第十四章 悠斗先生
第十四章 悠斗先生
十二日目の夜。
「おい。何をしている」
保育室へ入った悠斗は、扉の前で立ち止まった。
部屋の中央に、悠斗がいた。
正確には、悠斗の姿に化けたこはくがいた。
黒いジャージ。寝癖のついた髪。気だるそうに曲がった背中。片手には、悠斗が毎晩使っている記録用のノートまで持っている。
かなり似ていた。
頭の上に狐の耳が二つ生え、尻から二本の尻尾が出ていることを除けば。
「全員、生きていれば勝ちだ」
こはくが、低い声を出した。
「似てる!」
きゅうが手をたたく。
「次、きゅうちゃん。池に近づくな。キュウリを取りに戻るな。あと、うるさい」
「そこまで言ってないだろ」
本物の悠斗が口を挟むと、全員が振り返った。
「悠斗先生!」
きゅうが叫んだ。
「先生ではない」
「悠斗先生が二人いる」
めめは赤い眼鏡の位置を直しながら、悠斗とこはくを交互に見ようとした。まだ細かな違いまでは分からないらしく、顔が右へ左へ迷っている。
「赤い方が本物?」
「どこを見て判断してるんだ」
「ジャージ」
悠斗のジャージには赤い線が入っている。
こはくのジャージにも同じ赤い線が入っていたが、尻尾に隠れて半分見えなくなっていた。
「本物はこっちだ」
「声は同じ」
「俺は、そんなにだるそうに話してない」
夜久園長が、湯飲みを手にしたまま横を通り過ぎた。
「よく似ていますよ」
「園長まで何を言ってるんですか」
「背中の曲がり方が特に」
「俺、こんなですか?」
「もう少しひどいですね」
悠斗は無言で背筋を伸ばした。
こはくも同時に背筋を伸ばす。
「まねするな」
「まねするな」
「やめろ」
「やめろ」
「その耳と尻尾をしまってからやれ」
「そこは、まだできない」
こはくは悠斗の姿のまま、胸を張った。
胸を張ると、二本の尻尾も得意そうに持ち上がる。
悠斗はこはくからノートを取り上げた。
「勝手に触るな。大事な記録なんだぞ」
「こはくも書いたよ」
「何を」
開いてみると、新しいページに、丸がいくつも並んでいた。文字らしきものもあるが、ほとんど読めない。
「きょうも、ぜんいん、いきてる」
こはくが言った。
悠斗はページを見つめた。
大きさのばらばらな丸が六つ。その端に、赤い線の入った黒い棒のようなものが描かれている。
「これは何だ」
「悠斗先生」
「細すぎるだろ」
「ごはんを食べないから」
「余計なことまで観察するな」
きゅうが悠斗の足へしがみついた。
「次は僕が悠斗先生になる!」
「ならなくていい」
「キュウリを食べながらゲームする!」
「俺を何だと思ってるんだ」
「にーと」
「誰に教わった」
「深雪さん」
「母さん」
悠斗は天井を仰いだ。
母親は自分のいないところで、園児に何を吹き込んでいるのだろう。
「悠斗先生」
今度は、足元から声がした。
小吉が毛布を引きずりながら立っている。
「だから先生じゃない」
「いる?」
「いるよ」
「じゃあ、先生」
「どういう理屈だ」
小吉は悠斗のジャージの裾をつかんだ。
母親が仕事へ向かってから、すでに一時間が過ぎている。玄関を振り返る回数はまだ多い。それでも今夜は泣かずに保育室まで入れた。
「お母さんは仕事だろ。迎えに来るまで、ここにいる」
「悠斗先生も?」
「俺は朝までいる」
「じゃあ、だいじょうぶ」
小吉は裾をつかんだまま、毛布の上へ座った。
「簡単に信用するなよ」
「悠斗先生だから」
「先生ではない」
言い返す声が、先ほどより少し弱くなった。
*
その夜の遊びは、いつの間にか「保育園ごっこ」になった。
実際に保育園にいるのに、わざわざ保育園ごっこをする意味が、悠斗には分からない。
先生役はこはく。
姿は悠斗。
園児役は、きゅう、めめ、小吉、こと。
大河は本人の希望で、迎えに来る父親役になった。
いわおは保育園役だった。
「僕だけ建物なの?」
「適任だろ」
「適任……」
いわおは少し嬉しそうに横へ広がった。
非常口の前ではなく、保育室の壁際だった。赤い印はない。それでも自分で場所を確かめ、誰の通り道にもならない位置を選んでいる。
「朝まで全員生きていれば勝ちだ」
悠斗姿のこはくが言った。
「きゅう。池に入るな」
「はーい」
「めめ。眼鏡を落とすな」
「はーい」
「こと。しゃべるな」
「それは違う」
本物の悠斗が訂正した。
「ことは普通にしゃべっていい。予言を最後まで言うのが駄目なんだ」
「あしたはぁ」
「それも今は駄目だ!」
悠斗はすぐそばにいたことの口を塞いだ。
ことは半分眠ったような目で、悠斗を見上げている。黒い子牛の体についた尻尾が、ゆっくりと左右へ動いた。
「今のはわざとか?」
ことは口を塞がれたまま、首をかしげた。
「絶対分かってないな」
「悠斗先生、すべった!」
きゅうが叫んだ。
「滑ってない。普通に歩いただけだ」
「いつもは、こう!」
きゅうは床へ腹ばいになり、そのまま両手を前へ伸ばした。
「言うなあああ!」
叫びながら、床を滑るまねをする。
全員が笑った。
大河も口元を手で隠し、肩を小さく揺らしていた。
「毎日スライディングしてるわけじゃないぞ」
「三回見た」
めめが言った。
「五回!」
きゅうが訂正する。
「数えるな」
「悠斗先生、もう一回」
小吉まで床に腹ばいになった。
「お前がやったら床が抜ける」
「まだ重くない」
「まだって言うな」
小吉は手足を動かして進もうとしたが、毛布が腹の下に巻き込まれ、その場でじたばたするだけだった。
「進まない」
「見れば分かる」
悠斗は小吉の脇へ手を入れ、立たせた。
そのまま離そうとすると、小吉の両腕が首へ回ってくる。
「おい」
「抱っこ」
「歩けるだろ」
「いま、あるけない」
「さっき歩いてた」
「つかれた」
「保育園ごっこで何に疲れたんだ」
小吉の体が、ほんの少し重くなった。
「分かった、分かった。泣くな。五秒だけだぞ」
悠斗が抱き上げると、小吉は満足そうに肩へ頬を載せた。
見た目は小さな老人なのに、抱きつき方は完全に幼児だった。
「いーち」
きゅうが数え始める。
「にーい」
こはくも続く。
「さん」
めめが言った。
「し」
ことが言った。
「ご」
大河の声も重なった。
悠斗は小吉を床へ下ろした。
「はい、終わり」
「もういっかい」
「次は朝だ」
「朝も?」
「言葉のあやだ」
小吉は不満そうだったが、今度は自分の足で毛布まで戻った。
その様子を見ていた夜久園長が、湯飲みを持ったまま微笑んでいる。
「何ですか」
「いいえ。ずいぶん先生らしくなったと思いまして」
「なってません。五秒抱いただけです」
「最初の夜なら、抱き上げる前に逃げていたでしょう」
「逃げても重くなって追いつかれるでしょう」
「では、合理的な判断ですね」
「そうです」
悠斗はそう答え、小吉に引っぱられて伸びたジャージの襟を直した。
*
午前一時を過ぎたころ。
園児たちは机を囲み、折り紙をしていた。
こはくは狐。
きゅうはキュウリ。
大河は小さな青い車。
いわおは長方形の紙を折らずに立て、「壁」と言い張っている。
めめは赤い眼鏡をかけ、黄色い折り紙を顔へ近づけていた。
「黄色」
「正解」
悠斗が答えると、めめは少し笑った。
形はまだよく分からない。折り目も見えにくい。それでも、眼鏡をかけ始めたころより、色を判断できる距離が少しずつ伸びている。
「今日は、太陽を作る」
「夜なのに?」
「夜だから」
「そうか」
悠斗にはよく分からなかったが、めめがそう決めたのなら、それでよかった。
窓の外で、低い音がした。
遠くを大型車が通ったような、地面の底を転がるような音だった。
吊り下げられた照明が、わずかに揺れる。
「地震か?」
悠斗が顔を上げた。
揺れはすぐに収まった。
ほんの一瞬だった。
園児たちも不安そうに天井を見ている。
「大丈夫です。小さな揺れですよ」
夜久園長が言った。
「念のため、窓から離れましょう」
悠斗が園児たちを机の下へ誘導しようとした、そのときだった。
壁際に置かれた古い木製の棚が、ぎしりと音を立てた。
上段には、使っていない積み木の箱が載っている。
棚が、ゆっくりと前へ傾いた。
「……危ない!」
大河の声が響いた。
大声ではなかった。
けれど、今まで悠斗が聞いた中では、一番はっきりした声だった。
悠斗が振り向く。
棚の前に、めめが立っている。
赤い眼鏡越しに天井を見上げたまま、傾いてくる棚には気づいていない。
「めめ!」
悠斗が床を蹴った。
同時に、いわおの体が横へ広がる。
「守る壁!」
いわおは、めめと棚の間へ滑り込もうとした。
しかし、距離がある。
間に合わない。
悠斗はめめの体を抱え、床へ転がった。
直後、背後で大きな音がした。
棚が倒れ、積み木の箱が床へ落ちる。色とりどりの積み木が、激しい音を立てて散らばった。
いわおが広げた体が棚の端を受け止め、完全に床へ倒れるのを防いでいる。
保育室が静まり返った。
「……めめ」
悠斗は腕の中を見た。
めめは目を丸くしていた。
顔にある二つの目だけではない。袖から出た腕や首元にある小さな目も、一斉に瞬いている。
「痛いところは?」
「ない」
「頭は打ってないか?」
「打ってない」
「眼鏡は?」
赤い眼鏡は少しずれていたが、壊れていない。
悠斗はめめの頭から足まで、何度も確かめた。
「本当に、どこも痛くないか?」
「ないよ」
めめは不思議そうに悠斗を見上げた。
「悠斗先生が来たから」
「……そうか」
声がうまく出なかった。
倒れかけた棚は、いわおと夜久園長が元へ戻した。背面を確認すると、壁に固定していた金具が緩んでいた。
「申し訳ありません。私の確認不足です」
夜久園長が言った。
「今夜中に、すべての棚を点検します」
「俺もやります」
「悠斗君は園児たちを」
「俺もやります」
自分でも驚くほど強い声が出た。
夜久園長は少し黙り、うなずいた。
「分かりました」
大河が、離れた場所に立っている。
大きな体を、いつもよりさらに小さく縮めていた。
悠斗は大河の前へしゃがんだ。
「教えてくれてありがとう」
「……声、大きかった?」
「ちょうどよかった。お前が言わなかったら、気づくのが遅れてた」
「怖くなかった?」
「何が?」
「僕の声」
悠斗は大河の目を見た。
「怖かった」
大河の顔が曇る。
「棚が倒れるのが怖かった。お前の声が聞こえて、助かった」
大河はしばらく黙っていた。
やがて、もう一度、小さく言った。
「危ない」
「うん。それでいい」
悠斗はいわおのところへも向かった。
「腕は痛くないか?」
「ちょっと、じんじんする」
「見せろ」
いわおの平たい腕には、棚の角が当たった跡が残っていた。夜久園長が冷たい布を用意し、悠斗がそっと当てる。
「赤い丸、なかった」
いわおが言った。
「ああ」
「でも、壁になった」
「ああ。今度は自分で場所を選んだな」
「間違ってない?」
「間違ってない。めめを守った」
いわおの顔が、ゆっくりとほころんだ。
きゅうは、散らばった積み木を拾っている。
こはくは、まだ悠斗の姿だった。
しかし、狐の耳はすっかり伏せられ、二本の尻尾も床へ垂れていた。
ことは悠斗のすぐ横に立ち、黒い牛の体を寄せている。
小吉は毛布を握りしめたまま、悠斗を見ていた。
「もう大丈夫だ」
悠斗が言うと、小吉が尋ねた。
「悠斗先生、いる?」
「いる」
「朝まで?」
「朝までいるよ」
小吉は安心したように、毛布を抱え直した。
園児たちは、それぞれの場所へ戻っていく。
悠斗だけが、その場から動けなかった。
もし、大河が声を出さなかったら。
もし、めめを抱えるのが一秒遅かったら。
もし、棚がもっと重かったら。
もし、いわおが下敷きになっていたら。
考え始めると、いくらでも出てきた。
昨日まで、朝になったとき全員が生きていれば勝ちだと言っていた。
それはゲームのようで、分かりやすかった。
けれど、今の音はゲームではない。
床に散らばった積み木も、いわおの腕に残った赤い跡も、抱き上げためめの軽さも、全部本物だった。
「悠斗君」
夜久園長が声をかけた。
「顔色がよくありません」
「暑いだけです」
「今夜は涼しいですよ」
「じゃあ、運動不足です」
悠斗はしゃがみ、積み木を拾い始めた。
一つ。
二つ。
三つ。
手が、わずかに震えていた。
*
明け方。
悠斗は、いつものノートを開いた。
大河。危険を知らせることができた。今までで一番よく聞こえた。
いわお。指定位置ではなかったが、自分で判断してめめを守った。右腕に軽い打撲。腫れなし。
めめ。棚の転倒に巻き込まれかけた。けがなし。眼鏡の破損なし。
こはく。悠斗に変身。耳と尻尾は残る。声と姿勢はかなり似ている。
きゅう。散らばった積み木を最後まで拾った。途中でキュウリ型の積み木を持ち帰ろうとした。
小吉。母親不在で二時間。泣かずに過ごした。抱っこ五秒。
こと。「く」と発言。予言には至らず。
棚の固定金具、全数点検。二か所に緩み。締め直し済み。
園児、全員無事。
悠斗は最後の一行を見つめた。
いつもなら、その横へ大きな丸を描く。
十二連勝。
そう書いて、喜ぶはずだった。
ペン先を紙につける。
しかし、丸を描く手が途中で止まった。
あれを勝ちと呼んでいいのだろうか。
結果だけなら、誰もけがをしていない。
それでも、あと一秒遅ければ、勝ちも負けもなかった。
めめは悠斗を信じていた。
小吉は朝までいるのかと確かめた。
大河は、自分の声で誰かを怖がらせなかったかを気にしていた。
子どもたちは、何かあれば悠斗を見る。
自分が何とかしてくれると思っている。
「重すぎるだろ」
悠斗は、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
ゲームなら、一度失敗してもやり直せる。
攻略法を調べ、装備を整え、もう一度挑めばいい。
けれど、ここにはやり直しがない。
悠斗は長い間迷った末、途中で止まっていた丸を最後まで描いた。
ひどく歪んだ丸になった。
その横へ、十二連勝と書く。
ちっとも嬉しくなかった。
「悠斗先生」
背後から声がした。
振り返ると、めめが立っていた。
赤い眼鏡を外し、両手で大切そうに持っている。
「どうした。寝てなかったのか」
「眼鏡をしまう場所が、分からない」
「ケースは避難袋の横だ」
「見えない」
「ああ、そうだったな」
悠斗は立ち上がり、めめの手を取った。
「こっちだ」
「うん」
めめは悠斗の指を握り、ゆっくりと歩きだした。
「悠斗先生」
「先生じゃない」
「悠斗先生」
「何だよ」
「さっき、ありがとう」
悠斗は答えなかった。
答えられなかった。
ただ、めめが棚の角へぶつからないように、歩く速さを少しだけ落とした。




