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宵待保育園  作者: もちむぎ


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第十七章 それ、今日やないかーい

第十七章 それ、今日やないかーい


 雨に濡れた裏山の上に、丸い月が浮かんでいた。


 悠斗はノートへ目を戻した。


 もう一度、一日目から文字を追う。


 まんげつのよる。


 うらやまがくずれ。


 最後に何が続くのかは書かれていない。


 それでも、ほかの言葉が続くとは思えなかった。


 崩れない。


 崩れた。


 崩れそう。


 どれであっても、裏山に何かが起きる。


 しかも、今夜は満月だった。


「それ、今日やないかーい!」


 悠斗の声に、園児たちが一斉に振り向いた。


「なにが?」


 きゅうが尋ねる。


「避難訓練だ!」


「今から?」


「今すぐ!」


 悠斗は立ち上がった。


 玄関へ走り、隅に置かれた持ち出し袋をつかむ。


「園長!」


 職員室の扉が開いた。


「どうしました?」


「ことの文字、繋がりました」


 悠斗はノートを開いて見せた。


「満月の夜、裏山が崩れ――そこで止まってます」


 夜久園長が文字を目で追う。


「最後まで完成していませんね」


「完成するまで待つんですか?」


「いいえ」


 夜久園長はすぐに保育室へ入った。


 壁にかかった笛を手に取る。


「避難します」


「園長、信じるんですか」


「信じていないのですか?」


「信じてるから呼んだんですよ」


「では、急ぎましょう」


 夜久園長が笛を鳴らした。


 甲高い音が保育室に響く。


 園児たちは、遊びの途中で手を止めた。


「避難訓練?」


 こはくが尋ねる。


「そうだ」


 悠斗は答えた。


「前にやった通りに動け。きゅうは水入りの袋。めめは眼鏡を外すな。大河は俺の声が聞こえなかったら、代わりにみんなへ伝える。こはくは小吉とこと。いわおは青い印の場所へ行け」


「本当の避難?」


 めめの百の目が、悠斗を見た。


 悠斗は一瞬だけ迷った。


 遊びだと言った方が、怖がらせずに済む。


 しかし、そうすれば園児たちはふざけるかもしれない。


「本当かもしれない」


「かもしれない?」


「まだ分からない。でも、分かってからじゃ遅い」


 きゅうが手を挙げた。


「キュウリは?」


「持っていかない」


「非常食!」


「持ち出し袋に昆布が入ってる」


「キュウリがいい!」


「命とキュウリ、どっちが大事だ!」


「キュウリ!」


「聞いた俺が馬鹿だった!」


 悠斗は水入りの背負い袋を、きゅうの甲羅へ引っかけた。


「重い」


「前の訓練でも背負えただろ」


「今日はキュウリがないから力が出ない」


「避難できたら買ってやる」


「十本?」


「一本」


「五本」


「二本」


「決まり!」


「勝手に交渉を成立させるな!」


 口では文句を言いながらも、きゅうは玄関へ走った。


「小吉」


 悠斗が呼ぶと、小吉はその場で固まった。


「おかあさんは?」


「仕事だ」


「電話する」


「外へ出てからだ」


「今する」


「今は歩け」


 小吉の体が、少しずつ重くなる。


 床板が小さく鳴った。


「小吉」


 こはくが隣へ立った。


 姿がゆっくりと変わる。


 髪が黒くなり、顔が悠斗に近づいた。


 耳と尻尾は残っている。


「俺が二人いるだろ」


 こはくが、悠斗の声を真似た。


 小吉が二人を見比べる。


「こはくちゃん」


「何で分かるの?」


「尻尾」


 こはくは尻尾を前へ回して隠した。


「今は悠斗先生」


「本物はこっちだ」


「二人いるから大丈夫」


 こはくが小吉の手を握る。


 小吉の体が、それ以上重くなるのを止めた。


「おかあさん、外から電話する?」


「ああ。約束する」


「絶対?」


「絶対だ」


 小吉は、こはくと一緒に玄関へ向かった。


「ことも連れていけ」


 悠斗が言うと、ことは自分で立ち上がった。


「あしたはぁ」


「今は言わなくていい!」


 悠斗は反射的に、ことの口を塞いだ。


 ことは不思議そうに目を瞬く。


「続きは明日にしろ」


 意味が分かったのか、分からなかったのか。


 ことは一度だけうなずいた。


          *


 夜久園長は保護者たちへ連絡を始めた。


 悠斗は持ち出し袋から名簿を出し、園児の名前を確認する。


「きゅう」


「いる!」


「めめ」


「いる」


「大河」


「います」


「聞こえた。こはく」


「いるよ」


「いわお」


「ここ」


「小吉」


「いる」


「こと」


「いるぅ」


「全員いるな」


「僕もいますよ」


 夜久園長が電話を耳に当てたまま言った。


「園長は見れば分かります」


「点呼は全員分行うものです」


「じゃあ、夜久園長」


「います」


「俺」


 悠斗は自分で言って、名簿へ丸をつけた。


「いる」


 きゅうが笑った。


「自分で言った」


「うるさい」


 園庭へ出る。


 雨は完全に止んでいた。


 雲は流れ、月の周囲だけ空が明るい。


 何も起きていない。


 裏山も、いつもと変わらずそこにある。


「本当に崩れるの?」


 めめが尋ねた。


「分からない」


「崩れなかったら?」


「戻る」


「それだけ?」


「それだけだ」


「避難したの、無駄になる?」


「無駄でいいんだよ」


 悠斗は答えた。


「何も起きなくて、みんなで戻って、夜久園長に文句を言われて、俺が始末書を書く。それで終わるなら、その方がいい」


「僕は文句を言いませんよ」


「園長は少しくらい怒ってください」


「では、始末書は三枚で」


「多いな」


 夜久園長が門を開けた。


 避難先は、裏山とは反対側にある古い神社だった。


 前の訓練で決めてある。


 歩けば十分。


 園児を連れていれば、十五分ほどかかる。


「列になるぞ。前と同じだ」


 悠斗が先頭へ立つ。


 後ろには、きゅうとめめ。


 その次に、大河。


 こはくは小吉とことの間を歩く。


 いわおは最後尾。


 夜久園長が、さらに後ろから全員を見る。


「走らなくていい。ただし止まるな」


 悠斗は何度も後ろを振り返った。


 全員いる。


 誰も転んでいない。


 いわおも通路を塞いでいない。


 小吉の足も動いている。


 保育園の門を出た。


 水たまりを避け、細い道へ入る。


 大河が、小さな声で言った。


「月、きれい」


「今は月見してる場合じゃない」


「満月」


「ああ」


「ことちゃん、分かったの?」


 悠斗は歩きながら、ことを見た。


 ことは、こはくに手を引かれている。


 いつもと変わらない顔だった。


「分かったんじゃないか」


「でも、最後まで言ってない」


「最後まで言わなくていい」


「そうなの?」


「途中でも、俺には分かった」


 ことが悠斗を見上げた。


「分かった?」


「ああ」


 悠斗はノートの入ったポケットを押さえた。


「ちゃんと伝わった」


 ことは嬉しそうに笑った。


 その瞬間。


 地面の下から、低い音が聞こえた。


 遠くで雷が鳴ったような音だった。


 しかし空に雲はなく、満月が出ている。


 園児たちの足が止まる。


「何?」


 小吉が、こはくの手を強く握った。


「止まるな!」


 悠斗が叫んだ。


 もう一度、音がした。


 今度は先ほどより近い。


 足元が、わずかに揺れた。


 背後で何かが折れる。


 太い木を、力任せにへし折ったような音だった。


 悠斗は振り返った。


 月明かりの下で、裏山の一部がゆっくりと動いた。


「全員、走れ!」


 濡れた土が、保育園へ向かって崩れ始めた。

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