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宵待保育園  作者: もちむぎ


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第十五章 辞めます

第十五章 辞めます


 その日の朝。


 悠斗は自宅へ戻ると、靴を脱ぐより先に言った。


「俺、あそこ辞める」


 台所から、包丁の音が聞こえていた。


 一定の間隔で続いていた音が、ぴたりと止まる。


 エプロン姿の深雪が、包丁を持ったまま顔を出した。


「何を?」


「仕事」


「仕事を始める前から辞めていた男が、今度は始めて十二日で辞めるの?」


「うるさいな」


「新記録ね」


「そういう話をしてるんじゃない」


 悠斗は靴を脱ぎ、居間へ上がった。


 深雪は何も言わず、台所へ戻った。


 まな板の上には、細く切られたキュウリが並んでいる。


「何でキュウリなんだよ」


「安かったから」


「一本、きゅうにやれば喜ぶぞ」


「仕事を辞める人が、園児への差し入れを考えるのね」


「これは別だ」


「そう」


 深雪は再び包丁を動かし始めた。


 悠斗は食卓の椅子へ座った。


 昨日までなら、母親は怒鳴っていたはずだ。


 三千万円。


 借用書。


 内臓を売るか就職するか。


 あの紙を持ち出し、悠斗の鼻先でひらひらさせていたに違いない。


 しかし、深雪は何も言わない。


 キュウリを切る音だけが続いている。


「止めないのかよ」


「辞めたいんでしょう?」


「そうだけど」


「なら、辞めればいいじゃない」


 悠斗は母親の横顔を見た。


「何か企んでる?」


「失礼ね」


「母さんがそんな簡単に許すわけないだろ」


「許してはいないわよ。次の仕事は探してもらうから」


「やっぱりか」


「当たり前でしょう。辞めたその日から、就職活動を始めなさい」


「一日くらい休ませろよ」


「六年休んだでしょう」


「六年前の休暇を、今の俺に適用するな」


 深雪は切ったキュウリをボウルへ入れ、塩を振った。


 しばらく両手でもみ込んでから、静かに尋ねる。


「何があったの?」


「別に」


「十二日間、あれだけ文句を言いながら毎晩行っていたのに、急に辞めるんでしょう。何かあったに決まっているじゃない」


 悠斗は答えなかった。


 倒れてくる棚が頭に浮かぶ。


 赤い眼鏡をかけためめ。


 間に合わない、と思った瞬間。


 いわおの腕に残った赤い跡。


「子どもが、けがしそうになった」


 深雪の手が止まった。


「けがは?」


「なかった」


「そう」


「俺がもう少し遅かったら、あった」


 深雪は何も言わない。


「棚が倒れた。固定金具が緩んでた。園長の確認不足だって言ってたけど、俺も毎晩あの部屋にいた。気づかなかった」


「悠斗」


「もし間に合わなかったら、俺のせいだろ」


「どうして?」


「見てたのは俺だから」


「園長先生もいたのでしょう?」


「いたけど、俺も保育士として金をもらってる」


「保育士ではないわね。資格がないもの」


「今そこを突く?」


「大事なことよ」


「補助でも同じだよ。子どもを預かってる」


 悠斗は自分の手を見た。


 棚が倒れたとき、めめを抱えた手だった。


「俺には無理だ」


 声に出すと、急にそれが正しい答えのように思えた。


「今まで、自分一人が失敗するだけだった。バイトを辞めても、学校に行かなくても、困るのは俺だけだった。でも、あそこは違う。俺が失敗したら、子どもが死ぬかもしれない」


「そうね」


 深雪は否定しなかった。


 その一言が、悠斗の胸へ重く落ちた。


「怖いんだよ」


「そうでしょうね」


「だったら――」


「怖くない人に預ける方が、私は怖いけれど」


 悠斗は顔を上げた。


 深雪は、塩もみしたキュウリを水で洗っている。


「子どもを預かっているのに、何が起きても自分の責任ではないと思える人。失敗しても、次があると思える人。そういう人の方が向いていると思う?」


「知らない」


「少なくとも、怖いと思ったあなたは、そこで初めて仕事を始めたんじゃない?」


「十二日前から始めてるよ」


「三千万円を返すために出勤していただけでしょう」


「返すとは言ってない」


「借用書には書いてあるわ」


「勝手に作ったやつだろ」


 深雪はキュウリの水気を絞った。


「辞めるなら、自分で園長先生に言いなさい。子どもたちにも」


「何で子どもにまで言うんだよ」


「毎晩会っていた人が、何も言わずにいなくなるの?」


「別に、十二日しかいないだろ」


「小吉君は、あなたがいるか確かめないと眠れないのでしょう?」


 悠斗は口を閉じた。


「めめちゃんは、あなたのジャージの赤い線を見て歩く。ことちゃんは、あなたが近くにいれば予言を止めてもらえる。みんなにとっては、十二日も、でしょうね」


「母さん、見てたみたいに言うな」


「あなたが毎朝話すのよ」


「話してない」


「きゅうちゃんが両足を水につけた。めめちゃんが黄色を見分けた。こはくちゃんの変身は耳と尻尾だけが残る。大河君の声が少し大きくなった。いわお君は壁になる場所を選べるようになった」


 深雪は指を折りながら数えた。


「小吉君が一人でいられた時間も、毎日教えてくれたわね」


「……そんなに話したか?」


「話したわよ」


「覚えてない」


「私は覚えてる」


 深雪は小皿へキュウリを盛りつけ、悠斗の前へ置いた。


「食べて、寝なさい。辞める話は、今夜自分でしてきなさい」


 悠斗はキュウリを一本つまんだ。


「これ、朝飯?」


「嫌なら内臓を売りなさい」


「そこへ戻るのかよ」


          *


 夜。


 悠斗は宵待保育園の門の前に立っていた。


 辞めると言うだけなら、園児たちが来る前でいい。


 夜久園長に話して、そのまま帰ればいい。


 子どもたちにまで言えと母親は言ったが、そんな必要はない。補助が一人いなくなるだけだ。夜久園長が適当に説明すれば済む。


 悠斗は門を開けた。


「遅い!」


 中から、きゅうが飛び出してきた。


「うわっ」


 悠斗の腹へ頭の皿がぶつかる。


「待ってたんだから!」


「まだ始業時間前だろ」


「キュウリは?」


「何の話だ」


「持ってきてくれる顔をしてる」


「どんな顔だよ」


 悠斗の手には、ビニール袋が下がっていた。


 中には、深雪が持たせたキュウリが六本入っている。


「これは全員で分けるやつだ。お前一人のものじゃない」


「伝説のキュウリ!」


「スーパーの特売品だ」


 保育室から、ほかの園児たちも出てきた。


「悠斗先生」


 めめが赤い眼鏡を押し上げる。


「今日も赤い」


「毎日同じジャージだからな」


「洗ってる?」


「洗ってるよ」


 こはくは自分の姿のままだった。


「今日は悠斗先生になってないよ」


「それが普通だ」


「でも、ちょっとだけならなれる」


 こはくの髪が黒くなり、顔が悠斗に近づく。


 耳と尻尾は残ったままだ。


「見て」


「昨日より似てるな」


「本当?」


「ああ。でも今日は、そのままでいろ」


「はーい」


 大河は悠斗を見ると、小さく頭を下げた。


「こんばんは」


「聞こえた」


「まだ何も言ってない」


「こんばんはが聞こえたって言ったんだ」


 大河は少し照れたように口元を緩めた。


 いわおの腕には、小さな湿布が貼られている。


「痛いか?」


「もう、ちょっとだけ」


「今日は壁になる練習は休みだ」


「できるよ」


「休むのも練習だ」


「そうなの?」


「今決めた」


 ことは悠斗の前まで歩いてきた。


 黒い子牛の体が、ぽてぽてと音を立てる。


「あしたはぁ」


「着いて早々やめろ」


 悠斗はことの口を塞いだ。


 その光景を見て、きゅうが笑う。


 いつもと同じ夜だった。


 悠斗だけが、いつもと違っていた。


 ジャージのポケットには、昨夜書いたノートが入っている。その最後には、歪んだ丸と十二連勝の文字がある。


「悠斗君」


 夜久園長が職員室の扉から顔を出した。


「少しよろしいですか?」


 悠斗はうなずいた。


 今言う。


 園児たちから離れ、職員室へ入った。


 夜久園長が向かいの椅子を勧める。


「昨夜の件ですね」


「はい」


「やはり、いわおの腕が気になりますか?」


「それもあります」


 悠斗は座らなかった。


 立ったまま、両手をジャージのポケットへ突っ込む。


「俺――」


 玄関の方から、切羽詰まった声が聞こえた。


「あ、あの、すみません!」


 小吉の母親だった。


 小吉を抱いたまま、何度も頭を下げている。


 小吉は母親の首へ両腕を回し、しっかりとしがみついていた。


「今夜は無理かもしれません。さっきまでは行くと言っていたんですけど、門の前へ来たら離れなくなってしまって」


「おかあさん」


 小吉の目に涙がたまっている。


 母親の膝が、わずかに震えていた。


 すでに小吉の体重が増し始めている。


「申し訳ありません。職場には、遅れると連絡します。このまま連れて帰って――」


「小吉」


 悠斗が呼んだ。


 小吉が母親の肩越しに顔を上げた。


「悠斗先生」


「いるよ」


「朝まで?」


「朝までいる」


 答えたあと、悠斗は職員室にいる夜久園長を見た。


 夜久園長は何も言わなかった。


「下りられるか?」


 小吉は母親へしがみついたまま、首を横に振った。


「下りない」


「お母さん、仕事だぞ」


「いかない」


 小吉の体が、さらに重くなる。


 母親が苦しそうに息を吐いた。


 悠斗は小吉の前へ立った。


「昨日、自分で歩いて避難できただろ」


「きょうは、じしんない」


「地震がなくても歩け」


「おかあさんといる」


「今夜、ずっとお母さんといたら、明日の夜も離れられなくなるぞ」


「いい」


「よくない。お母さん、困ってるだろ」


 小吉は母親の顔を見た。


「困ってないよ」


 母親はすぐに言った。


「小吉と一緒なら、お母さんは大丈夫だから」


 その声が少し震えていた。


 悠斗には分かった。


 大丈夫ではない。


 小吉を安心させるために、そう言っているだけだ。


「小吉」


 悠斗は両手を伸ばした。


「五秒だけ抱っこしてやる」


 小吉は悠斗と母親を交互に見た。


「五秒?」


「それ以上重くなったら、床に置く」


「床?」


「俺の腰が壊れるからな」


 しばらく迷ったあと、小吉は母親の首から腕を離した。


 悠斗が受け取る。


 ずしりと腕へ重さがかかった。


「重っ」


「まだ重くない」


「普通の時点で重いんだよ」


「ふっくらしてるだけ」


「誰に教わった、その言い方」


「おかあさん」


 母親が困ったように笑った。


 悠斗は小吉を抱いたまま、数える。


「一、二、三、四、五。終わり」


 床へ下ろす。


 小吉は母親の服へ手を伸ばしかけた。


 その手が、途中で止まる。


「悠斗先生、いる?」


「いる」


「めめちゃんも?」


「いる」


「きゅうちゃんは?」


「キュウリの袋を勝手に開けようとしてる」


「開けてない!」


 保育室から、きゅうの声が返ってきた。


「こはくちゃんも、大河も、いわおも、こともいる。朝になったら、お母さんが迎えに来る」


 小吉は白いひげを握った。


 目から、一粒だけ涙が落ちた。


 それでも、体は重くならなかった。


「……いってらっしゃい」


 母親の顔がゆがんだ。


 今度は母親の方が泣きそうになっている。


「行ってきます」


 小吉の頭を撫で、立ち上がる。


「本当に、いいんでしょうか」


「駄目なら連絡します」


 悠斗が答えた。


「朝まで、お願いできますか?」


「はい」


「この子が朝までいられたこと、一度もないんです」


 母親はバッグを胸へ抱えた。


「途中で必ず連絡が来ると思って、これまで長い仕事は全部断っていました。今夜、初めて最後まで働けます」


「そうですか」


「悠斗先生がいるなら行けるって、家では言っていたんです」


「俺は先生では――」


 否定しかけて、やめた。


「……行ってらっしゃい」


 母親は何度も頭を下げ、門を出ていった。


 小吉は、その背中が見えなくなるまで玄関に立っていた。


 やがて悠斗のジャージの裾をつかむ。


「いった」


「ああ」


「おしごと」


「ああ」


「ぼく、泣いてない」


「一粒は泣いた」


「泣いてない」


「じゃあ、そういうことにしておく」


 小吉は悠斗の裾をつかんだまま、保育室へ歩き始めた。


 職員室の前を通ったとき、夜久園長と目が合った。


「お話の続きは?」


 悠斗は立ち止まった。


 ジャージの裾には、小吉の小さな手がある。


 保育室では、きゅうがキュウリの袋を開けようとしている。


 めめは折り紙を顔へ近づけ、こはくがその色を教えていた。


 大河といわおは、倒れないよう壁際の棚を押して確かめている。


 ことが、ぼんやりとこちらを見ている。


「……後でいいです」


「そうですか」


「まだ始業前ですから」


「もう始まっていますよ」


「細かいな」


 悠斗は小吉と一緒に、保育室へ戻った。


          *


 その夜、小吉は初めて、朝まで母親を待つことができた。


 途中で二度泣いた。


 一度目は午前二時。


 二度目は午前四時。


 どちらも母親へ電話をかけずに済んだ。


 午前四時のときには、悠斗の足元へ毛布を持ってきて、自分から横になった。


「そこ、俺が動けないんだけど」


「いる?」


「いるよ」


「じゃあ、ねる」


「せめて少し離れろ」


 返事はなかった。


 数秒後には、もう小さないびきが聞こえていた。


 午前五時半。


 門の外から、小吉の母親が走ってきた。


 小吉は眠そうな目をこすりながら、自分の足で玄関まで歩いた。


「おかあさん」


「小吉!」


 母親がしゃがみ、両腕を広げる。


 小吉は駆け寄った。


 抱きついた瞬間、二人とも泣いた。


「最後まで働けたよ」


「ぼくも、さいごまでいた」


「うん。頑張ったね」


「悠斗先生、いた」


 母親は、小吉を抱いたまま悠斗へ頭を下げた。


「ありがとうございました」


「俺は何もしてません」


「いてくれました」


 悠斗は返事をしなかった。


 それだけでよかったのだろうか。


 特別なことは、何もしていない。


 小吉を五秒だけ抱き、二度泣いたときに隣へ座り、足元で寝るのを邪魔に思いながら放っておいただけだ。


 ただ、朝までいた。


 小吉が何度も確かめた通りに。


          *


 園児を送り出したあと、悠斗はノートを開いた。


 きゅう。キュウリを全員で分けた。自分の分だけ大きいと言い張ったが、同じ厚さ。


 めめ。黄色と赤を近距離で判別。形はまだ不明。


 大河。小吉が泣いた際、「ここにいる」と声をかけた。本人に届いた。


 こはく。悠斗への変身、昨日より精度が上がった。耳と尻尾は残る。


 いわお。右腕の痛みは軽減。壁の練習は休み。


 小吉。母親不在で朝まで過ごした。泣いた回数二回。母親への連絡なし。


 こと。「ず」と発言。予言には至らず。


 園児、全員無事。


 悠斗は最後の一行の横へ丸を描いた。


 今度は、歪まなかった。


 十三連勝。


「それで、お話とは?」


 夜久園長が尋ねた。


 悠斗はノートを閉じた。


「俺、この仕事――」


 辞めます。


 その一言を言うために来た。


「この仕事?」


「……向いてないと思うんですけど」


「はい」


「そこは否定してくださいよ」


「ご自分でそう思っているのでしょう?」


「思ってますけど」


「では、私が否定しても仕方ありません」


「相変わらず、園長らしくないな」


「よく言われます」


 悠斗は頭をかいた。


「ただ」


「はい」


「辞めるのは、もう少し後にします」


「もう少しとは?」


「せめて、小吉が俺の足元じゃなくても眠れるようになるまで」


「それだけですか?」


「きゅうが少し泳げるようになるまで。めめの目がもう少し見えるようになるまで。こはくが耳と尻尾をしまえるようになって、大河が必要なときに声を出せるようになって、いわおが通路を塞がず壁になれるようになるまで」


「ずいぶん長くなりそうですね」


「それから、ことが予言を言い切らないようになるまで」


 夜久園長が微笑んだ。


「それは、さらに長くなりそうです」


「困ったな」


「困りましたね」


 悠斗はため息をついた。


 玄関から朝の光が差し込んでいる。


「とりあえず、今夜も来ます」


「お待ちしています、悠斗先生」


「だから先生じゃないって」


 今度の否定は、自分でも驚くほど弱かった。

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