「あとでいいわ」
「どっちだよ!」
深雪は園児たちを見渡した。
「ほら、上まで行くわよ。まだ終わってないでしょう」
その声で、悠斗も我に返った。
「そうだ。全員、拝殿まで行くぞ」
「悠斗先生のお母さん?」
きゅうが深雪を見上げる。
「そうよ」
「雪女?」
「そうよ」
「悠斗先生も雪女?」
「息子だから雪男ね」
「勝手に決めるな!」
「じゃあ、雪無職」
「もっと嫌だよ!」
「今は働いているから、雪先生ね」
「もう何でもいい! 歩け!」
園児たちが石段を上る。
深雪と夜久園長が両側につく。
悠斗は最後尾から、全員の姿を確認した。
きゅう。
めめ。
大河。
こはく。
いわお。
小吉。
こと。
夜久園長。
深雪。
全員いる。
拝殿の前まで上がると、夜久園長が社務所の扉を開けた。
園児たちが中へ入る。
悠斗は名簿を取り出した。
「また数えるの?」
きゅうが尋ねる。
「何回でも数える」
「さっき全員いたよ」
「今もいるか確認するんだよ」
悠斗は一人ずつ名前を呼んだ。
全員の返事を聞く。
最後に、自分の名前は書かれていない名簿を見た。
「悠斗」
深雪が呼んだ。
「いるよ」
「ならいいわ」
悠斗は名簿を閉じた。
窓の外では、裏山がまだ低い音を立てている。
宵待保育園の方角は、暗くて見えなかった。
「園は?」
悠斗が尋ねる。
夜久園長は、少し間を置いて答えた。
「無事ではないでしょうね」
「そうですか」
「ですが、園児は全員無事です」
悠斗は、社務所の中を見た。
濡れた服。
泥だらけの足。
震える手。
泣いている子もいる。
それでも全員、生きている。
「十五連勝」
悠斗が呟いた。
「今日のは、一勝でいいの?」
きゅうが尋ねる。
「百勝分くらい働いたからな」
「じゃあ、百十五連勝?」
「そういうことにしとくか」
「キュウリも百十五本?」
「それは二本だ」
「けち!」
悠斗は、その場へ座り込んだ。
急に全身から力が抜けた。
冷たかった体に、少しずつ熱が戻ってくる。
「母さん」
「何?」
「三千万円の中に、妖怪だって黙ってた慰謝料は入ってる?」
「入ってないわ」
「じゃあ、そこから引いといて」
「別料金よ」
「取る方なのかよ」
深雪は笑った。
悠斗も、少しだけ笑った。
窓の外では、満月が静かに浮かんでいた。




