第十八章 みんなのできること
第十八章 みんなのできること
「全員、走れ!」
悠斗が叫んだ。
裏山から、濡れた土が崩れ落ちる。
木々が傾き、根が地面から引き抜かれる音がした。
園児たちは一斉に走り出した。
「前だけ見ろ! 止まるな!」
悠斗は先頭を走りながら、何度も後ろを振り返った。
きゅう。
めめ。
大河。
こはく。
小吉。
こと。
いわお。
夜久園長。
全員いる。
地面が大きく揺れた。
小吉がよろめき、こはくの手を強く握る。
「怖い!」
「大丈夫!」
こはくが叫んだ。
その姿が揺らぐ。
髪が黒くなり、背が伸びる。
悠斗と同じ黒いジャージ姿へ変わった。
耳と尻尾は残っている。
「悠斗先生が二人いるから、大丈夫!」
「耳のある方についていけ!」
悠斗が前から叫ぶ。
「どっち?」
小吉が泣きそうな声を出した。
「耳のある方だ!」
「悠斗先生じゃない方?」
「今は悠斗先生でいい!」
こはくが小吉の手を引いた。
「走るよ」
「重くなる」
「重くなる前に走る!」
「できない」
「できる。昨日、玄関まで歩けた」
「昨日は揺れてない!」
「今日は私がいる!」
こはくは悠斗の顔のまま、小吉の手を引いて走った。
小吉の足は止まらなかった。
*
保育園の方から、大きな音がした。
土砂が園庭の柵へぶつかり、金属がひしゃげる。
同時に、道沿いの街灯がすべて消えた。
辺りが暗闇に沈む。
「停電です!」
夜久園長の声が後ろから聞こえた。
「分かってます!」
悠斗は持ち出し袋を開け、懐中電灯を取り出した。
スイッチを入れる。
細い光が、濡れた道を照らした。
前方で、道が二つに分かれている。
右は神社へ続く近道。
左は少し遠回りになる。
悠斗は右へ曲がろうとした。
「待って!」
めめが叫んだ。
悠斗は足を止めた。
「どうした?」
「右、駄目」
「何で?」
「道がない」
懐中電灯を向ける。
悠斗には道が続いているように見えた。
「あるだろ」
「途中からない」
めめは赤い眼鏡を押し上げた。
顔の二つだけではなく、全身にある百の目が一斉に前を向いている。
「水で削れてる。端っこが浮いてる」
悠斗は目を凝らした。
暗くてよく見えない。
数歩進みかけると、夜久園長が腕をつかんだ。
「めめさんを信じましょう」
悠斗は足元の石を拾い、道の先へ投げた。
石が落ちた。
地面へ当たる音はしなかった。
しばらくして、はるか下から水音が聞こえた。
「左へ行く!」
悠斗はすぐに向きを変えた。
「めめ、前を見てくれ。危ない場所があったら全部言え」
「全部?」
「見えるもの全部だ」
めめは一瞬だけ黙った。
以前なら、「全部見える」と強がっていた。
今は眼鏡をかけ直し、はっきりとうなずいた。
「分かった」
「頼む」
めめが悠斗の隣を走る。
「そこ、木の枝」
悠斗がまたぐ。
「左に穴」
後ろへ伝える。
「先に大きい石。右から行ける」
「聞こえたか!」
悠斗が振り返る。
地鳴りに声がかき消される。
後ろの園児たちまで届いていない。
大河が立ち止まった。
両手を口の横へ当てる。
「右から行って!」
大きな声が、暗い道へ響いた。
悠斗が振り向く。
大河自身が、一番驚いた顔をしていた。
「聞こえた!」
きゅうが答える。
「もう一回頼む!」
悠斗が叫んだ。
大河は息を吸った。
「右から行って! 左は穴!」
今度は、さらに大きな声が出た。
小吉が右へ寄る。
こはくとことも続く。
いわおが最後尾から「聞こえた」と答えた。
「その調子だ、大河!」
悠斗が言うと、大河は口を閉じた。
「今、恥ずかしがるな!」
「恥ずかしくない!」
「聞こえた!」
「言ってない!」
「それも聞こえた!」
*
神社へ続く道の脇には、細い水路が流れていた。
普段なら、水の深さはきゅうの足首ほどしかない。
今夜は違った。
三日分の雨水が流れ込み、茶色い水が勢いよく走っている。
「端へ寄るな!」
悠斗が声を上げた。
めめが先を確認する。
「この先、水が道まで来てる」
「通れるか?」
「真ん中なら」
「一列になれ! こはく、小吉から手を離すな!」
「ことちゃんもいる!」
「両方離すな!」
「手が二本しかない!」
「足りてるだろ!」
こはくは右手で小吉、左手でことをつかんだ。
水が靴の下を流れていく。
浅く見えるが、流れは強かった。
悠斗が先に進み、一人ずつ通す。
「きゅう」
「はい!」
「めめ」
「いる」
「大河」
「います!」
「こはく」
「いるよ!」
「小吉」
「いる!」
「こと」
返事がなかった。
悠斗が振り返る。
こはくの左手が空いている。
「ことは?」
「今までいた!」
こはくが叫んだ。
水路から、小さな声が聞こえた。
「あしたはぁ」
「今それを言うな!」
ことの黒い体が、水路を流されていた。
短い脚を動かしているが、岸へ上がれない。
「こと!」
悠斗が水路へ向かう。
その横を、きゅうが走り抜けた。
「待て!」
きゅうは甲羅の水入り袋を投げ捨て、水路へ飛び込んだ。
大きな水音が上がる。
「きゅう!」
「河童だから!」
「泳げないだろうが!」
「今は四秒できる!」
「四秒で何ができるんだよ!」
きゅうは水をかき、ことへ近づいた。
顔へ水がかかるたび、目を閉じる。
体が横へ流される。
それでも、ことの前足をつかんだ。
「悠斗先生!」
悠斗は腹ばいになり、水路へ腕を伸ばした。
「こっちへ来い!」
「むり!」
「河童だろ!」
「まだ練習中!」
「知ってるよ!」
きゅうの甲羅が水面から出る。
悠斗は、その縁をつかんだ。
夜久園長が悠斗の腰を支える。
二人で引く。
きゅうとことの体が、水路から引き上げられた。
きゅうは地面へ転がると、激しく咳き込んだ。
「水、飲んだ」
「吐け」
「おなかいっぱい」
「よかったな。今夜のキュウリは一本減らす」
「何で!」
「勝手に飛び込んだからだ!」
「ことちゃん助けた!」
「それはよくやった!」
悠斗は怒鳴りながら、きゅうの体を抱き起こした。
「でも次は、飛び込む前に言え!」
「言ったら止めるでしょ」
「当たり前だ!」
「じゃあ言わない!」
「こいつ!」
ことは地面へ座り込み、何度か咳をした。
やがて、きゅうを見上げる。
「ありがとぉ」
きゅうは胸を張った。
「河童だから!」
「四秒しか泳げないけどな」
「今日は五秒!」
「数えてたのかよ」
*
再び地面が揺れた。
山の方から、何かが転がってくる音がする。
「進め!」
悠斗はことを抱き上げた。
夜久園長がきゅうを背負う。
「自分で歩ける!」
「今は休んでください」
「キュウリ二本!」
「それは悠斗君と交渉してください」
「園長、こっちへ投げないでください!」
神社の鳥居が見えてきた。
あと少しだった。
「危ない!」
めめが叫ぶ。
「上!」
斜面から、折れた木といくつもの石が落ちてくる。
逃げるには間に合わない。
「いわお!」
大河の声が響いた。
最後尾にいたいわおが、前へ出る。
走りながら、自分で道の端を見た。
右は水路。
左は斜面。
正面を塞げば、みんなが通れない。
いわおは鳥居の手前、道から少し外れた場所へ立った。
「ここなら、いい?」
悠斗は位置を見た。
園児たちの逃げ道は残っている。
「ああ! そこでいい!」
いわおの体が大きくなる。
手足が縮み、平たい壁へ変わった。
道のすべてを塞がず、斜面側だけを覆う。
「みんな、壁の横を通れ!」
悠斗が叫ぶ。
最初の石が、いわおの体へぶつかった。
鈍い音がする。
「いわお!」
「大丈夫!」
次に、折れた木の枝が当たる。
いわおの体が揺れた。
それでも倒れない。
「早く!」
大河が叫ぶ。
こはくが小吉を連れて走る。
めめが続く。
夜久園長は、きゅうを背負ったまま通り抜けた。
悠斗も、ことを抱いて鳥居の下へ入る。
「いわお、戻れ!」
壁が小さくなる。
いわおは人の姿へ戻ると、自分で選んだ隙間から走り抜けた。
その直後、さらに大きな石が道へ落ちた。
今までいわおが立っていた場所を、完全に塞いだ。
「全員いるか!」
悠斗は名簿を開いた。
「きゅう!」
「いる!」
「めめ!」
「いる!」
「大河!」
「います!」
「こはく!」
「いるよ!」
「いわお!」
「いる!」
「小吉!」
「いる!」
「こと!」
悠斗の腕の中で、ことが前足を上げた。
「いるぅ」
「夜久園長!」
「います」
「俺!」
「いる!」
きゅうが先に答えた。
「お前が答えるな」
「いるでしょ?」
「いるよ」
全員いる。
一人も欠けていない。
悠斗は息を吐いた。
「拝殿まで行くぞ。ここもまだ安全とは限らない」
石段を上がろうとしたとき、背後から鋭い音がした。
電柱が、大きく傾いている。
電線が引っ張られ、火花を散らした。
切れた電線が地面へ落ちる。
青白い光が弾けた。
濡れた木の枝へ火が移る。
「火!」
こはくが叫んだ。
炎は雨上がりの風にあおられ、避難する園児たちの前へ広がった。
悠斗は、ことを抱いたまま立ち止まった。
後ろの道は、落石で塞がれている。
前には炎がある。
園児たちが、悠斗を見た。
「悠斗先生」
小吉が、震える声で呼んだ。
炎の熱が、悠斗の頬へ届いた。




