第十六章 雨上がり
第十六章 雨上がり
雨は、三日間降り続いた。
激しくはない。
傘を差すか迷うほどの細い雨が、朝から晩まで途切れずに降っていた。
四日目の夕方になって、ようやく雨は上がった。
悠斗が宵待保育園へ着いた頃には、雲の切れ間から月が顔を出していた。
園庭には、いくつもの水たまりが残っている。
門を開けると、濡れた土と草の匂いがした。
「こんばんは」
玄関では、夜久園長が傘立てを外へ出していた。
「もう降ってませんよ」
「園児たちが持ってきますから」
「止んでるのに?」
「家を出たときには降っていた地域もあります」
「ああ、妖って遠くから来るんでしたっけ」
「山を二つ越えてくる子もいますよ」
「通園範囲、広すぎません?」
悠斗は靴を脱いだ。
玄関の隅には、緊急時の持ち出し袋が置かれていた。
以前、避難訓練をしたとき、夜久園長が職員室の奥から引っ張り出してきたものだ。
「あれ、まだ置いてるんですね」
「緊急時に、職員室まで取りに戻らなくて済むでしょう?」
「だったら最初から玄関に置いとけよ」
「悠斗君が避難訓練をすると言い出すまで、使ったことがなかったものですから」
「それ、保育園としてどうなんですか」
「開園以来、大きな災害はありませんでした」
「裏山あるのに?」
悠斗は玄関の窓から外を見た。
雨に濡れた山は、いつもより色が濃く見える。
「三日も降って、大丈夫なんですか」
「昼の職員が確認しています。側溝にも裏山にも、異常はなかったそうです」
「ならいいですけど」
「心配ですか?」
「園ごと埋まったら、全員生存記録が止まるんで」
「十三連勝中でしたか?」
「今夜が終わったら十四です」
「では、今夜もよろしくお願いします」
「園長も戦力に入ってますからね」
「もちろんです」
夜久園長が傘立てを玄関脇へ置いた。
その直後、門の外から声がした。
「キュウリの日!」
「違う!」
きゅうが、母親の手を振り切って走ってくる。
「雨が三日降った次の日は、キュウリの日だよ!」
「どこの風習だ」
「河童の里」
「今作っただろ」
「昔からある」
きゅうの母親が、困ったように笑った。
「すみません。朝からずっと言っていて」
「ないですよね、そんな風習」
「少なくとも、私は知りません」
「お母さん!」
「ほら、作り話じゃねえか」
「おばあちゃんが言ってた!」
「今度は確認しにくいところを出してきたな」
きゅうは頬を膨らませた。
「悠斗先生のけち」
「キュウリを持ってこないだけで、けち扱いするな」
「先生じゃなくて、けち」
「格下げするな」
きゅうの母親は、何度も頭を下げながら仕事へ向かった。
そのあとから、めめがやってきた。
顔にかけた赤い眼鏡には、小さな水滴がいくつもついている。
「雨、止んでるのに眼鏡が濡れてるぞ」
「木から落ちてきた」
「拭けよ」
「服で拭いたら駄目って、お母さんが言ってた」
「それは正しい」
悠斗はジャージのポケットから眼鏡拭きを取り出した。
めめが目を丸くする。
「何で持ってるの?」
「お前が毎晩、指紋だらけにするからだよ」
悠斗は眼鏡を受け取った。
めめが眼鏡を外すと、顔の二つだけでなく、全身にある目が一斉に細められた。
眼鏡は顔の二つの目にかけるだけだが、その効果は百の目すべてに表れる。
特注品らしい。
「まだ?」
「今、外したばっかりだ」
「見えない」
「少し待て」
「悠斗先生の顔が丸い」
「ぼやけてるだけだ。普段は丸くない」
「眼鏡をかけても、ちょっと丸い」
「返さないぞ」
「返して」
二枚のレンズを拭いて眼鏡をかけると、百の目が一斉に開いた。
「見える」
「よかったな」
「やっぱり丸い」
「外すぞ」
めめは両手で眼鏡を押さえた。
続いて、大河といわおがやってきた。
こはくは母親の姿で門をくぐったが、耳と尻尾だけは自分のままだった。
「今日はお母さんになったの」
「見れば分かる」
「似てる?」
「耳と尻尾を除けばな」
「そこは見ないで」
「一番目立ってるんだよ」
最後に、小吉とことが登園した。
いつもの顔が、いつものように揃った。
*
「水たまりで泳ぐ!」
全員が揃うと、きゅうが宣言した。
「泳げる深さじゃない」
「顔はつけられる」
「園庭の泥水に顔をつけるな」
「練習!」
「病気になる練習をしてどうする」
「じゃあ、悠斗先生が水をためて」
「嫌だよ」
「仕事でしょ!」
「俺の仕事に、河童の遊泳用プール作りは入ってない」
きゅうは諦めなかった。
バケツを持ち出し、園庭の水たまりから水をくみ始める。
悠斗はすぐに取り上げた。
「だから泥水を集めるな」
「せっかく雨が降ったのに!」
「雨はお前のために降ってない」
「誰のため?」
「知らん。山とか畑とか」
「キュウリ?」
「結局そこへ戻るのかよ」
保育室では、こはくがめめに化けていた。
赤い眼鏡まで再現できている。
ただし、頭には狐の耳が残り、腰から尻尾が出ていた。
「どう?」
こはくがくるりと回る。
「めめ」
大河が小さな声で言った。
「似てる?」
「眼鏡が」
「顔は?」
「……こはく」
「顔もめめちゃんだよ」
「尻尾ある」
「見ないで」
「大河は間違ってないだろ」
悠斗が言うと、こはくは両手で尻尾を隠した。
「もう少しだったのに」
「昨日より上手くなってる」
「本当?」
「ああ。眼鏡はそっくりだ」
本物のめめが、顔を近づけて確かめる。
「私の眼鏡、もっと赤い」
「同じに見えるけどな」
「これは少しオレンジ」
「本人が言うならそうなんだろ」
「悠斗先生は色に心がないから分からない」
「色に心を求めるな」
大河が笑った。
声は小さかったが、悠斗には聞こえた。
*
午前一時。
園児たちは、床に紙を広げて絵を描いていた。
課題は、雨上がり。
きゅうは巨大なキュウリを描いた。
めめは水たまりの中へ、赤や黄色の丸を百個並べた。
こはくは、耳と尻尾のある虹を描いている。
「何で虹に尻尾があるんだよ」
「かわいいから」
「何にでもつければいいと思ってるだろ」
大河の紙には、黒い雲の隙間から小さな月が見えていた。
「上手いな」
悠斗が言うと、大河は紙で顔を隠した。
「褒められたら隠れるな」
「恥ずかしい」
「聞こえた」
「言ってない」
「今、恥ずかしいって言っただろ」
「言ってない」
「最近、小吉みたいになってきたな」
少し離れた場所で、小吉が顔を上げる。
「ぼく?」
「呼んでない」
「呼んだ」
「名前を出しただけだ」
「呼んだのと同じ」
「面倒くさいな、お前ら」
小吉は満足したように、また絵へ戻った。
小吉の紙には、人が八人描かれていた。
六人は園児だろう。
端にいる細長いのが夜久園長。
その隣の、黒い服を着た横長の人間を、悠斗は指差した。
「これ、誰だ?」
「悠斗先生」
「俺、こんなに脚短いか?」
「長くしたら紙から出る」
「ほかのやつより横に広いぞ」
「ふっくらしてるだけ」
「それ、お前の言い方だろ」
小吉は、しれっとクレヨンを動かし続けた。
「園長だけ細くない?」
「夜久先生は、キュウリ食べてないから」
「キュウリで体形は決まらない」
「きゅうちゃんが言ってた」
「河童の情報を信用するな」
「キュウリは体にいいんだよ!」
きゅうが遠くから叫んだ。
「お前はキュウリを食って、その体形だろ」
「ふっくらしてるだけ!」
「全員それで押し通すな」
ことは、みんなの絵を順番に眺めていた。
自分の前に置かれた紙には、何も描かれていない。
「ことは描かないのか?」
ことは悠斗を見た。
口が、ゆっくりと開く。
「あしたはぁ」
「それは描かなくていい」
悠斗は、ことの口を塞いだ。
ことは暴れなかった。
悠斗の手を前足で軽く押し、一度だけうなずく。
「一文字?」
もう一度、うなずいた。
悠斗は手を離した。
ことは息を吸った。
「れ」
「れ?」
ことは満足したように目を細めた。
「分かった。書いとく」
悠斗はジャージのポケットから小さなノートを取り出した。
ことが一文字だけ伝えるようになってから、言われるたびに書き残している。
最初は、しりとりのような遊びだと思っていた。
意味があるとも思っていなかった。
新しいページに日付を書き、その横へ「れ」と記す。
ノートを閉じようとして、前のページが目に入った。
昨日の文字は、「ず」。
その前は、「く」。
悠斗は、さらに一枚めくった。
「が」
もう一枚。
「ま」
ま。
が。
く。
ず。
れ。
「まが……崩れ?」
何となく口に出した。
「何?」
きゅうが顔を上げる。
「いや」
悠斗は最初のページまで戻った。
書かれた文字を、一日目から指で追う。
ま。
ん。
げ。
つ。
の。
よ。
る。
そこで、指が止まった。
「満月の夜」
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う。
ら。
や。
ま。
が。
く。
ず。
れ。
悠斗は、最初から続けて読んだ。
「まんげつのよる、うらやまがくずれ……」
文章は、そこで途切れている。
あとに何が続くのかは、まだ書かれていない。
それでも、ただの一文字遊びではなかった。
悠斗はノートを持ったまま、窓の外へ目を向けた。
三日間、空を覆っていた雲が切れている。
雨に濡れた裏山の上に、丸い月が浮かんでいた。




